Interview アートに関わる様々な方へのインタビュー記録

ローゼル川田

アトピックサイト

Profile

元EDGE編集員

■アトピックサイト展:沖縄サイトの概要

岡田)1996年8月に東京国際展示場において行われた展覧会『Atopic Site』展(以下、アトピックサイト)のプログラムの中で行われた、沖縄プロジェクトで事務局や作家としても関わったローゼル川田(以下、R・K)さんに伺います。まずは、事務局としてどうかかわっていったのか、その時起こったことなどをお話下さい。

 

R・K)まず、騙されたって感じだね(笑)。まず翁長直樹(当時沖縄県立美術館準備室学芸員)さんから、僕に話がありました。最初に耳に入ってきた言葉が印象的でした。「アトピックサイト」「アーティスト・イン・レジデンス」とか耳慣れない音でした。「なにそれ?」って感じで、話し合いになりました。それが、世界都市博覧会が中止されたことによる東京都の補償事業として開催されるアトピックサイト展だと分かりました。アトピックサイトの意味は転移する場所として特定しない場所みたいな、、、、感じ。都市とアート、社会とアートをテーマに諸外国のアーティストに呼びかけ、いろいろな場所で滞在し、交流し作品を制作して東京ビックサイトを会場に開催されるのだと知りました。

アトピックサイトの沖縄プロジェクトとは、沖縄の地に数人の外国のアーティストを招聘して当地で地元の人たちや学生も含めて交流しながら、制作活動を展開するというものでした。主催者は東京都で、運営を委託されたのは大手の広告代理店でした。

東京側のキュレーターには柏木博氏、四方幸子氏、建畠哲氏、高島直之氏、沖縄側の担当には翁長さんと交流のあるアート・プロデューサー、批評家としても著名な岡崎乾二郎氏が窓口で、沖縄におけるアーティスト・イン・レジデンスの事務局が必要だということになり、民間でもあり、法人の確定申告もしていることもあり、僕の事務所が適しているとなった訳です。「都市とアート」や「社会とアート」の響きの良い言語に盛り上がった訳ですが、初めての体験で、しかも東京都からのバジェットが組まれて予算化されているので、それほど考える間もなく組まれた予算を数か月間で実行し、配分する業務を東京都の広告代理店との緻密な契約を締結して行いましたが、その遂行業務は想像をはるかに超えて、アートと猥雑なエネルギーが混在して転がっていきました。

外国から数人のアーティストがこの島に滞在し、主なレジデンスには読谷のゆめあーる(写真家の比嘉豊光氏が経営していたペンション)があてられ、制作活動が開始されていきました。それに加え、その都度いろいろな場所でワークショップや講演会が開催され、地元の人たちやアーティストたちと交流を深めるのが目的でもあったので、東京側との窓口として、沖縄側のプロデュースやまとめ役として、収支のチェック業務を翁長さんと遂行していきました。それが結構、至難の業になってしまう訳です。その一方、各セクションで多くの人たち、美術関係者の協力があり助けられました。

そのような情況の中で、誰にとっても初めての体験であるアーティスト・イン・レジデンスの舞台となり、その後からパブリックアートの言葉を耳にするようになっていったので、沖縄のパブリックアート元年というのかな、アトピックサイトの沖縄プロジェクトからパブリックアートシーンが始まっていったのだと、言えると思います。その後の表現行為に何らかの影響を与え、起点にもなったのだろうと考えます。

台湾出身でアメリカから来たシュー・リー・チェンは読谷のゆめあーるに滞在し制作活動を開始しました。翁長さんをはじめ、沖縄側の美術関係者や若い人たちが活発に動きました。アーティストとの打ち合わせや様々な交渉、身の回りの事など多岐にわたり、翁長さんと僕はほぼ連日、那覇から制作現場に通い、ギャラの支払い日の交渉や諸経費などリアリズムの世界とアートの世界が錯綜しました。

シュー・リーとの関わりによって翁長さん始め僕らは頗る鍛えられ極度の疲労感とアーティスト・イン・レジデンスの極限をある意味で体験することが出来たと言っていいと思います。表現などについては、シュー・リーのいつも近くに居た比嘉豊光さんの話を聞いて下さい。翁長さんがそこでかなり「しーぬがりーん(抜け殻)」になる様子を身近で感じていました。今、思えば、それらの事はアーティストと身近に長時間関わっていくことのリアリズムを教えてくれたと思います。

 

■首里『ザンギリス』という拠点

そのことを含めて、僕が印象的だったのは、パフォーマンス・アーティストのスザンヌ・レイシーがアメリカから来沖し、ワークショップや講演会をやったことです。首里の儀保で僕が設計した、リトアニアの強い酒の名を命名した『ザンギリス』というカフェで開催、その他の場所でも講演会を精力的に開催され、パフォーマンス・アート作品が上映されました。その作品は400人以上のシニア婦人たちが4人席のテーブルに座り、赤のテーブルクロスを一斉に裏返すパフォーマンスの俯瞰映像でした。一斉に赤い色が白色に音もなく変わる一瞬の美しい映像に魅せられた記憶が鮮やかに蘇ってきます。特定の作られた共同体は何によって繋がり得るのだろうかと。『ザンギリス』のオーナーは過剰なエネルギーを秘めていたので、意味を問わず、頻繁にその場を提供してもらいました。丁度よい空間だったこともあり、那覇での集まりやワークショップは、ほとんどそこでやることが出来ました。

特に、スザンヌ・レイシーのワークショップをやった時には、いろんな人がきました。豊平ヨシオさん(アーティスト)や今ではニューヨークを拠点に世界で活躍する、当時大学を卒業したての照屋勇賢くん(今や世界の勇賢なので、さん付けにしよう)やいろんな人がきて、そこでスザンヌ・レイシーの作品を観ながら照屋勇賢さんはスザンヌ・レイーシーの雰囲気に合ったように、興味深気にいろいろ聞いていた記憶があります。それをきっかけにして、アメリカ行きへの弾みが増し自信にもなったのでは。若手作家が集められ、アトピックサイトと同時に開催された『オン・キャンプ/オフ・ベース』展には、沖縄側からは照屋さんが出展することになり、いつもメモ用紙を持ち歩き構想を練っていた光景が浮かんできます。

頭ではパブリックアートだとか、地域の中で作品を作っていくっていうことがわかっていても、やっぱり実際やっていくと、大変でしたね。人対モノではなく人対人が難行だということをこれから生かすことが出来たら、特に若い人たちに繋がったら良いと実感しています。

そのジャンルのプロデューサーの必要性をとても強く感じました。否、他のジャンルも含めて沖縄にはその道の専門家が現れることを期待しています。俄か仕立てで遂行して、いろいろありましたがよく行程をこなしたと自負してます。ねじれた感じの着地だったかも知れないが、次の世代が積み上げれば良いなと思いますが、沖縄ではどうかな?継続してシステム化していく人間の関係性があまりないような気がしていて、個人個人の好き嫌いの関係性が肥大化しているのを感じます。だれも言わないので自分で自分を慰めたり(笑)。

 

話を戻して、東京の代理店からは、契約書が大量に届きました。夜中まで20ページを超える契約書を解読し行程表と予算書を書いたり、現場の進捗状況を書式化したりしていると、そのようなリアルなシステムを大都市は生きているのだと実感しました。そういう意味では結果としてはよかったのかなと思います。今でも、アトピックサイトの契約書やその他の書類などが多分、事務所にありますが、あの遠い日々を思うと、アーティストのクリストの作品のように梱包して怖くてもう解けなくなっていますね(笑)。

その頃沖縄にクリストも来ましたし、同時期に偶然、ジョナス・メカス(映画監督)も来ましたね。二人は偶然にも沖縄で会い、驚き合っていたのがとても印象的でした。これ、あまり関係ないかな(笑)。その年は、世界的なアーティストが沖縄に来ました。

さらにその頃、高嶺剛監督が『夢幻琉球つるヘンリー』の映画製作に取り掛かっていた頃でした。タイムリーだったかは分からないが、翁長さんと僕の間で、シュー・リーの制作場面の短いドキュメンタリー映像を高嶺監督に撮ってもらえたらという話になった。僕が映画に関わっていることもあり、話を切り出しました。忙しい最中ではあったが、引き受け入れてくれました。高嶺監督とシュー・リー・チェンの組み合わせはユニークな感じになりましたが、高嶺監督は東京ビックサイトまで行くことになり、いよいよということになります。

 

■アトピックサイト展:東京展の様子

町田)沖縄でやったアーティスト・イン・レジデンスの制作プロジェクトがあって、これを東京ビックサイトで展示することになる訳ですが、東京での展示の話をもう少し聞かせて下さい。

 

R・K)先ず、東京でのアトピックサイト展は、東京都が中止した『世界都市博覧会』の補償事業として開催されていました。そのテーマの概略は、「都市とアート」や「社会とアート」に関して、新しい眼差しで問題を提議し、いろいろな場所で創作された作品を展示するという画期的なアイデアだったと思います。沖縄プロジェクトの作品の詳細については、翁長さんに委ねたいと思います。

確か、沖縄プロジェクトの名称や作品は、最初に会場で配布されたパンフレットには記載がありませんでしたよ。名称は「アジアのプロジェクト、アーティスト・イン・レジデンス=ヌヌのチチ」だったかと思います。いずれにしても主催者側による参加者や作品等の審査基準や検閲があり、展示作品の政治性の表現の問題性と、実際を明確にしようと「公開質問状(http://www.araiart.jp/ap.html)」が発表されたということだと思います。

 

町田)翁長さんは「沖縄担当キュレーター」として活動されたとありましたが?

 

R・K)そうですね。「企画協力」になったり「協力者」になったり「出品作家」になったり、逆に考えるとシステムの意図するところと表現者や参加者との接続面が浮かびあがったこともあり、ある意味での普遍性を抱えていたと言えますね。端的に言えば、作品の内容や政治性を表現の中でどのように捉えるかは、解釈度が問われることでもあります。アートが状況を潜りぬける柔軟さと強靭さを併せ持つことが大切かなと思います。

話は脱線しますが、ちょうどその頃沖縄で『リトアニア版画展』を企画し、展示会を開催しました。リトアニアの歴史は戦争の歴史でもあり、平坦な国なので、水平線からも地平線からも敵の襲来があるわけですよ。想像しただけでも項垂れます。アーティストたちの版画作品の中には表現の主体がカモフラージュされてかくれんぼしていました。版画作品などでもとても小さいサイズになり、持って逃げやすいようになってました。強かな柔軟さを感じます。

話を戻して、「沖縄プロジェクト」=「アジアのプロジェクト、アーティスト・イン・レジデンス=ヌヌのチチ」の沖縄側の人たちは、作品も役割もアンナタイクンナタイ(あれになったりこれになったり)しアマハイクマハイ(あっち行ったりこっち行ったり)した訳です。

 

町田)主催者側の検閲とはどういうことに関してなのでしょうか。

 

R・K)主催者側から沖縄プロジェクトへ、沖縄側からでてきた作品の表現についての政治性等に対して修正を求めたということでもあった訳です。シュー・リーの作品は沖縄で起こった事象(アメリカ軍基地に関わる事件・事故)をフラッグを実際の場所に点在させることにより顕在化させ展示したものと映像などがありました。

 

岡田)展示に際して検閲とどう向かい合ったのか、はねのける方法など詳しく聞かせてください。

 

R・K)写真、テキスト、映像などの展示作品を演出する意味で「ヌヌとチチ(円筒形の布)」の作品を作り、器としての機能も果たし、その内外で充実した作品を展示しました。円筒形の布は沖縄で製作し現地で組立てました。高さが3m程、直径6m程だったかな。ひと目だとなんだか「象のオリ(読谷村楚辺通信所)」にも似てますが、円筒形のフォルムはシンプルだし、幾何学的だし普遍性があるので、その形態にした訳です。形態心理学ってのもあるし「象のオリ」に見えたのは自然かも。沖縄でのレジデンスの結果を展示しないといけないわけですよ。展示するということは、何か「モノの形態」が見えなければいけないわけですよね。見せ方のアンカーに「ヌヌのチチ」はなったかもしれません。

映像作品を円筒形の布に映したり、チラシのテキストを展示したり、回収されたり、シュー・リーのフラッグの言葉がポエティックになったり、いろいろありました。

 

同時に開催された若手作家たちによる『オン・キャンプ/オフ・ベース』展に出展した照屋勇賢の作品は面白かったですよ。概略は、アメリカ軍のネイビーやマリーンの払い下げのTシャツを使用し、英語の文字を日本語に置き換えたり、アレンジしたりして数百枚?プリントして、Tシャツを洗濯干し場のように並列に干していったというものです。その一角に洗濯機を配置して、延々とTシャツを洗濯し干していく行為を繰り返す。鑑賞者はTシャツ干場の通路を行き交い、中には自分のTシャツと交換して着る人もいて、言葉がプリントされたTシャツはアウトプット、インプットされ、作品のもつ性格がTシャツの商品に横断していったり。洗濯機を搬入した東京に住むボクの友人の電気屋さんは、首を傾げながら設置して、その光景を唖然と見つめていました。それも小さなレジデンスのヒトコマでした。帰り際に「汚れてもないTシャツの洗濯をなぜ繰り返しているの?」と呟いていました。

アトピックサイト展は、8月1日~25日までの会期を終えても、制作活動した元の場所(サイト)に戻って、その活動を続けていくこともコンセプトの一つでした。沖縄においては、さっき言ったようにパブリックアートの起点にもなり、その後、サイトとして残り盛り上がっていったと思いますね。いずれにしても表現の自由と規制の相反する事象は、沖縄だけではなく世界性を抱えていると思います。大がかりなアトピックサイト展でありながら、果たして、沖縄ではどれだけの方々に届いたであろうかと考えると、結構、知らなかった方々も多く、無意識のセクショナルな選定と広報不足を痛感したり、精神的な余裕の無さも感じました。

 

■人材を積み上げていくこと

岡田)このような大掛かりなイベントを回し、且つやりたいことを実現するには、しっかり組織体制を作り、契約や交渉をどうしていくかというのは重要な課題ですね。

 

R・K)これらの様々な事象に対して、広告代理店的力学のみではなく、対応したり、呼応したり、生み出したり出来る総合的な眼差しと実践能力を持ったプロデューサーが必要不可欠だと実感します。例えばね、アトピックサイト展を遂行する上で、先ず、現実的な事務局として、主催者側の必要条件は、アートシーンのコンセプトのみではなく、過去3年間の法人の確定申告書や納税証明書を提出して下さいから始まる訳です。翁長さんはその辺も見越して、ボクの事務所にしたのだと思います。申し込み期限も2か月間くらいしかなかった。沖縄プロジェクト参加の申し込みや契約書の締結からすべては始まる訳ですよ。その書類のやりとりが結構、緻密に行われた。「ヌヌのチチ」の作品を製作しながら並走していました。そういう場面になったときに、きちっとそれを見据えることができる人。訳も分からず僕らは、そういうのをやっていっていて苦労して着地しましたが、最終的にはやってよかったと思う訳ですよ。そうでなければパブリックアート元年もその時点ではなかった訳です。今は、文化事業に関する助成金もありますが、あの頃は過剰なエネルギーだけでやっていた沖縄のイベントもたくさんあった。収支の予想を超えて、持ち出ししたり熱意のある理解者を巻き込んだりした思い出があります。その方々の顔は、過ぎ去った今でも思い出します。好きな言葉ではありませんが、人の優しさの付き合いを感じながらやっていたので、いつまでも記憶に残るのだと思います。

 

話は広がりますが、イベントや展示会、講演会などの文化的活動が盛んに開催されていますが、人材の広がりと横断性を共有することが大事だと思います。自らの範囲を特定していくのではなく、拡散していくことかも知れません。それによってシステムを構築し次の世代へそのシステムを渡していくと人材もシステムも積み上がっていくのだと思いますね。なんだかんだやっているだけでは、何も残らない気がします。後に続かない。後からやる人たちも、前例を掘り起こさない。ようするに切断された時間軸と空間って感じがします。人材はとりこむものではなくて共有して生かしていくものだと実感してます。アトピックサイト以降のいろんなイベントとかを見てもね、かつてやった人たちのネットワークが生かされてないし、生かしてもない、システムを構築してもいない。これは無理もないことかも知れません。いろいろ本業をする傍らしなければならないこともありますね。その都度やっているわけですよね。その昔、いつも台風がきて、風景を吹き飛ばしていってね、また初めからみたいな感じで、積み上げることができなかった沖縄の風土のひとつにも似ているな、と思ったわけです。

国吉宏明さんは、30年以上前かも知れませんが、国吉ギャラリーをやってました。沖縄の陶芸作家やアーティストを長年に渡り支えてきたのだと思っています。それは、上原誠勇さんの画廊沖縄にも言えることだと思います。そのジャンルの人たちを受けとめる眼差しが大切だと思いますね。過去にやってきた人の経験はあまり活かされておらず何をやっても、また0からか、とかね思うわけです。俯瞰して見据える眼差しによって人が生かされてくるのだと思います。

 

聞き手岡田有美子、町田恵美
収録日2014年10月5日