Interview アートに関わる様々な方へのインタビュー記録

国吉宏昭

前島アートセンター

Profile

国吉不動産社長/元前島アートセンター理事/沖縄ベトナム友好協会理事

■前島3丁目の歴史

岡田)今日は前島アートセンターの成り立ちについて、そのきっかけを作った国吉さんにうかがいたいのですが、まず、前島アートセンターができる前に行われた企画「ベトナム現代作家展」についての経緯についてうかがってもよいでしょうか。

 

国吉)なぜ前島アートセンターができたかというその前の話があるわけさ、前島アートセンターがあった場所は昔高砂殿と言っていたでしょ。この高砂殿というのは結婚式場だったわけです。沖縄で最初かな?結婚式場。それからね、『赤い靴』という高級キャバレーがあってさ、そこが行きつけでした。行く度に一万円とられていました。『赤い靴』は生ピアノがありました。珍しく、生歌が聞けるということと、女性がさみんな高級ドレスみたいなのつけてさ、あれ、こんな話していいの?(笑) そして、飲み屋が確か30軒から40軒入ってましたよ、あのビルの中に。一世を風靡したんだよね。この高砂殿のあったビル(高砂ビル)というのは前島界隈の飲み屋街のキーテナント、中心だったわけさ。それまで桜坂がメインだったけど、そこから前島に中心が移りました。前島はね、もう24時間毎日お祭り。なぜかっていうとね、船乗りさんがいるでしょ、彼らがセリ終わったら飲みにくるわけ。セリは、朝4時、5時ですよね、だからそういう人たちも来ていました。それから向こうは泊港だから、離島航路の宿が3、4軒くらいあったわけさ、今もあるかな。ま、そういう界隈のところに高砂ビルというのがあって、でも暴力団抗争というのがあって、だんだん人が離れていってね、飲み屋ビルが活気を失っていきました。その時高砂ビルのオーナーだった山城幸雄(以下幸雄)は、僕の高校時代の後輩だったんですよ。彼も沖縄ベトナム友好協会の事務局長をやっていて、友好協会の事務所をビルにもってきたわけです。そうしている間に僕は、沖縄県舞台芸術振興共同組合(SAPS)というのをつくり、『赤い靴』にSAPSステージってのをつくりました。そこで音楽の練習したり発表したりをしようということで、SAPSの拠点として動かそうとしたわけです。そうしたらそこの奥さんが幽霊がでるといって、せっかくつくったのにさ、出て行ってしまって。もう頭にきたよ。

 

 

■ビルオーナーと美術館学芸員の出会い

国吉)前座が長くなったけど、僕は当時アートによる街おこしとか、まちづくりというような本を読んでいたわけです。

 

岡田)それは、新宿ゴールデン街での展覧会のことですか?

 

国吉)いや、それより前にどこかの商店街にあるギャラリーのオーナーが中心となって、展覧会をやったっていうのがありました。これはね、ギャラリーのオーナーが中心としてやっていたから、一過性で継続して毎年やるというのは考えていなかったわけです。それを読んだ後、新宿ゴールデン街でのアートプロジェクトの記事をベトナムから帰ってくる飛行機の機内で読みました。週刊誌がおかれていて、それを見てたらゴールデン街でアートをやってるって、もうこれ見てさ、破ってからすぐその足で幸雄に会いに行きました。

 

町田・岡田)破ったんですか(笑)

 

国吉)うん、破ってね「えー幸雄、やるんだったらこれだよー」って言って。じゃあこれをやるためにはどうするか、って考えました。前田比呂也(当時沖縄県立美術館準備室学芸員、以下前田)がさ、『NPO法人琉・動・体』というのを作っていたでしょ、そのメンバーだった花城郁子さんから琉・動・体というのをつくって、美術に関する勉強会をやってるよって聞きました。当時金沢21世紀美術館の学芸員だった長谷川祐子さんがゲストだったのかな、話を聞きにいってめちゃくちゃ面白かったんですよ。その時に偶然そこで、翁長直樹(当時沖縄県立美術館準備室学芸員、以下直樹)とさ、前田に会ったわけなんですよ。あの頃はね、県立美術館は当面作らないと県は言って予算が凍結されていたんです。それで直樹も前田もこれはくすぶってるだろうと思って、二人に声をかけて。「おいお前達、美術館当面できないから、面白くないだろ」と。「そうなんだよ」っていうからさ、「じゃあ、美術館のまねごとでもやるか」っていってさ、「出来るか?」っていうから「できるよー」といって。それで高砂ビルに連れて行ったわけです。連れて行ったらさ、もう前田がめちゃくちゃやる気になってさ、直樹も喜んでさ、それで幸雄に会わせていろいろ話したら、幸雄が協力していいって言いました。

 

 

■前島三丁目ストリートミュージアム

国吉) 一階のギャラリーがあったでしょ、あそこは最初喫茶店だったわけです。そこを拠点にしてやろう、って。ただそこは集会場として集まるだけだから、隣にギャラリーを設けようって話をして。それで直樹がね、連れて来たわけ。開邦高校の美術科で直樹の生徒だった潤ちゃん(宮城潤・初代前島アートセンター理事長)を。かわいそうにさ。(笑)

 

町田・岡田)かわいそうに(笑)

 

国吉)あの頃彼は沖縄県立芸術大学の彫刻を卒業した後、奥原製陶所ってところにいて、首里城の修復をしたりして、稼いでいたらしいです。それでしばらく遊んでもいいってことを直樹は知っていたんですよね。直樹に話してあったわけです、飲み屋を使って、こんなことをやりたいって。それでこれをやるためには、アーティスト集めなきゃいけないねって話をして、アーティストっていってもね以前に声をかけた大御所は飲み屋でやるっていったらすぐこんな感じに(鬼のようなジェスチャー)なったわけです。

 

岡田)怒ってたんですか?

 

国吉)美術を冒涜してるって言ってね。それで直樹に話したら彼はよく理解をしてて。じゃあ潤ちゃんって面白いやつ連れてくるからって言って、一緒に潤ちゃんと幸雄と私で飲み屋街を飲み歩きました。それから、計画を立てる時になぜベトナムかっていうと、前田が沢山ベトナムの絵を買っていてこれが倉庫に眠っていたもんだから、じゃあオープニングと一緒にやろうということになりました。あともう一つはベトナム友好協会の事務所があったということです。

 

岡田)高砂ビルの中で幸雄さんがベトナム友好協会の事務局をやっていたからなんですね。

 

国:ビルの一番上に事務所がありました。それで、展覧会『前島3丁目ストリートミュージアム』をやりました。飲み屋ビルの空き部屋が30カ所くらい、パンドラの箱が開いたみたいにさ。幸雄に冗談で「おい、これ全部開けれ」って言ったらさ、渋ってたわけですよ、でも「お前使わんと腐れるだろ」って言って。「いや、もう倉庫みたいに汚くなってるよ」と言うから「若い子たちが全部改装してきれいにするよ」って言ったら「ほんとね?じゃあやるよ」っていうから連れて来たんです(笑)。そうしたらねすごいんだよ、展覧会がさ、ビル内30店舗と外のお店や空き店舗で10店舗から20店舗くらいかな。もううれしくなってさ、その時沖縄タイムスか琉球新報か忘れたけど新聞社がかけつけて、確か新聞のね、一ページの半分くらい使ってその展覧会の地図を作ってくれたわけ。そうしたらもう飲み屋のおばちゃんたちが喜んじゃって。これからですよ、それからしばらくして、『アートNPOフォーラム』が最初に神戸だったかで開かれて、第一回目で潤ちゃんがパネリストとして呼ばれました。これが大きかった。その時、僕も一緒に行けばよかったのね、あの頃仕事優先でアートなんかまだ遊びだったからお前行って来いっていったわけです。これが僕をだめにしました。あそこで行っとけば僕はアートに狂っておかしくなっていたはずですよ。(笑)行かなくてよかったと思ってます。

 

町田・岡田)笑

 

国吉)あれから潤ちゃんが(いい意味で)おかしくなったんですよ。

 

岡田)それは、全国のネットワークを知ったからですか?

 

国吉)アートをやっている人たちが拠点を設けて、『前島三丁目ストリートミュージアム』のようなことをやったのは、当時前島アートセンターが初めてだったんですよ。この事例を発表してくれ、ということで潤ちゃんがパネリストとして行ったわけです。もう、かっこいいよね。

 

 

■ビルオーナーの協力

国吉) 僕はそこで最初オペラをやろう、って言ってたんです。ムーラン・ルージュってのがあったでしょ、パリに。あれを支えたボヘミアンってのがいた。そういう環境をこの辺りにつくると面白いなっていう妄想があったわけです。でもオペラはだめになって、僕も昔ギャラリーやってたから、もうしょうがないからギャラリーやろうかな、って思ってたときに例の新宿ゴールデン街のグラビアがでたわけです。あれはね、すごくわくわくしましたよ、その時には前田も直樹もめちゃくちゃがんばってくれました。ただ哀しいかな二人とも県の職員で続けられないさ、それで潤ちゃんが前に出ることになって。当時はお金の集め方も何にもわからない。ましてやこんなのに、スポンサーになる人もいないから、もう拝み倒しましたよ、幸雄に。家賃タダにして、当面電気代もタダにして、って。少し余裕が出て来たら電気代も払うし、クーラー代も払うと言って。あれから数年間の潤ちゃんの苦労は並大抵じゃないよ、僕はねちょっと放ったらかしすぎました。ベトナム友好協会も忙しかったし。でもね、幸雄との出会いはこれなんですよ。いわゆる飲み屋ビルってのが一世を風靡した時代から、ゴーストタウン化していったというこの時代の流れ。それで前島って飲み屋街から松山っていう飲み屋街に人の集まる場所が移動しました。これ不動産屋にとってはね、もう大変ですよ、僕も不動産屋だったから、幸雄からしょっちゅう相談を受けていました。

ただ何故彼が前島アートセンターをやろうとしたのかその理由がもう一つあるわけです。幸雄はね、前島三丁目で生まれて育っているんです。彼が大学時代、前島が毎日お祭り騒ぎだった頃を見ているわけ。自宅はビルから歩いて一分のところにありました。それから彼も結婚して、子どもができて、子どもたちが中学、高校に入るころは、もう後ろ指を指されていたわけですよ、前島は怖い所って。彼はそれでね、非常に落ち込んでいました。それで僕と話した時に、若い人たちを集めて活気のあるビルにしたいっていうので「お前、若い人たちはここの家賃払いきれんぞ、家賃なくてもいいのか」って言ったら、「いい」って。それから、前島アートセンターが本格的に動き出しました。これはね、幸雄のね理解と協力がなければ生まれなかったんですよ。幸雄に会ってね、僕の人生もおかしくなったけど(笑)。ただね、やはり不動産は商売だよね、前島アートセンターが軌道にのりつつあるときに、実は幸雄と一緒にあちこち歩いてね、プランニングをたてたわけです。もう既存の飲み屋の人たちに頼んでテナントに入ってもらってもどうせつまらないから、もういっそのこと家賃を半分以下にしろ、って言ったわけです。面白いねものだね、半分以下にしたらさ、若い人たちが集まってきました。面白い飲み屋とか、『cotef(コテフ)』とか。

 

岡田)沖縄県立芸術大学の学生だった5人の女の子たちが始めたスペースですね。

 

国吉)そうそう、最高だよね、あんなのが出てきたでしょ。飲み屋なんだけど一風変わってるお店が沢山できて、あれこそ幸雄と二人で考えていたスタンスでした。

 

 

■ビルの閉鎖

国吉) ビルももうちょっと頑張ればどうにかなるな、って時に銀行の締め付けがきつくなった。この時に潤ちゃんと相談して、幸雄にビルの総収入と経営、全部オープンにして潤ちゃんと相談しろって言ったんだけど、結局オープンにしませんでした。それで潤ちゃんも本腰いれきれなかったんです。証券会社が来て、もうビルよこせって言った時に俺のうちに幸雄がきて、もう一回再建計画建てようってことになりプランニング立てたの、嘘だよ、半分は。でも帳尻合わさないといけないから。でもそれじゃあだめって通りませんでした。今考えたら、あの頃いろんな面白いテナントが入って来た時にあと2、3年でもがんばれば、あのビルは最高でした。全国を見ても未だにない。6階建てのあのビルにボヘミアンな変なやつが集まって、面白いことをやっていると、これが実現できたんですよ。後から考えても癪に触るわけです。

 

岡田)あとちょっとのところでしたよね、あの時はすごかった。

 

国吉)そう、あとちょっとのところ。しかもあの時にさ、前島3丁目の人がようやく理解してくれて。

 

町田)あの時って何年目くらいですか。

 

岡田)2007年だからオープンして、7年目くらいでしょうか。それはアサヒアートフェスティバルに参加した企画、『祝・前島3丁目まつり』をやったことが大きかったですよね。

 

国吉)あれはね、潤ちゃんの仕掛けが上手でした。それと毎回自治会の会議にファシリテーターとしてきていた、まちづくりNPOの佐々倉玲於さんがまた抜群によかったんです。あのころ僕も何度か会議にでたけど、めちゃくちゃ会議の進行が上手でした。

 

岡田)会議を前島三丁目の三角公園で行って、会議の進行内容をプロジェクションして周りから見えるようにしたりしましたよね。

 

国吉)潤ちゃんの仕掛け、もうお祭りを組み立てていくプロセスは最高でしたよ。前島音頭をつくろうねといい始めて、亀島良泉(当時MAC理事で音楽家)が盆踊りの音楽は作曲するけど、作詞はみんなで考えようねって言ったら、三丁目の歌を詠む先生が私がつくるって言ったり。すごいことじゃない。前島にあれだけ若い人たちが来てがちゃがちゃして。それから感動的だったのは提灯づくりのワークショップ、町の人たちとアーティストたちと一緒に提灯つくったでしょ。あれは最高でした。あんなギャラリーはないよ、子どもたちが走り回って。美術館はこうあるべきですよ。

 

 

■栄町市場への移転

岡田)その後どうしようもなくなって、ビルがなくなることになって栄町市場に移りましたね。ビルを閉鎖することに決まって、次の場所を探そうとなった時に、国吉さんが栄町のスペースを見つけてきたと思うのですが、どういう経緯だったのでしょうか。

 

国吉)それは金城艶子さん(栄町市場南米料理SUDAKAオーナー、沖縄キューバ友好協会理事長)と知り合いだったから。艶子に話にいったらさ、面白い場所があるよ、って紹介してもらいました。

 

岡田)なぜ艶子さんに話をしに言ったのですか?

 

国吉)彼女も国際交流をやっていたから憲法九条の会なんかで一緒になって、その時に栄町の彼女のお店で何度かミーティングしました。それと僕自身が栄町生まれなんだよね、国吉ミシン店というのが僕の生家です。

 

岡田)それでおもしろい場所があると艶子さんが教えてくれたんですね。

 

国吉)そう、それと栄町市場の『かのう』という総菜屋さんで、カメラマン(嘉納辰彦さん)のお兄さんが栄町市場の振興組合の役員をしていて面白い場所あるよ、って教えてくれました。

 

岡田)ただあの時栄町以外にも、久茂地川沿いのビルとかいくつか移転先の候補があったように記憶しています。前島アートセンターのビルがなくなる時に、いろんな人が次ここに来てと場所を教えてくれたり、声をかけてくれたのがうれしかったと以前に国吉さんから聞きましたがどうですか。

 

国吉)2、3カ所ありましたよね。久茂地川沿いの一階がキャバレーだったビルとか。

 

岡田)ビルがなくなるといった時に、国吉さんの不動産屋さんのお友達が、うちに来て欲しいっていくつか声をかけてくれていましたよね、でもそういう場所でなくて栄町市場にしたのは何でだったのでしょう。

 

国吉)家賃が安かったことかな。

 

岡田)いや、でも他のところはタダでもいいって言ってましたよ、当時。私が覚えているのは、栄町をみて理事の皆さんが面白い場所だなって思ったんですよね。その時はまだ、栄町市場も町に活気がそんなにはなかったんだけど、建築としてというか町として面白かったんです。

 

国吉)そうそう、あの時はまだそんなに活気はなかったかな。今はすごい活気があるけど、あの時まではもう少し寂れていました。だからね、遊ぶならここがいいかなって思ったわけです。今考えればね空いているビルはたくさんあるんですよ、問題はオーナーがタダで貸せるっていう考えがないことです。そして人が集まるってことが、このエリアを活気づけるというのを知らない。でもね僕はもうあんまりアートによる町おこしってのを信じないです。

 

岡田)どうしてですか?

 

国吉)アートによる町おこしは難しいよ、アーティストは自分勝手すぎるし。でもあきらめたわけじゃない、方法論が間違ってると思います。沖縄で7年後かにやると今言われているビエンナーレをやるならアーティストは外から呼ばないで、生活と密着したアーティストを僕は選びたいの。

 

岡田)国吉さん、キュレーターですね。

 

国吉)キュレーターにはならないけどね。うれしかったのはさ、アーティストの山城知佳子がMACのプログラムでフィリピンに行って、いろんな人に会ってきて沖縄からの移民の人たちのレポートを出したんですよ。あれをレポートって言っているんだけど、彼女が歩いて来た足跡ってのはアートであり文化だと僕は思うんですよ。ああいうのをみるとね、アジアってのは僕もベトナムに何度か行ったけど、街とアートと人間がごった煮しているわけです。工芸家とかめちゃくちゃ面白い、生活と密着しているから。

 

 

■行政の支援と場所の提供

岡田)話は変わりますが2007年に高砂ビルがなくなった時に、今の沖縄県文化振興会『沖縄文化活性化・創造発信支援事業』のようなアーツカウンシルがあれば、ビルはつぶれなくてよかったと思いますか。

 

国吉)そうそう!絶対そう思うよ、もう俺ね喧嘩してでも一千万、二千万取ってくるよ。実は一度僕は県の観光振興の部署に相談に行っています。

 

岡田)それは最近の話ですか?それとも2007年頃?

 

国吉)いや、もっと昔。前島アートセンターができて3年後くらいかな。前島アートセンターというのがあって、こういう面白いのやっていてこれは観光振興にもなりますよって言いに行った。そうしたらね、こういうのわかりませんって言われました。でもね、純粋なアートには金を出さないよ、県は。どうしても観光っていうね、冠をいれないと。まあいれるけど(笑)できるよ、観光。

 

岡田)山城さんのビルの他に国吉さんの持っているビルも、アーティストが来た時に泊まらせたり貸し出したりしていましたよね。結局どのくらい部屋を提供していたのですか?レジデンスに。

 

国吉)今度一部屋空きますよ。

 

岡田)いや、今の話じゃないんですが、、、

 

国吉)よし、久茂地の国吉ビル、あれ古くなってもう4万5千円以上にあげられないわけです。あなたなんかが本当にレジデンスプログラムを考えるんだったら、あそこ2LDKだから、壁ぶちこわしてシェアハウスみたいにして使うってことは可能ですよ。そしてシェアハウスだったらさ、二部屋だから9万出せとは僕言わないから。これで4万くらいにするか、3万5千円くらいにするか、先行投資が大きいからそこに助成してくれるかどうかです。あの場所は中心ですよ、国際通りからもすぐ、バスもモノレールもすぐ。

■ 前島アートセンターの解散とその後

岡田)最後なんですけど、今ふりかえって前島アートセンターってどんな場所だったと思いますか。

 

国吉)これはね、沖縄のね、宝物。

 

町田・岡田)おお!すごい!!

 

国吉)最後にやった前島アートセンターの解散シンポジウムで、前島からの遺伝子が散らばっていくって言っていたでしょ。今の状況を見てごらん、散らばっていった人たちが各々頑張り始めているでしょ、これはねすごいことなんですよ。みんなばらばらになっても、何かあったらお互い連絡し合ってやっているでしょ。これはね、前島アートセンターだからなんだよ、ちっちゃいギャラリーだったらね、ここまでね遺伝子が飛び立って孵化しないですよ。みんな赤ちゃんだったんだけど、孵化する時期に、ばらばらになったから最高なんですよ。この人たちがね、文化都市をつくるキュレーターであり、プロデューサーになれるよ。ヤマトから連れて来たらだめです。

 

岡田)この人たちっていうのは誰のことですか。

 

国吉)潤ちゃんとかあなたとかさ、前島にいた人たちです。

 

岡田)私ヤマトから来たんですけど。

 

国吉)あなたは沖縄で育ってるさ、変な女がきたから、変なことになると思ったけどね。変なのはね、面白いね。まともなのは面白くないです。トリエンナーレとか、ビエンナーレとか、文化都市構想とかはね、沖縄から変えたほうがいいです。みんなね、ヨーロッパスタイルなんですよ、今韓国やってるでしょ、台湾もやってるでしょ、みんな似たり寄ったりなんです。がんばってよ、あなたたちですよ。

 

岡田)いやいや国吉さんにも不動産屋さんとしてがんばってもらわないとできません。

 

国吉)よし、じゃあ数年計画を立てましょうか。国吉ビルからは住人を追い出せないよ、簡単には 笑。追い出してからさ、3階を全部オープンにして、シェアハウスにしてやるといいじゃない。僕は合計15万くらい入ってくればいいから。

 

岡田)笑 具体的ですね。昔アーティストインレジデンスをやっていたときは、2部屋か3部屋を国吉さんにいつも借りてましたよね。1、2ヶ月レジデンスしてもらっていた。あれは部屋の提供がなかったらできなかったです。

 

国吉)あの頃はね、僕は不動産に興味がなくて、あんまり募集してなかったということと、ベトナムにしょっちゅう行ってたから必然的に空いていたんですよ。そうそう別の場所、ソープランド街のど真ん中の部屋だったら空いてるよ。あのマンション、平均年齢75歳以上。最高83歳。めちゃくちゃ面白いわけ、管理人が78歳になるおばちゃんです。栄町でお店をしている、飲み屋の現役ママよ。俺襲われそう!

 

町田・岡田)襲われないですよ! 笑

 

国吉)家賃を受け取りに毎月一回会いに行くんですよ、あんた取りに来いっていうから。むしろあのおじいちゃんおばあちゃんたちと老後のアートって何か、とかって考えた方がよっぽど面白いですよ。

 

岡田)あそこで住みながら何かできるといいですよね。

 

国吉)絶対住むべし。いろんな仕事やって来た人や、今はヤマトンチュが2人きてます。なぜヤマトから流れて沖縄かっていう話とか聞くとめちゃくちゃ面白い。その人なんかはね、まだ60代。年配の人たちはもうここに住んで20年、30年になります。新しく入って来た人たちは本土からの移住者が結構います。ソープランドが5、6軒あって唯一僕のところだけ、アパートで残っています。あれはね、元は外人アパートだったわけ、だから造りが変わっていて。あの頃は那覇に軍人さんが泊まりにきていたりして、辻一帯は外人バー街でした。夜11時過ぎるとフィルム鑑賞会があったり、面白かったよ。まあこういうところで育ったせいか、ボヘミアンってのに憧れてしまって。だからさ、正直言って美術館行くと肌が合わないわけです。でもまあ肌が合わないけど楽しんでます。今はね、(展示室にいる)展示交流員のおじちゃん、おばちゃんたち、大の友達ですよ。

 

 

聞き手岡田有美子、町田恵美
収録日2014年9月12日