Interview アートに関わる様々な方へのインタビュー記録

前田比呂也

2000年代

Profile

那覇市立上山中学校校長(元・沖縄県立博物館・美術館副館長)

▪美術館ができるまで/前島アートセンターとの関わり

 

宮城)美術館ができるまでの前島アートセンターとの関わりなどお聞かせください。

 

前田)県美の紀要(※1)に書いてあるのを読んでもらえると一番分かりやすいかな。その冒頭に、五十嵐大介の『魔女』という漫画の言葉を書いたんです。「あなたには経験が足りないからよ。体験と言葉は同じ量ずつないと、心のバランスがとれないのよ。」と。もう20年以上も前の話なので、アートシーンについての知識とか体験みたいなものが、人によってだいぶ差があったと思います。
沖縄には美術館がなかったので、観光で訪れるような美術館体験をもって美術館というのか、それとも美術館で行われる美術館活動なのかとか、そういうことが共有されていなかった。まずその体験というか、しっかりしたものを共有する方法が必要じゃないかなと、当時、美術館の準備に関わっていて思っていたことです。
美術館について色んな人が色んな話をしていたけど、美術館のことを知らないで話されていることもたくさんあって、そこをどう整理するかっていうのも難しかった。前島アートセンターは、オルタナティブ・スペースだけど、そもそも「オルタナティブ・スペース」自体を知っている人はほぼいなかったので、これを具体的な形を示していこうというのが、前島をやっているときに考えていたことです。

 

宮城)前島アートセンターはスペースが始まる前から、展覧会の企画がありましたね?山城見信さんや中島イソ子さんの展示というのは、スペースがスタートした時にはこの人たちの展示をしたいと想定していたのですか?

 

前田)いや、人ではなくて形式だね。県がつくった美術館の基本計画というのがあって、それは色んな意見もありながら作られたものだけど、そこに出てくる言葉が、みんなが体験として持っていない言葉がたくさんあった。「アーティストレジデンス」とかね。
「企画し成長する美術館」というのが美術館のキーワードのひとつだったけど、そもそも展覧会を企画するということについても同じイメージを持っていなかった。だから、そういう美術館の基本計画に書かれている文言を具体的に、教育普及活動も含めて、それはこんな感じですよ、と提示していこう、それらの中身ではなくて、スタイルを見せたかったということです。
それから、オルタナティブのスペースだったので、最初から年齢的なことを気にしていて、若い人しか来ないってなるのが嫌だったので、企画展にはベテランの人に入ってもらったり、若い人がやったりという世代間の交流みたいなこともやりたかった。それから機会の提供ですね。人を育てないといけないからね。育てるためにはいわゆるOJT(※2)で実際に仕事しないとノウハウは伝えられないところもあるので。規模は小さくても、そういう展覧会の企画であったり、評論であったり、そういうことをやる場面と色んな人の出番を作りたかった。あとは沖縄の美術は記録してこなかったので、ドキュメンテーションってすごく大事だよというのを示すために、サードストリート(※3)を発行した。
もう一つ、その頃には、美術館はやっぱりつくらないと県は決めていた。基本的には、必要性が低くニーズがないと言われていて、その状況を打ち破るための一つの方法として、社会性というか、地域と美術との関係を示そうと、できるだけコアな場所を探して、前島になって、アートを取り巻く人たちとのネットワークとか、そういうことの力を実験しようと、わりと壮大な計画だった。一応一通りやれたんだよね。やってみたけど、やっぱり、何も変わらなかった。多分、今なら全然違うと思うけど、当時はなかなか受け入れられなかったですね。基本的には、こんなことしないで、早く美術館つくれって言われていた、そんな感じですかね。

 

町田)美術館準備室は何年に立ち上がったんですか?

 

前田)準備室ではないけど、94年に、僕が学校現場から文化振興課に異動した。

 

前田)94年当時は美術館をつくるっていう話で、異動した僕の仕事は何かっていうとコンペの準備。建物のコンペをするために、どんなスペースが必要、どのぐらいの規模の物が必要っていうのを決めるために、活動内容を決めないといけないってことになって、いわゆる美術館基本計画っていうのを作りなさいというのが仕事だった。
これは前年に美術館基本構想が、大城立裕さんがリーダーになった話し合いがあって、これが行政主導なものだったから、豊平ヨシオさんとか、上原誠勇さんたちがやった県立美術館を考えるシンポジウムがあって、その中の要請の一つに、専門の学芸を準備段階から配置すべきというのがあって、僕は専門ではないけど、94年からコンペをするための準備という行政的な仕事に就いた。
これは、欠落している部分があって、例えば常設展示室をつくります、そしたら九州各県の平均値をとってこの位ね、みたいに決まっていく。ところがその時、県が所有している美術品は6点しかなかった。まず絵の収集をしましょうよとなって、でもずっとやってきていないことだから、そのための規則を整備する必要があり、購入するための基金が必要だから基金条例を制定したりと、行政的にも難易度の高い仕事を経験もないのに精一杯がんばった。
そういった事務に追われながら、普通はコレクションが先にあって入れるための建物をつくるんだけど、建物をつくるのが先だったので、まずはコレクションを形成しましょうと訴えた。そして皆で議論しましょうと。そのためにまず、戦後沖縄美術史年表を作って、それについて意見を聞きましょうと言うことで、95年、96年に『戦後美術の流れ』という展覧会をやりました。体系化された先行研究がこの分野にはなかったし、行政的な手続きも大変でした。沖縄県が主催する美術展は初めてで、展覧会をやるので、人が必要ですよっていう話をして、翁長直樹さんが次の年に来ました。
その後、自分で自治省のプログラムさがして、97年から98年にかけて、シンガポールに研修に行きました。

 

宮城)『戦後美術の流れ』の展覧会の後に小橋川秀男展はどういう位置付けだったのですか?

 

前田)展覧会の予算をとり続けて、ずっと展覧会をしよう、ほそぼそと、とでも。東松照明展や中平卓馬展、わりと大きい展覧会を、今美術館がやっているのに負けないものを、はるかに少ない予算でやってきた。そして、戦後の沖縄美術の流れというのをやりながら、ほかにキーワードを幾つか足して、それを検証しようと考えていて、その一つに移民があり、帰米二世の小橋川秀男の展覧会をやろうと。写真をやったり映像をやったり、これも基本計画に書かれていたことなので、それを実現する方法を考えてやったという感じですね。

 

町田)美術館ができないかもしれないとなったけど、展覧会をやろうと思った。

 

前田)美術館については、皆の思いがそうとうバラバラな議論で、ほとんどの人は美術館を箱だと思っていた。だから箱ができたら「そこで沖展をやらして」とか「自分たちの団体展ができるように無料で使わしてほしい」という要請もたくさんあったし、それから「自分の絵を所蔵してほしい」という申し出もいっぱいあった。でも、そこがどんな機能を持っているかという議論はあまり無かった。なぜか、いままで美術館が無かったからイメージができなかった。それなのに要望はすごく生々しかった。で、箱ができないとなった時に、美術館活動とか美術が社会に対して存在する意義とかも否定される感じになった。それは違うだろうということで、館(やかた)は無くてもできることがあるということは示さないといけなかったので、それをほそぼそとやっていたんです。
ただ行政的には施設があってはじめて人と予算が付くから、どうしようかと考えたのが県民アートギャラリーだった。県民アートギャラリーというのは条例で設置された施設だけど、そこの年間稼働率が著しく低く、ほぼ空き家だった。それの移設をしようというのが、前島アートセンターの行政的な根拠なんだけどね。

 

宮城)東町会館(※4)からやっているんですね。

 

前田)県民ギャラリーは、県内の美術家主導で電波堂ビルにつくられた。そこでの活動は活発で、僕もそこで個展をした。それが行政判断で東町会館に移設してから、ほぼ使われなくなっていた。その県民アートギャラリーの運営を僕が担当したということ。美術館準備室というものは無くて、文化振興課に美術館担当という個人がいただけ。準備室になったのはずっとあと。
行政的な話をすると、消費税の値上げがあって、全く使われていないのに使用料はアップするのかと議会から突き上げられた。美術館計画も動かないので、対応しようかと。ただあるだけじゃなくて、何で使われないのかとか、使う側のことも考えましょうという様な議論をして、高砂ビル(※5)への県民ギャラリー移設を提案してみたが、かなわなかった。最終的には環境が良くないという感じもあったと思います、多分。だからこそなんですけどね。

 

 

前田比呂也

 

▪前島アートセンター草創期

 

宮城)それが2001年、2002年くらいですか。美術館の事業再開が決定したのが2002年ですか?もうそこから、少し前からは美術館の方に移っていたのでしょうか。

 

前田)前島アートセンターは、僕はしばらくやりたかっただけど。準備してまるまる2年位しかやっていないじゃないかな。気持ちがうつったってことではんく、僕が前島を離れたのは、助成金の話が始まったので、僕は抜けました。主体性を失うので。今でもそれはそうだと思っていますけど、せっかく自前で動かしていたので、ここに大きいお金を入れようと、皆が集まり始めたのでね。

 

宮城)wanakio(※6)とかですか?wanakioの前の助成金を使ったものはビアガーデンですかね、その頃ですかね。

 

前田)助成金を入れようという事に反対だったんです、とにかく。なにがではないし、助成とったいい事業もあったと思います。どっかの支店みたいになるのが嫌だったので、ここには居場所が無いなと思って抜けたんです。その後美術館が再開することになり、それも突然降ってわいた話だったので。いずれにしろ美術館をつくるためのソフトのインフラが必要だと考えていたということ。
さっき言った体験を積むことが必要だったこと。それと前島3丁目の高砂ビルはテナントが入らず空店舗が多くて、まるで廃墟を思い起こさせるくらいだった。失礼な言い方で申し訳ないですが。
町の活性化としてアートでどうだろうっていう提案だった。それから、「流・動・体」(※7)というNPOをつくって活動していた。これは県が学芸員の留学制度を作りだいぶアメリカに送っていて、送ったけど彼らの出口は無いというパターンだった。当時、県立芸大に勤めていた豊見山愛さんの発案で、取りあえずその人たちを集めて学習会をしようと。その学習会に、国吉宏昭さんが来ていて、高砂ビルのオーナーの山城幸雄さんを紹介してくれた。それから次の段階、山城さんの模合に参加して、前島3丁目自治会の集まりに行って。それからいろんな人に場所をみてもらいましたが、ほとんどの人は全く関心を示しませんでした。理解者は翁長直樹さんと沖縄県立芸術大学(以下、沖芸)の田中陸治先生くらいかな。

 

宮城)そうなんですね。

 

前田)まあ当然ですね。前島アートセンターの構想にはもう一つ重要な要素があって、僕はここで育ったということ。高砂ビルの裏、ライト兄弟社の隣で、生活をしていた。僕の一番古い記憶はこの場所のものです。僕にとってのプライベートな場所なんです。企画運営に関するスキル・調査研究の蓄積で、後はオルタナティブ・スペースを作ることで、県立美術館の役割が明確になるかなと思っていました。美術館については、片やこちら側で旧態依然とした利益誘導的な箱の話もあり、もう一つここでとんでもない最先鋭の話もあった。それはそれで実現が不可能だろうという思いがあった。例えばスタッフを外国人にしなさいとか。現代美術だけ扱ってコレクションを持たないでやれとか。そんな美術館があるぞ、と。でも、それは歴史があって、その役割を分担する館があってそれが出てくる訳だけだけど、いきなりそれはどうかとも考えていました。
僕がシンガポールに研修したことも関係するけど、シンガポールも最初の国立美術館を現代美術館と決めた。そのことの課題をみてきた。やっぱり物事は順番もあって役割もあるかもしれない。実現が難しいこともあると思っていたので、それも含めてオルタナティブをひとつ別に置いておいた方がやりやすいかなと思っていて、この時の考えは、前島アートセンターにずっと関わるつもりでした。美術館と両方に関わる。前島でできることと美術館でできることは分けようと思っていました。これもやりたいことを示さないといけないので、前島3丁目ストリートミュージアムというのをやった。これは建築ともリンクしていて、ホワイトキューブの美術館をつくりなさいという感じだった。当時の美術館の趨勢を見ても、もうちょっとユニークな場所性であったり、その建物の性格があるものを生かしていこうという世の中になってもいた。だから、逆にこのサイトスペシフィック、とても場所が強い意味を持つ所と対比させるのが必要だろうということで前島3丁目が適当だと考えた。高砂ビルから出て周囲一帯でアートプロジェクトをやってみようということだったけども、これもなかなか理解されませんでしたね。
宮城さんも見たからわかると思うけど、学生ですら外で展示をすることを嫌がり、外に出されるのは後回しにされているという感覚がある学生もいて、あれだけの面白い場所なのに、つまらないこと言うなと思った。今ならそうは言わないでしょうけど、当時はそんなものでしたね。それから次の段落には、山城さんがベトナム友好協会をやっていた関連でベトナムの漆絵の展覧会をやったことが書いてある。展示に合わせてシンポジウムもやった。それから、琉球大学(以下、琉大)の知念肇先生が経営学の学生とフィールドワークをやったりしてくれた。だから沖芸の学生、美術の学生は少なかったけど、社会学の学生とか経営の学生が来ているというのが前島アートセンターのスタートの時の様子です。
それから次が公開アトリエです。これも美術館基本計画でアーティストインレジデンスをやると決めていたので、それってこんな感じだよと見せるためのものです。結構長い期間、山城見信さんに滞在制作してもらい、そこに色んな人が来るみたいな、なかなか面白いことだった。これで、山城見信の作品にも少し変化があったので良い企画だったかなと思います。あと身体表現も最初からやると決まっていたので、ここで宮平剛仁さんの舞踊を入れたりしています。それから言葉も大事だった。あとはドキュメントをちゃんと作る。それに関わる人を育てるっていうこと。
キーワードは「言語」、「記憶」、「身体」ですけど、これは美術館に引き継ぎたかったけど、なかなかうまくいってないと思います。プログラムの充実に加えて、スペースをつくるための工事をみんなでやり始めて、これはほんとに沖芸の彫刻家の学生が活躍してくれた。宮城潤さん、水沢透さんに助けられた。前島の近所の方がペンキを分けてくれたりして応援してもらった。とりあえず展示スペースとカフェとショップと図書館を1階に作って、そこを拠点にやろうということでしたね。それから4月にサードストリートを作りはじめて、これは宜壽次美智さんのデザインですけど、これをやりながら毎月の活動を確かめていく感じだったかな。

 

宮城)サードストリートはとても貴重な資料になっていますね。活動に関することを集中して記録されていると思います。

 

前田)そうですね、僕もこれは持っていないので。ドキュメントとして振り返ったり考えたりするということと、あとはなかなか行政のスタンスではやりにくいような主張がはっきりしているものであったりね。教育普及活動も最初から意識していたので、現代美術講座とか、映像を観ることとデジタルアーカイブっていうのもこの時にすでに考えていた。オーラルヒストリーミュージアムっていうのがシンガポールにはあって、研修中に見たのですが、このインタビューが残されているアーカイブがすごい貴重なんですね。これもやりたかったことで、当時デジタルアーカイブが流行りだったのでバグハウスの三嶋さんたちの力をかりてそれを始めた。まあ、お金が無いなら無いなりにできるんだよと見せたつもりです。

 

宮城)ソクーロフ監督の『ドルチェ 優しく』の上映会は助成金とかそういうものは全く使わずに?

 

前田)これはメルシャンからお金をいただいたのかな。で、フィルムはただで借りてきて、機材は山田高男さんが私財をなげうって準備したと思います。映像は翁長直樹さんと山田高男さんが、進めていた「映画で観る幻想としての沖縄」シリーズで充実していた。

 

町田)結構、間空けずに展覧会やっていますよね。それだけ展示する場所が無かったってことですか?

 

前田)いや、これは全部頼み込んでやったから、こっちからの仕掛け。でも例えば宮良瑛子さんもこれで大きく変わったかもしれない。いわゆるキュレーションが入る展覧会っていうのをやったことで、本人も色んな事を言語化し変わるきっかけになったと思う。本人も今はそう言ってくれています。それから例えば川平惠造さん、中島イソ子さんもいつもと違うことをしてくれた。それから、桃原須賀子さんとか、描くことからしばらく離れていた人たちを復帰させることにもなった。渡名喜元俊さん、平良晃さん、奥原崇典さんも関わってくれた。

 

町田)長いこと発表してなかった人、それぞれ事情はあると思うんですけど、場所がなかったってことではないんですね?

 

前田)前島アートセンターで、やろうとしていることを説明して、キュレーションが翁長さん、前田だったらっていうのがあった。僕らは95年、96年で一番苦しんだのは、キュレーションっていうのは何って言われたこと。なんであんたたちが決めるのって言われた。実行委員会を作って、偉い人を並べてその人たちが選ぶべきである、ということを言われ、これを覆すのが大変だった。学芸員っていうのがどういうふうに思われていたかなんだけど。それもあって、ずっと企画展でやっていくというところが重要だった。

 

前田比呂也

 

▪美術館が開館してから

 

宮城)2007年に県立美術館が開館してからのお話を伺いたいのですが、開館までにアートセンターでやってきたことと、準備室でやってきた企画っていうのが、そのままハードができてその中に、今まで基本計画にあったことを順次行っていくという中で、引き継がれていった感じでしょうか?

 

前田)僕が美術館の紀要にこれを書いた理由は、一番にそこだけど、そもそも基本計画に書かれていたことが、今、やられているかっていうのを、考えたかった。開館して10年になって、その10年目のシンポジウムでも話したけど、ちょっと強い言い方をすれば、こんなのなら美術館は別になくてもよかったんじゃないのっていう意見もあるけど、僕はやっぱりあった方が良かったと思う。10年間これがあったことで、できるようになったことってやっぱりあるんじゃないかなぁとは思う。そこにいた人たちは、それなりに懸命に努力をしてきたと思う。
一方、じゃあ美術館がある意義がちゃんと踏まえられた活動ができているかと言ったら、そこも違うとも思う。だから0点でもないし、100点ではもちろんない。そして、別に美術館ができてもできなくてもアートシーンに関係ないさーという意見もあるかもしれないけど、そんなことはなくて、美術館という建物ができたかどうかはあんまり関係ないと実は僕は思っているんだけど、美術館を準備するスタッフが県に入ったことから、大きくいろんなことが変わっていて、対応して調べてもらえばわかるけど、県外の美術展で沖縄のアーティストが紹介され始めたのは、僕らが美術館の準備を始めてからだったと思う。僕らは情報発信の窓口になれた。それは、アートシーンに大きく貢献していると思う。美術館という建物が出来る前もそれは活発だった。
僕らはスターを作ろうと取り組んでいた。それが誰か、とかは、もう少し時間がたってから検証されることだから、あえて言わない。VOCAは翁長さんや豊見山さんが、深く関わって成果をあげた。いい仕事すれば沖縄から出て行ける下地みたいなものを二人がつくってくれたと思う。僕の手柄はそこには無い。二人の努力でだいぶ変わったと思うけどね。県外で活躍してるアーティストは沖縄の美術館でやってほしいと思っているかもしれないけど、ここでやる必要はあまりないと僕は思う。

 

町田)でも、彼らにとっては沖縄で作品を作って沖縄の人に見てもらいたいっていう気持ちがあると思います。それを言うと、別に県外で発表することが到達点ではないだろうから、沖縄でやることというのは、名前を売ることとは別の、彼らにとっては意味があることなんだと思うし、ただ、若手の出番がすぐに回ってくることもないだろうなっていうのもあります。美術館の企画っていうのがどういったルールで決まっているのかっていうとこですけどね。

 

宮城)開館前に、コレクションとして収蔵していたものと、開館後に大和プレスなど寄託のコレクションも入ってきたじゃないですか?なんかこう当初、想定していたようなこういう展覧会がしたいと思っていたものとまた全然違うものが入ってきたことによって、企画のカラーというかそういうものが意図していたものと違ってきているのもあると思うんですけども、どういうふうにバランスを取っていたのですか?
その後、購入したものとか結構大がかりに受け入れたものっていうものは、どういうものがあるのですか、前田さんいらっしゃった時以降からでもいいんですけど。

 

前田)僕がいる時に特別集中的に集めたというのは、ないですよ。真喜志勉さんくらいかな。
指定管理者制度になっているので、副館長で戻って、現状を見て僕が考えた事は、もう企画展示室は諦めようということ。好きな時期に使えないし、色んな制約があったし、権限も限られているからそこはもう置いといて、企画展じゃなくて僕らだけで主体的に使える常設の展示を少しテコ入れしようした。そこで真喜志勉、安次富長昭、宮良瑛子まではやった。これはまとまった寄贈の申し出があったことと関係している。僕らが美術館を始めた時は、ある程度量を収集しないといけなかった。沖縄の戦後の美術の流れが分かるようなのを作ろうということだったからね。でも、その時はあまりみんな協力的ではなかった。

 

宮城)それは、持ち主の方、作家も含めて?

 

前田)本人も遺族も。僕らも沖縄県も信用されていなかった。美術館ができるかどうかも分からない。あなたは何者なの、と。だから、いちいち偉い先生方に同行していただかないといけなかった。そうしないと話ができない状況だった。副館長で僕がここに戻ってからは、断るのが大変になっていて、美術館も認知されてきたのかもしれない。
僕は、もう一つ、片寄りもあるかなと思います。絵画だけでなく、彫刻やデザイン、建築、映像も集めたかった。開館前はできていたから。まぁ美術館活動は継続しているので、途中で戻るとわからないことも多く、すぐ異動することもわかっているから思い切ったこともできず、かな。

 

宮城)前田さんが美術館から離れることになった、上山中学校にいらっしゃる直前の展覧会としては、一番印象に残るものとなったのはやはり真喜志さんの展示になりますか?

 

前田)真喜志さんはできて良かった。真喜志勉さんは恩師だからとかではなくて、沖縄の画家だよね、やっぱり。そういうのをちゃんと見せられて良かったと思う。真喜志先生は自分で狭い展示空間でやっていたけど、美術館の空間ならどうなるか、広い空間で見せられて面白かったと思う。スタイリッシュな展示になった。
もう一つは、僕は真喜志勉展の意義は、美術館が美術館で閉じない事だったと思っている。ペントハウスのメンバーとか真喜志奈美さんに展示レイアウトをしてもらったりとか、ああいう事は今後もやるべきだと思う。美術館は、美術館だけでなくみんなでやっていくという気持ちを持たないといけないと思う。だから今一度、みんなで作ろうというのを見たかった。そういう意味で意義深かかったかなと思う。ただ、僕の最後の企画はそれじゃなくて、グラフティーだよ。多分記録にも載ってないでしょう。(笑)あれも重要なんだよ。

 

町田)あとニシムイ展の話も聞かせてください。ニシムイっていうものを、多分沖縄の中だけのものではなく、沖縄以外のところにもその存在を沖縄県民でやるって事でちゃんと示した展示会になったから、この間の板橋区立美術館での弘中さん担当のニシムイ展(※8)にも、同じものではなく別の形で展開していったという事になると思うので。それも多分ご在任中にされた大きな仕事の一つじゃないですか。

 

前田)そうですね。ニシムイも人によってとらえ方が違っていて、僕の考えているニシムイは僕がシンガポールにいた時にリサーチしたアーティスト・ヴィレッジとの関連。それは、タン・ダウが作ったアートティスト・ヴィレッジ。
アジアのアーティスト・ヴィレッジの研究。これはあんまりみんなが分かっていない。アーティスト・ヴィレッジというのはどこにでもどの時代にもあって、やっぱり新しい実験をしようと思ったり、もっと現実的な理由だったりもするけど、取り敢えず集まってここから新しいムーブメントできるというのは当然あることなので。その一つとしてニシムイを捉えていて、そのニシムイに集まっていたことの意味はなんだったのかとかね。そういうこととかを見たいのと、これだけ社会的な状況がある中で社会的な絵画が発生しなかった理由というのは実はニシムイにあると思っているので、そういう事とかを含めて提案をしたいなという事だった。決してニシムイが素晴らしいっていうつもりがなく、どこにでもあるものとして相対化したかった。だから池袋モンパルナスと併せて展示できた事はとても面白い事であったし、色んなところにああいうのはあるのでね。

 

宮城)かなり反響はあったんじゃないですか?その板橋区立美術館の展示も含めてニシムイの展示というのは。

 

前田)いやいや、そんなもんだよ。その時その時そこにいる人って無自覚だったりしてる。何が違うかってドキュメンテーションの量でものは決まったりする。だからニシムイももうちょっとドキュメンテントがあったら、きちんと整理できたと思うけど。まあ、写真がたくさんあったからよかったけど。当時、様々なアートシーンがもっとあったかもしれないけど、ドキュメンテーションがない。そういう差もあると思う。

 

宮城)当時若い絵画の同人というものがありましたか?

 

前田)他の活動もあったと思うよ、当然。でも記録が無いと埋もれてしまう。沖縄戦後美術史もそういう意味では記録していかないと消えて無くなってしまう。前衛活動のグループNONとか。そういう意味で、前島アートセンターで考えていたのがドキュメンテーション。そういうアーカイブ化が、県立美術館の大きい仕事だからね。それはやらないといけない事です。それは直接展覧会に繋がらなくても、外部からは活動している様にみえなくても、ちゃんとやらないといけない事です。この後どうなっていくのって、それはそこにいる人次第だよ。
僕と翁長さんはやり方が違って見えたとしても根っこは共有できていると思う。仲が悪いと思われているようだけど、一緒にやってきたからね。豊見山さんも一緒だと思う。理念が共有できていると。今後はわからない。このシステムでは。もちろん、これまでにない飛躍を期待している。

 

町田)だからこそ、その理念というか、そういったものをちゃんと繋いでいくのも一つのドキュメンテーションというか美術館として残していくべき仕事ですよね。

 

前田)だからあえて紀要に書いたけどね。いろいろですよ。アーティストを消費することなく、やっぱりミッションみたいなのをしっかり確認しないといけないかも。けど、それは今のシステムではどうしてもなおざりにされがち。数字に表れないから。だけど無くてもいいって言われないようにしないといけないね。確固として揺らがないものを持ちつつ、人が変わって新しいものを付け加え、さらに成長していくって感じだと良い。僕らは行政の様子を知っているので、人が変わったらガラッと変わることを体験してきた。知事が変わったら何もかも変わった。だからドキュメントしてきた。
あなたたちは、それに関心を持ってくれているので、ドキュメントをどう活かしてくれるのか期待するけど、でもドキュメンテーションも誰かが書いているので、その人の個人的な考えかもしれないからね。何とも言えないけど、その都度その都度検証していってもらえればいいと思う。
僕は美術館をつくるのに人生の大分長い時間、しかも重要な時期の時間を費やした。だから美術館に思い入れはあるけど、でももうだからどうこうというのは無い。今いる人達が考えてくれればいいことなので。

 

町田)ただ、それが余りにも乖離してるというか、間違いは無いとしても。美術館の人達はというかそれは美術館だけで考えることではないようにも思います。

 

前田)美術館は美術館の理屈を持っているからね。みんなが関われる仕組みというか、美術館に関係している人たちがチェックできないとといけないし、要望も、監視も。そもそも税金が入っている訳ですから。チェックはしないといけないものですけどね。

 

町田)チェックというか、自分達がそこを利用するのにやっぱり良いものであってほしいっていう意味ですよね。

 

前田)チェックはやらないといけない。ただ、バランスは必要。美術館は役割が複数あるから、アーティストとしての関り方もあるし鑑賞者もあるし美術教育の立場もあるだろうから、色んな立場の人が役割を検証しないといけないでしょうね。美術館をもってアート・シーンとするかしないとかもね、そもそも。

 

宮城)まあ、でも果たしている役割というのは館が出来た後では随分と違いますよね。

 

前田)無いのとあるのでは違うんだよ。まあ、なんでも無いよりはあった方がいいけど(笑)。でも、あるからにはちゃんとやってもらわないと。なんでも枠組みで話してしまいがち。例えば公民館なんかもそうだけど、指定管理が良いとか悪いとか。そうではなく、直営でも指定管理でも同じことに陥る。何のためにとか。その変えるべきことと変えてはいけないこととかっていうのとかを、何とか決めないといけない。期待している。これからの人たちに新しい美術館像を描いてもらいたい。

 

宮城)まったく違う立場というか、今の役職に就いてどうですか?美術館でやってきたことというのは。

 

前田)僕は、美術館が開館して、そこを追い出されたイメージがある。僕は、最初から関わってきて、不遇の時代に精一杯やってきたから、自分がいないと美術館は動かないと行政は評価していると勘違いしていた。だから何言っても出されないと思い、ひとり戦っていた。でも、開館してすぐに出された。厄介者だったんだね。失意の中で新しい職場に移って行った。
県立総合教育センターという衝撃の人事。もう僕は15年ぐらい先生していなかったのに、先生方を指導する仕事になってしまった。その後、美術館に戻るまで5年ぐらいあったのかな?その間、ほぼ美術館に行かなかった。そしてその時、美術館って行かなくても何も困らないんだと思った。
僕は美術館にいる時は、美術館がないと文化的な暮らしできないよと当局に言ってきた。美術館をつくるのは、県民の悲願だとも信じていたけど、美術館を離れたら美術館に一回も行かなかった。それでも何も生活は変わらなかった。別に僕の制作にも何も影響もなかったし、見たい展覧会は外で見ることが出来たから、別に何も困らなかったわけ。
そして、美術館と僕は関係ないなと心の整理をしたのに、またパッと戻されたものだから、気持ちの立て直しをしよう、どうするかなって思っているうちに3年間が過ぎ、また美術館を出た。立場が変わったので、その立場でできることを考えているけど、できることはもう何もないかな。もう次は戻ることはない。戻るポストがないからね。もう、あとは残った人に頑張ってもらうしかない。

 

宮城)校長先生になって、中学の子供たちに美術ってこういうものなんだよっていう話を多分する機会が増えたと思うんですけど、相手がやっぱり子どもたちだから、なにか伝え方っていうのはありますか?

 

前田)アートは必要だけど、いまの状況の美術館が学校にとって必要性が高いかどうかはわからないと思っている。美術館に行かなくても美術教育はできるので。今は僕の仕事は学校経営だから、美術の授業には直接関わっていない。
美術館副館長の頃は、学芸員ではないのに、あまりに学芸業務に踏み込みすぎたなとも思っている。でも、それは教えたかったから。一緒にやって覚えてほしかったから。展覧会を一緒につくっていったつもりだったんだけどなあ。独りよがりだったのかもね。なかなか伝わらなかったかな。学芸員を学校の教員をあてる人事をやめてプロパーを取るっていうのは、重要なことで長い懸案事項だった。僕が副館長のときに実現することができた。ただ、枠と人は別、プロパーを取ると、それなりの課題も生まれる。それでも、とにかく美術館のことをほんとにやりたい人が集まることが大事だと、今でもそう思っているけどね。
美術館には美術館のスタンダードな考え方があるからね。それも重要だけど、その地域にとって必要なことを考えることも重要。この2つが相容れないことも結構、沖縄の場合はある。そこのバランスのとり方は、重要になると思う。沖縄の気持ちとかが、わからないといけないところがあるから。そこは難しいかもしれないね、結構。これは感覚だから、なかなか伝えにくいでしょうね。

 

宮城)今、2000年代のアートシーンっていうのを主軸でアーカイブをやっているのですが、琉大の昔の話とかも興味があります。

 

町田)それでいくと、2000年代のアートシーンだと前島アートセンターが大きく占めてるが、そういった動きとして、匠だったり、もっと言うとニシムイっていう共同体コミュニティーっていうもの自体が、その前身にあるんじゃないかと思っているので、2000年代に縛られず永津禎三先生にも、匠の話を中心に聞こうと思っているし、そういったものを少しずつでも、ちゃんと記録に取っておくことを繋げて考えたいと思っています。

 

前田)一応、美術史を編成する要素って決まっているよ。一つは高等教育、大学などの美術教育ね。沖縄は琉大美工科から今は県立芸大があって、そこのシフトのこととか重要。それから、美術に関する施設・機関など。今日の話題なら美術館とかオルタナティブ・スペース。前島以降、オルタナティブな所とかいろいろ動きがあるから、NPOとか。それもしっかり押さえること。それから、公募展。今は、公募展は衰退しているかもしれないけど、整理はしないといけない。もう一つは、美術団体。沖美連(※9)や女流美術(※10)とか。それと、あとは、アワードの動き。それに沿って整理していくと境目が見えますよ。2000年以降、大きく変わっているはずです。

 

宮城)長い時間、インタビューをありがとうございました。

 

(1)県美の紀要:沖縄県立博物館・美術館 美術館紀要第5号 pp.17-32 2015年「前島アートセンター」再考 –県立美術館問題とオールタナティヴスペース- 前田比呂也(沖縄県立博物館・美術館 美術館副館長)

(2)OJT:On-the-Job Training(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)の略。職場で実務をさせることで行う従業員の職業教育のこと。現任訓練。

(3)サードストリート:前島アートセンターで発行していた会員向けの会報誌

(4)東町会館:那覇市東町にあった沖縄県の複合施設。県民アートギャラリーや県立郷土劇場などが併設されていた。2009年閉館。旧労働福祉会館。

(5)高砂ビル:那覇市前島にあった前島アートセンターの事務所とギャラリーが入居していたテナントビル。沖縄初の総合結婚式場「高砂殿」も入居。

(6)Wanakio:那覇市前島や農連市場など、那覇市を中心に開催された国際美術展。2002、2003、2005、2008年の4回開催。

(7)「流・動・体」:主に沖縄県内で活動する地域の芸術文化情報の発信・文化政策提言を行うnpo法人。

(8)ニシムイ展:「20世紀検証シリーズNo.6 東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」2018年2月24日〜4月15日(板橋区立美術館)

(9)沖美連:沖縄県美術家連盟。1980年発足、1994年に社団法人化。

(10)女流美術:沖縄女流美術家協会。1977年結成。

聞き手宮城未来、町田恵美
収録日2018年8月20日