Interview アートに関わる様々な方へのインタビュー記録

上原誠勇

アウトオブジャパン

Profile

画廊沖縄オーナー

■アウト・オブ・ジャパンについて

町田)画廊をはじめた頃にはなかった美術館というものが、だんだんとこう、みえてきて、美術館ができるかもしれないといった94年頃の動きについて教えて下さい。

 

上原)「沖縄県立美術館建設を考えるシンポジウム アウト・オブ・ジャパン、そしてアジアへ」(以下、アウト・オブ・ジャパン)は、94年2月ですね。

 

町田)画廊で取り扱っている作家さんなどが関わることになるかもしれない問題だからこそだとは思いますが、 アウト・オブ・ジャパンにも積極的に関わっていますよね。

 

上原)関わりましたよ。沖展の会場でも美術館でできたらなとか、いろんな声を聞いてきた。画廊を経営するなかでもね、よく東京行ったり、あるいは外国行ったりして美術館みると、どうして沖縄にこれだけの美術家がいて、ちゃんとした文化があるのにという、思い入れはずっとありましたからね。美術館が一日でもはやくできることを望んでいました。

 

町田)そんななか構想については少し思い描いていたものと違って…

 

上原)全然違ってきましたね。

 

町田)そういうこともあって立ち上げられた会だったかなと思うんですけども、みなさんの立ち上げた時のお考えをお聞かせいただけますか。もちろんみんながみんな、同じではないと思っていますが…

 

上原)結果的に、ああいうふうに、2百何十名も集まって、RBCホールでシンポジウムを開きましたけどもね。

 

町田)それ以外の勉強会も何度もされていたんですよね。

 

上原)そうそう、真喜志勉さんの画塾のペントハウスでね。あの時も30名ぐらいは来ていたのかな。美術関係者が何度か集まって。

90年代、バブル崩壊もそうですけれども、美術館ができるといういきさつもね、92年に琉球新報の当時の美術担当をやっていた故山城興勝さん、それから沖縄タイムスの美術担当の真久田巧さん、画家の屋富祖盛美さん、幸地学のお兄さんで幸地哲さん、うちの娘、美野(中二)も一緒にフランスの美術館めぐりをしました。ポンピドーとかルーブルとかパリ市内のね、やったんですよ。ノルマンディーまで行きました。その途中にある、ルーアンも過ぎて、その辺も田舎の風景もみながら、ノルマンディー地方の港町ディエップまで。その旅は日帰りでパリに戻る予定が、終電に乗り遅れて一泊、安い宿に泊まってね、珍道中ですよ。いろんな経験があるんだけれども、沖縄に帰ってきてね、琉球新報の山城興勝さんが、夕刊に20数回かの「美術館見て歩き」記事を連載したんだよ。

美術館めぐりを。はい。週一回かな。20数回にわたって。書き下ろしですよね。そして途中に琉球新報の潮平さんが、加わるかたちで、で最終的には当時の大田昌秀知事を連載に登場させた。「なぜ沖縄に美術館ができないんですか」って質問したんでしょうね。そしたら「2000年には県立美術館オープンを計画」と連載の新聞紙上に発表しちゃったんだよ。

それから沖縄県立美術館建設検討委員会が設置された。マスメディアの企画力、本領発揮というか、こういう、要するに煽るっていったら何だけど、沖縄の貧しい美術環境、美術館というちゃんとした施設がないということで、芸術の重要性を重く受け止めたんだと思いますよ。その経緯から大田知事も2000年に開館という決意をしたんでしょうね。それで、天久新都心に米軍住宅地が返還された跡地を土地開発公社を介して、確保した。300億の予算をかけて美術館をつくることを発表したんですよ。

メディアが自発的に沖縄の美術環境と現状みてね、県立美術館が出来たらいいなということに知事がちゃんと応えてくれたっていうことですよね。だって学校の教室が展示場だった頃の「沖展」ではしょちゅう言われていたんですよ。沖縄はなんで公の美術館ができないのって。

 

町田)メディアが動いた結果ですね。

 

上原)これはね、歴史に残りますよ。多分その頃のね、1992、3年ぐらいの琉球新報の夕刊みると、大田知事の発言が載ってますよ。

そういう美術館の経緯があるなかでね、1994年3月沖縄県立美術館基本構想検討委員会から大田知事に報告書が答申された経緯がある。当初、大城立裕先生がね、検討委員会の会長になったでしょ。そこで大きく揺れたんですよ。なんで小説家の大城立裕かって。豊平ヨシオ、真志喜勉、とかが中心になって、能勢孝二郎とか。現代美術家達が中心になって、これはおかしいと。もっと専門性をの委員会長でなければと。あるいは検討委員会の「基本計画」に沿って美術館をつくるにあたって、そのコンセプト(基本理念)は慎重に立ち上げる必要があるんじゃないかということで意義申し立てをした。そして、八汐荘で合同会議ですよ。僕は画廊の立場だから、仲介役で司会進行役ですよ、どっちにも立てない、先生ご意見をどうぞっていう感じで…。

じゃあ、城間喜宏先生、はい、豊平ヨシオさん、ってかんじで、でやって、その後、大城立裕先生が会長辞退して、大嶺実清先生が会長になった。沖縄県立現代美術館(仮称)の名前がでてきて、単独の美術館、そして美術館の「基本理念」コンセプトも出来た。沖縄の美術をきちっと軸にして、そしてアジアの美術も視野に入れて、アメリカの現代美術、日本は日本として、ごちゃ混ぜにしないというか、ちゃんと分けて、だから1994年の「沖縄県立美術館建設を考えるシンポジウム実行委員会」発行の報告書の名前も「アウト・オブ・ジャパンーそしてアジアへ」になったわけですよ。ジャパンのくびき、そういうものから抜け出すのか、あるいは日本の周縁としての沖縄の場、沖縄独自の美術文化というものをちゃんとそこに位置づけようということを考えたわけですよ。それはひとつのアイデンティティーの希求だったのかもしれませんね。沖縄の独自性を求めるという。今の状況と似ていますね。

 

町田)それをきちんとアウトプットとして報告書というかたちにまでしたことで、わりと行政側にも訴えるものがあったのかなと思うんですけども、その後、また停滞というか、すぐにはできず…

 

上原)稲嶺県政になってからね、まあ、大田知事の後半になって財政面でブレーキがかかって。稲嶺県政の時に凍結されるんですけどね。その時にも僕らはまだ美術館をつくれ、という運動をしてね、デモをしたり、基金を集めたりして、やったんですよ。

大田県政のときから翁長直樹さんなんかは米国スミソニアンなんかに派遣留学したりして、準備室にいたでしょ。県庁の一階に「県立美術館建設準備室」の名前で、そこでずっと翁長直樹と前田比呂也なんかは建設に向けて活動しているわけですね当時。野原太子さんとか。海外にその研修員としてね、学芸員を派遣したりとか、そういう下準備しているなかで凍結だった。これやばいと思ってね、それで、なんだかんだで、結局、沖縄県立芸術大学の小林純子さんとか、喜屋武盛也さんとかそれまた『美術館問題について大いに語る会』(以下、大いに語る会)っていう後押しがあって、やっとここまでこぎつけたんだけど、結局は一体型の「美術館と博物館」、まあ、博物館建設計画は先に動いていたからね、だから博物館に美術館をくっつけたかたちの奇妙なミュージアムになっちゃんたんだよね。

美術館は美術館として独自のコンセプトで、単独のもの。同じ館の中にあってもちゃんとした館長をおくべきだと。なにも建物がひとつだからといって、県立博物館、なかぐろ、美術館じゃ、おかしいじゃないかということを、異議申し立ては何回もやったんですけどね。美術家連盟のひとたち、喜久村徳男さんとかね、さんざん県の文化振興課とか議員の方々にも、かけあったんですけど、だめでしたね。指定管理者制度についてもね、考えかたのいろんな違いがあったりして、話し合いがいっぱいもたれたんですけど、現在のようになった。

 

町田)94年の「アウト・オブ・ジャパン」の時には、アイデンティティーというか、基本理念のところでの食い違いが大きい。開館直前のほうの美術館問題というのは多分制度、指定管理者制度も含めてのことだったので、そういったところがちょっと違っていたから、アウト・オブ・ジャパンの時に関わっていた人達は誠勇さんぐらいじゃないですかね、そのまま、大いに語る会でも関わっているのは…

親泊さんに話を聞いたんですね、アウト・オブ・ジャパンの時のことを。そしたら、もう疲れちゃって。って言ってたから。ただ大いに語る会には、宮城潤さんたちも関わっていて、彼らからすると、94年にあれだけ熱く集まっていた人たちが、大いに語る会の時には引くような感じを受けたのは、残念に思ったかな、とは感じます。

 

上原)そうね、あの94年のアウト・オブ・ジャパンのメンバーたちが、結局もう、いいや、って感じでさじを投げたところがちょっとよくなかったのかもしれませんね。

 

■開館に向けて

町田)『開館記念展 沖縄文化の軌跡 1872-2007(以下、開館記念展)』(2007年11月1日(水)~2008年2月24日(日)、沖縄県立博物館・美術館)があって、関わってもらわないといけない人たちがいて、美術館を問題視することで、そことのパイプが切れるみたいなことも働いたのかなとも思っています。

 

上原)それは当然でてくるでしょ。そこにもしノーというメッセージをだしたら自分の作品は美術館の学芸員が関心を持たないかもしれないとか、できたらやっぱり、アトリエでたくさん眠っている描き続けた作品、とりあげてほしいっていう思いは当然あるでしょうから。あまり声高には言えないけど。

 

町田)そういう水面下の動きというか駆け引きもあったんだろうなと。

 

上原)まあ、駆け引きということまではないにしても、もうできるからいいじゃないみたいなところでね、妥協しちゃった。

 

町田)そこが空中分解してしまったので、結果として弱いものになったのでしょうか。

 

上原)そういう意味では準備室の人達、特に翁長直樹さんは吊るし上げられたわけですよ。

かなりきつかったと思いますよ。彼は打たれ強いところがあるから、ボクシングのサンドバッグみたいに、ボコボコに打たれてさ、それでも、大きな声で反論したりしない、淡々とやっている、彼の性格は美術館を立ち上げる事において大きく貢献した。

 

町田)開館記念展ではアジア美術をとりあげると当初はいってたのが、結果としては沖縄の文化展となった、その辺りの葛藤というか…

 

上原)そう当時はねアジア美術ということを全面にだしていて、後小路(雅弘)さん、福岡アジア美術館のね、翁長直樹もずいぶん繋がりがね、あったんですよ。だけどいつのまにかそれも消えてね、アジアっていうことをかなり意識して、その中の沖縄のポジションみたいなもの、そこで展開される美術、「琉球沖縄の美術」っていうことをかなり自覚していたかと思うんですね。それが全部なし崩しになったからね。

博物館と美術館が合体したから、美術館が主張できなかったと思うんですね。博物館の学芸員や予算組も博物館が多いと言うし、どちらかというと、経験も長い、博物館のいろんな展示会、前からの蓄積もあるし。そんな状況で、美術館は中国の美術家たちを当時100万とか150万で買っていたでしょ。あのジャン・シャオガン(張暁剛)とかファン・リジュン(方力鈞)とか。いまはとてもじゃないけど、1点で1~2億円以上で買えないですよ。あれ、100万ちょっと位で買っている。当時はなんでこんなものを扱うの、なんて声もあったが、アジア美術を集めなきゃって、一生懸命だったわけですよ。基本理念に沿ってね。

何も無かったところに、できる範囲内でいろんな試行錯誤しながら行政主導で、一応建ったということは、いろんな再考を促すことができたから。より内容のある美術館の営みができるように努力すればいいことなんですよ。改善して、前向きに考えればいい。できる前が大変なのよ。大変なお金がいる。そして運営するシステムの人員もあるいはその専門性をもった人たちの人材確保も必要とされる。

いまやっとベースができたでしょ。批判されて当たり前ですよ。動き出して、だって創立10年も経たないよ。欧米なんか100年以上だよ。他府県だって、50年以上だよ。だからがんがん言われて当然さ。文句言ってくれてありがとう。考えておきます。っていうぐらいのスタンスが必要。サンドバッグじゃないけど、打たれ強くなって、県民からの要望、意見を聞き、前向きな姿勢をもって改善すべきは実行していく。必ずいい美術館が出来ますよ。スキルアップを忘れずにいればね。

行政の当事者がこういう声に対してただ反論してるだけじゃだめよ。議論するのは愛情だから、その状況をいいものにするための、抗議であったり、議論であるから。本音を言って、ちゃんと話し合う事ですよ。

そういうことを避けていると、思考が沈滞するんですよ。そうすると、そこに権威性や、既得権がでてきて、権力がはびこるんだよ。これが一番あぶない。波風たてないでそのままでいいんだ、なんてね。最悪のパターンですね。そのようにならない事を望みますね。

 

聞き手町田恵美
収録日2015年2月22日