Report イベント報告

「2000年代の沖縄における美術の検証」:事例発表 町田恵美氏

2019.03.13

日時2019年1月27日(日)13:30〜16:00
収録場所沖縄県立博物館・美術館 博物館実習室
ゲスト第1部 事例発表 町田恵美氏

町田です。今回、2000年代の沖縄の美術ということで、私からは最近活発に活動を行っている団体の紹介をしたいと思っています。

その前に少し遡りますが、沖縄県立博物館・美術館が2007年に開館いたしまして、私は指定管理者所属の学芸員として開館から2016年まで勤めていました。紆余曲折あっての開館となりまして、それは2000年よりもさらに遡ってしまうのですが、その経緯についてご説明したいと思います。
その経緯に関しては、「県立美術館のあり方を考える会」が資料をアーカイブしたウェブサイトを公開しており、そちらに掲載されている安座間さんの資料をもとにお話をしたいと思います。

1945年と随分遡りますが、戦後まもなく石川市の東恩納に、県立博物館の前身である東恩納博物館ができまして、その後、46年に首里に移り郷土博物館として、博物館が始動します。その頃美術館は無くて、随分と段階を追っていきますが、その間に、86年に沖縄県立芸術大学が開校したり、90年には浦添市美術館、読谷村立美術館が開館いたします。その間、幾度となく美術館構想が立ち上がっては、消えたりしながらも、93年に県立美術館基本構想検討委員会(会長:大城立裕氏)が立ち上がりますが、その構想自体に対して、本当にそれでいいのかということで、94年に沖縄県立美術館建設を考えるシンポジウム実行委員会が発足されて、その年にシンポジウムが開催されています。そういった動きが美術関係者の中から起きて、行政に対する意見を述べていこうという動きがあるのも特筆すべき点で、その時のシンポジウムは、冊子としてまとめられていますが、登壇者も美術関係者だけではなくミュージシャンやボクサーといったバラエティーにとんだ顔ぶれで、沖縄の美術を多角的に考えていくという姿勢が資料から読めるかなと思っています。

また少し間が空いてしまうんですけども、なかなか県立美術館が建たない間、美術館建設準備室に携わっていた学芸員の面々が、前島アートセンターの立ち上げに際しても関わりをもって動いたという経緯があります。今回インタビューをさせていただいた元美術館副館長の前田比呂也さんがそれについて割と詳細に語られています。前田さん自身も長い準備期間で、建物と施設が開館しない間にも、多くの美術家の発表の場を提供していくという面で前島アートセンターを活用して、一緒に動き出しておられました。しかし前島アートセンターが動き出したと同時ぐらいには美術館の方も動きがありまして、彼らはまた美術館の立ち上げに奮闘していくといったことになります。
なので、前島アートセンター、美術館というかたちで、それぞれ沖縄の美術の中での動きが始まったわけですが、私の所属していた指定管理者という制度に対しても、やはり行政の中に民間が入っていくことで、多くの批判といいますか、議論もされました。美術館に限らず多くの地方自治体の施設で適合されている制度ではありますが、それが本当に作品を守っていくべき施設に相当するかということは今でも議論されるところではあります。
本当に指定管理者制度に対しては多くの批判というか、声が上がっています。2007年に開館して2017年に10周年を迎えましたが、指定管理者自体も公募で任期が定められています。かつて私が所属していた文化の杜共同企業体から、今は一般財団法人美ら島財団に指定管理者が変わっています。そのような体制が変わることへの齟齬みたいなものも、もしかしたら今も進行形で問題はあるかとは思いますが、そのような問題をその都度、アーティストや美術関係者がシンポジウムなどを行い考えていこうという姿勢がとても重要だと思っています。そういうアーティストイニシアティブの動きみたいなものが沖縄にはあっていいなと思っています。
開館の時は、美術館に対して厳しい意見なども多く寄せられてはいました。私も10年も前の話で少し記憶がおぼろげになっていますが、開館の日か何かに、先ほど名前が出ていたアーティストの照屋勇賢さんの発案で、作家さんたちに「美術館が収集している作品ではなく、自身の作品を自身で美術館に持ち込んでください。」と声掛けをしました。それは、そのアンリ・ルソーの《第22回アンデパンダン展への参加を芸術家に呼びかける自由の女神》のように、美術館に作家自らが作品を持参し入場するパレードのパフォーマンスの要請で、半ばゲリラ的に行って、ゲリラ的といっても一応その時の指定管理者の文化の杜が協力をしていたのですが…。アーティストのみなさんが美術館の設立経緯に反対しつつも、ようやく建った美術館に対して受け入れてこうと判断してくれたのかなと私はそのパレードを見て思いました。

町田恵美氏ただ開館をしてからも問題提起として、先ほど名前が出た「美術館のあり方を考える会」も開催されました。宮城潤さんなど若手が中心となって動いていて、これに関してもちゃんとシンポジウム終わった後に議事録が残っていますし、今でもそれはウェブ上で見ることができます。アーティストや個々人のレベル、みなさんの有志でやっておられるこのような資料を残していくこと、ただ、その意見がどこまで行政側として反映されているかという問題は残るんですが、10年経って本日美術館にみなさんがお越しいただいているという事実が、今後沖縄のアートシーンをよりよくしていくことにつながりますし、そのためにこれからも協力できることがあるのかなと、思ったりもしています。
10年経って、収集していく作品や作家などにも変遷があって、10周年展『邂逅の海』では現代美術の作品も多く紹介していたと思います。そういう表現が多様化していくなかで、公の施設だけでは、対応できない表現の場として、また新たなオルタナティブスペースが生まれてきているのかなとも思っています。
最近できたオルタナティブスペースの一つとして、2014年に沖縄県立芸術大学出身の4人が中心になって立ち上がった「BARRAK(バラック)」というスペースがあります。最初、大道のビルの一角のスペースで始めて、今は以前那覇造形美術学院として使われていた場所に移転し、メンバーも増えて同世代の面子が関わっています。このスペースは、一階が工房、二階がギャラリー、三階がアトリエと各階で用途が別れています。彼らの面白いところは、関わり方がフロアごとに異なり、重複もしてはいますが、工房を仕事としている人、展示をする人、制作をする人などの、いろいろな人の関わりがある。それが同年代であるからこそ出来るネットワークみたいなものもあって、県外や、国外に住んでいるメンバーもいたりするので、そういった広がりもバラックにはあると思っています。最近は、美術の展覧会に限らず、ブックフェアを開催したり、アンデパンダンとしていろんな人がその場所に関わる展示を企画したりもしています。

次に、2018年に那覇市国場にオープンしたアーツトロピカルというスペースを紹介します。元々沖縄市で活動していた、吉濱翔さんが県外海外の滞在から戻ってきて、パートナーの芦立さやかさんと始めたスペースです。月一で休みなく展覧会を開催していますが、特に沖縄の作家に限定しているわけではなく、彼がサウンドアートの作品も手掛けていることもあって、そのネットワークで音楽関係など幅広い作家が参加しています。友人の紹介など緩やかな繋がりで展覧会が企画されており、トークなどのイベントも開催されています。また、カフェスペースが併設されているので、お茶など飲みながら、皆で話をしたりすることもできます。
このような形で、近年もまた新たなアーティストによるオルタナティブスペースが出来てきていて、こうした私的な場所と美術館といった公の施設がどう連携していくかが課題でもあると思います。あと個人でアート関連のアーカイブを作っている、琉文21の新城栄徳さんという方がいて、琉文21のサイトをアクセスしていただくと分かりますが、すごい情報量がそこには載っています。公の施設はracoや新城栄徳さんのような民間の団体や個人との協力体制づくりも、今後積極的に行う必要があるのではと思います。