Report イベント報告

「2000年代の沖縄における美術の検証」:事例発表 ティトゥス・スプリー氏

2019.03.13

日時2019年1月27日(日)13:30〜16:00
収録場所沖縄県立博物館・美術館 博物館実習室
ゲスト第1部 事例発表者:ティトゥス・スプリー氏

皆さんこんにちは。主に wanakio と前島アートセンターの話を、写真を見せながら紹介したいと思います。まずは、wanakio という名前を聞いた人は多いと思いますが、ちゃんとした記録を作って無くて、こうして raco が少しずつピックアップして記録していくのはとてもありがたいです。
まずwanakioに関わることになった原点について話すと、僕が 2001 年に琉球大学(以下、琉大)の美術教育学部に勤め始めてすぐ、たぶん4月5日頃だったと思いますが、永津禎三先生にたまたま前島アートセンターの最初のオープンニングパーティーに連れて行ってもらったんですね。

最初の活動としては、東京からアーティストの中里和人さんを琉大の集中講義にお呼びして、学生たちと農連市場をリサーチして写真を撮り、市場の中で写真展を開きました。中里さんとは以前東京の向島で一緒に活動していたので、その延長で沖縄でも何か一緒にやりましょうということになり、一週間の短い期間でしたが集中講義に呼ぶことができました。

事例発表者:ティトゥス・スプリー

市場の空いているスペースを使ってすごく簡易的に写真展を行ったんだけど、当時、前島アートセンターの理事長だった宮城潤さんが来ていて、そこから僕の前島アートセンターとの関係が始まりました。
wanakio の背景としては、東京の向島で行なわれていたアーティストが町の中に入りそこでアート作品を見せるというような活動を元にしています。沖縄でもそういうことをやりたいと思い、市場での写真展の後、宮城潤さんとタイアップして何か一緒にやりましょうということになりました。
その時東京にいる嘉藤笑子さんという方を呼んで、宮城潤さんと3 人で wanakio のプランニングというかコンセプトつくりが始まりました。3者の特徴としては、ローカルなネットワークを持っている宮城さん、海外から来たグローバルな位置にある僕、東京ベースでトランス・ローカルな嘉藤さんと、それぞれの背景がかなり異なる点でした。
そういう組み合わせがありながら、もちろんそれ以外の色んな人も関わってもらって、かなりオープンな形で、まとまりもないような組織体制で wanakio がスタートしました。

(画像をみながら)これは、wanakio2008に参加してくれたカクマクシャカというミュージシャンのコラージュ作品です。このコラージュ作品は、wanakio の原点として結構上手くまとまっているかなと思っています。wanakio のスタート、基本の考えとしては、地域文化、特に現代的な地域文化がどういうことなのか、どうなっているかというところを検討して、考えることにあります。
僕は沖縄で育ってないんだけど、このコラージュをみたら色んなものが混ざっていることが分かるんですよね。DFS があったり、もちろん基地、米軍があったりとか、伝統的なエイサーがあったりとかとても混ざっていると言うか、チャンプルーとも言えるし、ごちゃ混ぜとも言える。このような状況の中で、現代表現、現代美術をどう作るか、アーティストがどういう活動をするかみたいな、もちろんきれいな答えはなかったけど、ひとつのプロジェクトとして、wanakio で現代表現をつくろうという思いで走り出したんですね。
このwanakio という名前、みんな分かると思いますけど、単純に「okinawa」の文字の並べ替えです。しかし最初「wanakio」と聞くと名前の由来が分かりづらいのですが、ある意味それは wanakio のコンセプトをとても上手く伝えていると思います。
ぱっと見、ぱっと聞いても、沖縄と結びつかないんだけど、よく見てよく読んだら、「okinawa」から作ったもの、沖縄をベースにした名前なんですね。こうステレオタイプ的な、誰が見ても「沖縄だ」みたいなものじゃなくて、もっと基礎的な体験から「何が沖縄か」みたいなところから、美術の制作や美術の活動をしようという意図がありました。
だからwanakioでは場所性や場所の繋がりを重視して、アーティストにはスペースや店舗、空いてる場所や隙間といった色々な場所で制作してもらい、沖縄の生活の中、沖縄の日常空間の中をクリエイションしていくみたいな活動をしていました。

wanakioについて(画像をみながら) アーティストが色んな場所で色んな動きをして、その体験から、その場所からできた作品をその場所で発表しました。さっきのコラージュの中に出ていた DFS がこの上の左の写真です。
またwanakioの大事なテーマの一つに、子ども向けの美術教育プログラムがありました。 wanakio では、必ずアートの制作について対話できる枠も考えたんですね。その中で、トランス・アカデミーという教育プログラムを設け、いろんなところから来たアーティストと作品を見るだけでなく、アーティストと対話しながら、何を考えているか、どういう制作をしているかといったプログラムも組んでいました。その上でも子供向けの美術の活動も色んな枠で考えました。
これはシンポジウムの風景で、農連市場の会場を使い、オープンディスカッションの形式でwanakio でやっていることや考えていることを共有して、会場にいる人たちとパブリックの場で話しました。
wanakio は2002 年・2003 年・2005 年・2008 年と4回開催しましたが、毎回大変で、沖縄で国際的なレベルのアート活動をするというのはやっぱりチャレンジングな部分がありました。前島アートセンターも組織としてはバックアップしたんだけど、それでも厳しかった。前島アートセンターは NPO 法人だったけど、正式にスタッフを雇ってなく、みんなボランティアで参加していて、すごく疲れる体制でした。それもあって前島アートセンターと wanakio は今まで続いていないということなのかと思います。

前島アートセンターの紹介をします。2001年に私が最初に前島アートセンターに行った時に撮った写真です。当時は、飲み屋の看板がビルにたくさんついていたんです。もともと前島アートセンターがあった高砂殿は結婚式場で、結婚式場と飲み屋の組み合わせの建物でした。それも含めてとても面白いなと、最初行った時に思ったんです。
中は壁を壊して広いスペースにして、自由に使えるようにしてました。このようにゆるい感じで発展できたのは面白かった。これは屋上のアートビアガーデンですね。

ティトゥス・スプリー氏報告ちょっと話は逸れますが、前島アートセンターの運営が厳しくて、持続させるにはどうするかという話はずっと理事のメンバーで続いていました。対策として、理事のメンバーで資金作りの活動をしましょうということになり、僕がジャーマンポテトクラブ、永津先生がシングルモルトウィスキー・テイスティングバー、沖縄県立芸術大学の仲本賢先生がフルーツカクテルバーを開催しました。しばらくその売り上げを前島アートセンターの資金に当てて、二年間くらい割と上手くいっていました。
前島アートセンターの建物が2007年に建て替えになり、栄町に場所を移動し、その年に沖縄県立博物館・美術館がオープンしました。この年の動きが前島アートセンターの転機なのかなとも思います。前島アートセンターの建物がなくなり、栄町に前島アートセンターの新しい箱が出来て、最初は「栄町アートセンターにしよう」という話もあったんだけど、結局「前島」を残して、前島アートセンターのままになりました。
沖縄県立博物館・美術館オープンの時に前島アートセンターで「おきなわ時間美術館」(※1)を開催した時は、コンクリートの割と閉鎖的な建物が、市場の中の壁のないスペースになって、前島3丁目 とはかなり違う雰囲気で面白い空間になっていました。でも前島アートセンター自体は揺らいでいて、ミッションや今後どうするかという議論を続けていたのですが、結局栄町に移った後、活動は 4 年間で終了しました。

その間も色々な活動をしていて、その中の一つで wanakio の経験から、海外、特に沖縄から南のインドネシアやフィリピンなどアジアに向けて活動をしたいと思い、アジア圏へアーティストをサポートして派遣するプログラムを 2010 年にやりました。
その後 2011 年にしっかりした解散をしたいと思って、解散のシンポジウムを開きました。そのシンポジウムについては、前島アートセンターの資料として残っています。
偏った話でしたが、自分の背景としては建築出身ということもあり、wanakioや前島アートセンターに関わりながら、美術そのものではなく、アートと街作りについて、社会空間においてアートがどのように成立するか、ということを考えて活動しています。

(※1)「おきなわ時間美術館」
前島アートセンター(MAC)と東京のアーツイニシアティブトウキョウ(AIT)との共同企画として沖縄県立博物館・美術館開館時期に県内外の美術関係者をつなぐ企画として夕方頃から10日間毎日違う内容のバーを開き、ワークショップやレクチャーなどを行った。