■『EDGE』について
町田)まず(仲里)効さんは、沖縄県立博物館・美術館の事業やそれ以外にも沖縄の美術の色んなことに関わっておられ、それぞれでお聞きしたいことはあるんですが、まずはご自身がそういった活動に関わるきっかけにもなったのかなと思う、雑誌の『EDGE』を始められた経緯等をお聞かせください。
仲里)はい。『EGDE』が創刊されたのは1996年の2月。準備はその前の年の95年の夏あたりから。複数のメンバーが集まって何か面白い事をやれないかという話を、当時、當山忠(編集者)さんの事務所が浦添の勢理客にあって、そこで月に一回、多いときには2回とか集まって、あれこれ話をしました。最初は沖縄のアートシーンを意識していたところがあったのですが、話をするうちにとにかく雑誌を媒体にしながら、沖縄のアートシーン全般について関わっていこう、ということで始めたんですよね。雑誌の発行主体が「Art Produce Okinawa」となっているのはそうした背景があったからです。しかし、実際は雑誌の発行が中心になりました。
編集委員はたしか11名だったか、12名だったか、新聞社やテレビ局に勤めているマスコミ関係者であったり、大学の美術の先生であったり、画廊を経営したり、建築家であったり多彩なメンバーでした。
雑誌は、沖縄の思想と文化にかかわる、いわば総合雑誌的な性格でスタートしました。具体的に言えば、写真、美術、音楽、文学、思想など沖縄の文化と思想シーンにアクチュアルにかかわっていくことを意識的にやりました。誌面づくりでそれをどう反映させたかといえば、特集をみていただければある程度はわかってもらえるでしょう。それに、グラビアページを作って、積極的に写真家に関わってもらったわけです。実際、若手を含め多くの写真家に協力してもらいました。
町田)例えばどなたがいましたか。
仲里)例えば、当時まだ若かった浦本寛史さんとか仲本賢さん。もう亡くなったんだけど、砂守勝巳さん、平敷兼七さんや大城弘明さんや比嘉豊光さん、そして大盛伸二さんなど。僕も隠れて忍び込みましたよ。表紙はすべて僕の写真です。また沖縄の美術家のインタビューや美術批評などもわりと活発にやったのではないでしょうか。
町田)発行頻度はどのくらいでしょうか。
仲里)一応、季刊を目指したんだけど、実際にはその通りいったというわけではなかった。
町田)最終的には何号まで発刊されたのでしょう。
仲里)13号まで。その間、例えば映画制作にかかわり(事務所が映画の製作事務所にもなった)、肝心な雑誌の発行が疎かになったりとか、映画の制作に集中した時期もありましたね。
町田)その雑誌が発行されていた数年は、結構いろんなことがありましたよね。いろんな作家さんが沖縄に来られていたという話を、聞いているんですが、 (ジョナス)メカスだったり。
仲里)メカスの時の受け入れは『EDGE』が中心になりました。メカスが来たのは1997年だったかな…。ちょうど、メカスが日本に来るということで、せっかくだから沖縄でも何かできないかということで。じゃあどういう風な内容で仕込んでいこうかと、高嶺剛さんと具志堅剛の短編に、台湾の短編映画も加えてインディペンデント映画祭と銘打って、台湾からもゲストを呼んで、上映とトークを組み合わせて二日間やりましたね。
町田)こないだ開催したイベントの時(「Jonas Mekas新作上映会」2014年3月21日、沖縄県立博物館・美術館)に情報として教えていただいて。クリストも同時期でしたよね。
仲里)そうですね。同時期で。クリストの場合は親泊さんが関わりを持っていて、むしろ彼に聞いた方がいいと思いますね。
町田)『EDGE』でもメカスを取り上げたりもされていて、その時々の事をちゃんと雑誌に残していく作業をやってらっしゃったなと、今思い出しました。
仲里)そうだね。忘れてた(笑)
■「アウト・オブ・ジャパン」と「大いに語る会」
町田)雑誌の創刊が96年で、準備を前の年から始めていったとお聞きしましたが、さらに遡って、94年に美術館(建設の動き)が少し見えたことで市民側からのムーブメントとして、「アウト・オブ・ジャパン、そしてアジアへ」をキーワードに『沖縄県立美術館建設を考えるシンポジウム実行委員会』(以下アウト・オブ・ジャパン)というのが立ち上がったことも、何かしら関与しているのかなと思っています。具体的な流れみたいなものが動き始めた瞬間に、雑誌も立ち上げていったのかなという印象を受けました。
仲里)それと直接的な関連性があるかどうかは置くとして、「アウト・オブ・ジャパン」の話をちょっといいですか?
あれは、ちょうど大田県政時代に、美術館をつくろうという話が打ち出されて、具体的に動き出した時期にあたります。美術館構想というのは戦後も割と早い時期から、沖縄の美術家達が建設運動をやってきているし、沖縄にとっては、言葉は適当ではないかもしれませんが、言ってみれば「悲願」のひとつであったと思うんですよね。
しかし問題は中身です。どういう内実を持った美術館にするかを考えていこう、というになったわけですよね。それで、当時(美術家)の豊平ヨシオさんが中心になって、建築家の安田(哲也)さん、彫刻家の能勢(孝二郎)さん、美術家の真喜志(勉)さん、そして僕などが協力するかたちで、幅広く呼びかけ実行委員会を作って、動き出したわけですね。
肝心なのは、器ではなく、中身だという認識が基本にありました。せっかく沖縄に美術館を作るからには、日本の47番目の美術館ということではなくて、沖縄の持つ場の力と、美術の目指す方向性みたいなもの、これはやはり沖縄をアジアのなかに位置づけることと、そのうえで、沖縄とアジアとの創造的関係をつくりあげるべきだ、ということです。「アウト・オブ・ジャパン、そしてアジアへ」というのはそうした基本的考えが込められたメッセージということになります。
動き出したら様々な反応がありました。実行委員会の集まりは、真喜志さんのペントハウス(絵画教室)を使わせていただきました。取り組んだのは、たとえば、RBCホールでのシンポジウム、そのシンポジウムにはミュージシャンの喜納昌吉さんやボクシングで世界チャンピョンにもなった平仲(明信)さんなど、美術とは全く関係ないにもかかわらず、しかし表現という意味では一家言を持っていたしたたかなメンバーも加え、沖縄に建設される美術館はどうあるべきなのかということの論議をおこしていった。
なにしろ美術館建設は長い間待ち望んでいたということもあったせいなのか、新聞やテレビでも大きく取り上げられたりもしましたね。ただ、実行委員会の基本的な姿勢は、問題提議的な性格に徹すべきだというころがありましたね。繰り返すようですが、単なる日本のなかの一美術館としてではなく、沖縄をアジアに開いていく、そういうような内容にすべきである、と。
当時の県がつくった沖縄県立美術館基本構想検討委員会があって、そこへも呼びかけ、討論会もやったりしました。美術館の理念にこだわった取り組みだった。最終的には『アウト・オブ・ジャパン』という活動報告書をつくり、活動の経過を残していったというわけですよね。
町田)そのしっかりとした報告書もそうですが、最終的にはその意見が行政側に少しは聞き入れられたんじゃないかなと思います。その後もまた建設自体が滞ってしまうところがあって、開館直前になってまた新たに、別のグループ「美術館問題について大いに語る会」(以下、「大いに語る会」)が立ち上がることになるのですが、そのとき仲里さんは関わっておられなかったんですけれども、理由といいますか、仲里さんは「大いに語る会」の動きをどのように見てらっしゃったんでしょうか。
仲里)語る会には全く関わってないんで、外側からしか感想を述べられない訳ですけど。僕らがやったことは、美術館の理念というか、魂をどう入れるのかというところに力点(最低限綱領的な)をおいたわけです。語る会は、実際に美術館ができて、管理運営の在り方という具体論のところで動いていたところもあったわけですから。具体的な運営面で、どうしていくかということは重要な問題ではあったと思うんだけども、先程述べたような考えでしたので。外側からの意見としか言えませんね。
■開館に向けて
町田)開館までに、プレイベント的に起こった事のいくつかについてもお聞きしたいと思うんですけれども、まず沖縄県立博物館・美術館の美術館開館記念展『沖縄文化の軌跡1872−2007』(以下『沖縄文化の軌跡』 2007年11月1日(木)~2008年2月24日(日)沖縄県立博物館・美術館)で、作品の収集はアジア美術等も、学芸員であった翁長直樹さんがされているんですけれども、このような沖縄の文化の総論のようになったのを、「アウト・オブ・ジャパン」の理念からどのように反映され、受け取られているのかな、と気になったのですがいかがですか。
仲里)そうですね、「アウト・オブ・ジャパン」が活動していた時期の美術館構想と、実際にできあがった美術館というのは違いますよね。あの時の構想は、単独の美術館ということでしたから。
しかし、実際には博物館と一緒になった、という現実がありますよね。そういう変化というか、事情の違いもありますが、開館記念展が『沖縄文化の軌跡』ということになったことについて、「アウト・オブ・ジャパン」は、民間の有志が集まってあるべき沖縄の美術館を広く論議していくということで、美術館自体の考えがあったわけですので、「アウト・オブ・ジャパン」の理念と、『沖縄文化の軌跡』は、関係があるというわけではないと思いますよ。
しかし、全く関係ないのかと言えば、意識はされていると思うんですよね。ただ開館記念展としての『沖縄文化の軌跡』は、ある根拠みたいなものがあったと思うんですよね。沖縄の文化、美術を含めた文化というものを、総体として定義し直す試み、それをスタートにあたってやった、というように、それ自体は貴重な試みだと思いますけどもね。
町田)開館記念展と同時にいくつか「関連」という冠を付け、仲里さんが中心になって行ったイベントがあるかと思うんですが、『写真0年 沖縄』(以下、『写真0年』 2007年10月30日(火)~11月4日(日)、那覇市民ギャラリー、他)を含め、一緒に何かをやっていこうという経緯があって始められたものなのでしょうか。
仲里)『沖縄文化の軌跡』の場合は中心になったのは、勿論、翁長さんです。ただ、美術館の準備段階から、協力させてもらった、ということはありますね、主に映像関係でしたが。開館に向けて、前段階的な取り組みのひとつとしての2002年の東松照明『沖縄マンダラ』展(2002年7月5日~28日、浦添市美術館)、それから『中平卓馬展 原点復帰 — 横浜』(2004年4月21日~5月2日、那覇市民ギャラリー)……。
仲里)コレクションのなかに沖縄の美術館の特徴を活かすひとつとして映像の収集もあったんで、そういった部分で協力してきたというのがあります。開館記念展が『沖縄文化の軌跡』になったというのは、いわばそうした準備段階からの取り組みと沖縄の近現代の表現史としての〈文化〉というものを総合し、総括していく、あるいは定義し、提示していくというトータルな試みだったと思いますよね。詳しくは、翁長さんを含め、開館時の美術館スタックに聞いてみてください。
『写真0年』は開館記念の関連事業のひとつということでしょうが、これは東京の写真家たちの協力もあったできたことになりますね。
町田)『写真0年』の立ち上げるきっかけといいますか、東京側にもお声がけをした経緯というのは、翁長さんを介して繋がったということでしょうか。
仲里)これはね、翁長さんを介して繋がったんです。
町田:倉石(信乃)さんなどは、以前からお付き合いありますよね。
仲里)倉石さんは以前から沖縄に、『中平卓馬展』なんかで関わりがあってね。
町田)横浜から継続してのおつきあいもあったでしょうし。「県外の」っていうのが、キュレーターに限らず、写真家を含めてだったかと思っています。
今でも活動を続けている写真家、当時若手と言われていた方々等も幅広く取り上げていたと思うんですが、それ以前も『琉球列像―写真で見るオキナワ フォトネシア/光の記憶・時の果実 復帰30年の波動』(2002年7月3日~14日、那覇市民ギャラリー、前島アートセンター 以下、『琉球列像』)が『東松展』と同時期ですよね?
仲里)2002年。『琉球烈像』は東松さんの『沖縄マンダラ』展との連動展として、那覇市民ギャラリーで行いました。
町田)その時にピックアップした作家さんというのは?
仲里)『沖縄マンダラ』との連動ということですので、ご存知だとは思いますけど、本土からは荒木(経雄)、森山大道、中平卓馬。それから、港千尋、北島敬三、石内都、浜昇などなど。実行委員会を作って、翁長さんが橋渡ししながらね、東松さんのマンダラ展と絡み合いながら。東京サイドは、港千尋さんに仲介役をやってもらってああゆう形で実現していった、と。
沖縄サイドでも実行委員会を作って、東松さんとかかわりのあった写真家を中心にして、若手の作家は作家で、会場を別(前島アートセンターの4階)にしてやった。あの時に阪田(清子)さんなんかも初めて…沖縄県立芸大をあの時は卒業していなかったんじゃないかな。阪田さんとか、根間智子さんとか、沖縄の若手とヤマトのphotographers’ galleryの面々のコラボといったかたちで。
町田)その時、ワークショップ等もなさったんですよね。どういった感じで行ったか教えて下さい。
仲里)ワークショップは、せっかくこれだけのメンバーが来るということで、沖縄だから、しかも東松さんとドッキングさせた形だったので出来たということはありますね。その前に東松さんたちが75年に沖縄でワークショップをやった、あれをさらに拡大して、2002年の沖縄という特性を活かして実現したということでしょう。
日本ではありえない、これだけのメンバーが沖縄に来るんで、沖縄以外からの参加者も見込まれたし、資金集め的な意味もあったんではないでしょうか。結構な人数ですよね。
町田)あの時に参加した方で、今も写真に関わっているというか、活躍している方はいるんでしょうか。
仲里)そうですね、東京でいえば北島敬三さんのところのphotographers’ galleryの笹岡(啓子)さんとか…。沖縄でいえば……誰だろう、そうですね、阪田さんとか根間さんとか、島武さんとか、丑番(直子)さんとか……。
■沖縄の表現
町田)継続して開館までいくつもイベントを打って、映像に関しても高嶺映画をはじめとして色んな……高嶺さんに関しては共同脚本もされたり、沖縄に映像を紹介するつなぎの役割を果たされていたんじゃないかと思います。
仲里)高嶺さんとより親しくつき合うようになったのは、沖大のミニシアターっていうのがありますね、新しい校舎が建設されることになったので、そこに豊平ヨシオさんの働きかけなどがあって実現した。大学のなかにシアターを開設した珍しいケースですね。当時、豊平ヨシオさんは美術を教えていましたので。僕も沖大に勤めていて、なにか面白いことをやろうと。
シアターのオープニングに高嶺剛に来てもらったんです。ちょうどウンタマギルーを作った後だったんで、トークショーや、彼の短編を上映したり。その後『つるヘンリー』をいっしょに作っていくということにもなった。
映画との関わりで大きかったのは、2003年の「山形国際ドキュメンタリー映画祭」の沖縄特集でコーディネーターをさせてもらって、上映作品の選定とかカタログ作りとか、そういうこととかですね。その後沖縄にも移動して、桜坂琉映で一週間上映会をやったりもした。あれほどの塊で、沖縄映画をまとめて観る機会はなかったのではないか。
町田)今ちょうど高嶺さんが新作を手がけてらっしゃっていて、それには多くの、世代の違う作家、山城知佳子さんなども関わっていたりする、そういう繋がりが見えるのはすごくいいなと思っています。写真のプロジェクトもそういったことなのかなと思っているんですけど、やっぱり次に繋げる作業というのも意識してなさっているんですか。
仲里)うんーどうかな……そうですね、沖縄は力のある表現者って多いですよね。それは写真に限らず、活字にしても。そういった若い担い手たちが表現していく場というものを作っていくっていうのも、我々の世代のある意味では責務のひとつだと思うんですよね。どれだけできるかどうかは別として。
そういう意味では、『EDGE』という雑誌もそういう事を意識的にやってきたところがありますよね。既にエスタブリッシュして確立されてきた表現者ではなく、これから伸びていく若い表現者たち。これから作ろうとしている雑誌も、そういうことを目指しているわけですよね。
町田)今関わっていらっしゃる「フォトネシア沖縄」は、どうですか。
仲里)「フォトネシア沖縄」の方は二カ年前に立ち上げられて、沖縄で写真文化を創造し、沖縄からアジアに向かって発信していく、という明確な方向性をもっています。スタートは東松照明さんの追悼をかね、台湾や韓国から写真家を招いてのアジア写真展、沖縄内外から受講生を募ってのデジタル写真ワークショップ、これは東松泰子さんが中心になっていますが、それを発展させ、継続して取り組んでいます。これは非常にテクニカルな面ですけれど、でも、技術的な意味でも沖縄の写真の一定の水準を獲得していこうという感じです。それから、昨年から写真学校をスタートさせています。
町田)沖縄で写真が活発になる立役者としていろいろなさっているという印象があるんですけれども、写真にこだわるというか、強い思い入れがある、そこから沖縄の美術を見ているというところがあるんでしょうか。
仲里)沖縄の美術に関しては、僕なんかははっきり言えば、ある意味では門外漢の一人かもしれない。ただ沖縄という場の力というのか、沖縄という場によって生まれてくる関係性というか、関わらざるをえないようなことが、結構な密度で発生してくるわけですよね。
なんというか、特に僕なんかは主に映像を通して沖縄の表現の分野をみてきた、あるいは作ってきたということありますが、美術プロパーとしてはね、そんなに深い関わりがあるわけではない。ただ何かわけはわからないがその渦の中にいるということは言えるかもしれませんね。
町田)本当に色んなことを手がけているのは、お人柄もあると思うんですけど、お声がかかるというか。具体的に言うと、2002年の『沖縄マンダラ』もお声がかかって一緒に作っていく。そして中平展にもまた声がかかって、という感じなんでしょうか。
仲里)『沖縄マンダラ』の場合は、戦後50年にあたった95年に、沖縄タイムスが主催した沖縄ではじめての『東松照明展―戦後日本の光と影―』(1995年7月4日~9日、那覇市民ギャラリー/7月18日~21日、平良市中央公民館)の時に、新聞でのリレー連載に書かせてもらったり、琉球放送で大盛伸次さんと東松さんのドキュメンタリーを作ったときには、インタビュアーになって、宮古まで同行したりとか、がありましたね。
僕が写真というものを公にしていくのは、1991年から92年にかけて、沖縄タイムス文化面で一年半ほど週一回で連載した「ラウンドボーダー」でしたね。写真と文で。
僕が意識したのは、沖縄には力のある写真家が多いですよね。しかし批評は成立しにくい、というか、成立していないという認識があって、その写真批評をどうにか成立させることはできないか、ということでした。そのことを意識的にやってきたつもりなんですよね。実際の写真表現、写真家と拮抗ししていく、そうした相互性、創造的な関係というのを作らなければ、一方的ですよね。
仲里)そういった意味で、2009年に出した『フォトネシア眼の回帰線・沖縄』(以下、『フォトネシア』未来社 2009)は、そうした問題意識を込めたつもりです。この3月には沖縄写真家論、写真論の第2弾を出します。『フォトネシア』以後に書いたやつをまとめたものですね。
町田)仲里さんはイベント的な要素のものと同時に、批評だったり、文章として出すという作業を、とても精力的にされているなと思います。作品をちゃんと評することで、相互間の関係性を保つという。
仲里)そうですね、これは写真だけではなく、美術にも言えるし、他のジャンルのアートにしても言えることなんです。批評というものが成立しなければ、本当に生産的な関係、作者と批評家が拮抗していくことはできず、葛藤しながら切磋琢磨していく関係ができて初めて、より生産的なというか、ある水準の表現が開かれていくと思うんです。
戦後沖縄の写真シーンを見た場合、非常に極端な言い方かもしれないけど、批評というのは成立していないんですよ。ある展覧会の展評とか感想的なものはあったにしても、批評としては成立してこなかった、というのが僕の意見です。ですから、先程も言ったように、作品、作者と批評の拮抗関係を成立させなければ、本当に意味で写真表現の世界は豊かにならない、と思います。