Interview アートに関わる様々な方へのインタビュー記録

安座間安司

アウトオブジャパン

Profile

美術評論家

■1994年の美術館問題

宮城)今日は、沖縄県立美術館建設時の問題に関連して「沖縄県立美術館建設を考えるシンポジウム実行委員会:アウト・オブ・ジャパン、そしてアジアへ(以下、アウト・オブ・ジャパン)」と「美術館問題について大いに語る会(以下、大いに語る会)」についてお聞きしたいです。沖縄県立博物館・美術館ができる直前に、大いに語る会で活動をしていて、僕なりに思ったことは、アウト・オブ・ジャパンで立派な報告書を出したときに関わった人たちが、いざ美術館できるって段階になって積極的には関わってくれなかった感じがあって。アウト・オブ・ジャパンにも関わっていて、大いに語る会にも関わっていた安座間さんにはどういうふうに見えていたのかっていうことも含めて美術館問題のことを中心に聞きたいなと思っています。美術館のハードの話と、美術館の流れというのも絡んでくるのでその辺りで安座間さんなりに考えていることとか。振り返りながらお話しいただけたらと思います。

 

安座間)わかりました。でも僕は1994年の「美術館問題」(アウト・オブ・ジャパン)については直接は関わってないんですよ。あの頃はまだ茨城県にいて、当時から沖縄の新聞を取り寄せていたのでそれらを読んである程度は知っていました。それを見ていくとあの頃中心になっていたのは豊平ヨシオさん(美術家)、真喜志勉さん(美術家)、能勢考二郎さん(彫刻家)、安田哲也(建築家)さんらで、この四人が共同代表として名前を連ねていました。そこから、賛同者が徐々に集まって「集会」を重ねながら、シンポジウムを開いて、それらの経緯をまとめた「報告書(沖縄県立美術館建設を考えるシンポジウム実行委員会)」を出して終わりというような流れだったと思います。

アウト・オブ・ジャパンを行うきっかけになったのは、いつものことですが、行政の進め方が密室的で、中身を検討する検討委員会(「県立美術館基本構想検討委員会」)のメンバーの選び方に対する不満があったようです。

たとえば検討委員会の座長には、沖縄の文化人としてはオールマイティに活動しているけど、肝心の美術に対しては、それほど詳しくはないであろう作家の大城立裕さんを置いているし、美術に関わっている人も沖展の会員が中心であったり、他にも料理研究家とか保護司の先生もいるといった具合で、こうした調子で本当に未来を見据えた美術館が作れるのだろうかといった不満や批判が強くあったと思います。

行政としては、沖縄の文化全般を幅広く取り入れようとしたところから、そうした検討委員会のメンバーを選んだのだと思うのだけど、アウト・オブ・ジャパンに関わった人たちからすれば、まったく現場や実情を知らない情けないものに映ったのでしょう。

その後のシンポジウムの中で、今度は「現代美術」や「アジア」というキーワードがクローズアップされて、「現代美術」を前提としながら、一気に日本を飛び越えてアジア全体に向かって、現代アジアの動向も取り入れながらやっていこうと、そういう動きにつながっていくんですね。そこには、当時“アジアへのまなざし”が日本の思想や芸術界でも少しづつ浸透していたこととも関係があったと思います。ところが、行政側が選んだ検討委員会の人たちには、当然そうした問題意識はなくて、あくまでも日本の中の沖縄というスタンスに立っていた。たとえば、座長の大城立裕さんの「基本構想(大城立裕案)」を見ると「沖縄の文化が日本文化の再生に貢献する。」というような文言が2回でてきます。そのようないくつかのすれ違いが、多くの美術関係者に疑問や苛立ちを与えたんだと思います。

 

町田)そういった動きがあることをふまえて、アウト・オブ・ジャパンのメンバーというのは美術館の構想にそれらを盛り込むことを提言したということですか。

豊平さんを筆頭に意見を集める感じで、多くの方が賛同して頻度も多く会をもって、意見をとりまとめていたと聞いたんですけど、安座間さんはその会には直接は関わってはないということでしょうか。

 

安座間)直接は関わっていませんし、茨城にいた当時は具体的なことはほとんど知りませんでした。だけど、傾向的には理解していたし、部分的には賛同もしていました。またその頃は、東京あたりの「現代美術」のシーンでも、沖縄の美術関係者でまともに評価されているのは豊平さんくらいかなという印象がありました。だから、誰もが豊平さんには一目置いているようなところがあったと思います。

沖縄に戻ったときに聞いた話では、アウト・オブ・ジャパンに参加しながらあらためて勉強するって人が多かったみたいです。週に1~2回集まって、そこでいろいろ意見を出し合うなかで議論も深まっていった。新聞でも頻繁にとりあげられている状況もありましたし。アウト・オブ・ジャパンのシンポジウムが報道された直後に、「検討委員会」で美術館の名称は『県立現代美術館』に変更になったと新聞に載ってましたから、行政に対してもそうとうのインパクトがあったのではないかと思います。

それ以前に、能勢さんなんかが中心になって、彫刻のシンポジウム(「造形空間における関係性」-1982年8月、浦添市民会館)をやっているんですよ。それにも豊平さんはパネラーとして参加していますが、このシンポジウムは「現代美術」という問題意識の展開としては、沖縄で一番最初のイベントだったんじゃないかな。フリーのキュレーターである山本秀夫さん(彫刻家(当時))をはじめ、能勢さんの知り合いで東京辺りで「現代美術」に関わっている人が何人か入ってきて、具体的な展開を試みた。このときも新聞で毎週のように取り上げられていたんだけど、そのときは意見が対立していたり、錯綜しているようなところがありました。結局、能勢さんたちはすごく疲れたと言って、その後は続かなかった。

それが1982年だから、およそ10年後になるのかな。2000年に美術館ができるって具体的な話しになったときに、アウト・オブ・ジャパンという形で沖縄の美術状況が大きな変わり目を迎えたんだと思います。ただ後で聞いた話では、最初からシンポジウムを開き、報告書を出したら解散するということでやっていたみたいです。その後は個々人が問題意識を持って個々人の方法でこの「問題」に関わってほしいということで。

それから、それを受けてか、翌年の1995年に学芸員の翁長直樹さんと前田比呂也さんが、沖縄の戦後美術の流れを「前衛」という視点から概観すると同時に80年代以降の動きを、「現代美術」を意識したような作家たちを中心に展開しようと、モダニズムの展覧会(『沖縄戦後美術の流れ:シリーズ1・モダニズムの系譜』1995年8月2日(水)~8月27日(日)、浦添市美術館)を企画しました。そのときに彼らから誘われて、初めて僕は「沖縄の美術問題」に具体的に関わったんです。ちょうど茨城から帰ってきたばかりの時期で、若気の至りっていうか、向こうで学んできたことと、こちらで起こっていることにずいぶんギャップを感じていたので、つい、はりきりすぎました。

例えば、話が出たときにとりあえず最初、僕が提案書みたいなのを書いたんですよ。ところが翁長さんに、行政の立場からすると、言いたいことは分かるけどこれをそのまま出したら難しすぎると言われて、彼らにもっと簡単な文章に直してもらいました。また、メンバー内でも意見の食い違いや葛藤などがあって、結局「モダニズムの系譜」をどこまで捉えるかとか、どのくらいの規模(人選や作品数)にするかとか、展示会場はどうするかなど、いろいろ喧々諤々(けんけんがくがく)しながら、何とか進めていったわけです。そこで、とりあえず沖縄の戦後美術っていうことで、いろいろ妥協しながら、「ニシムイの美術村」や安谷屋正義さんあたりから始まって、94年のアウト・オブ・ジャパンの動向までつなげていきました。そのとき80年代以降の動向を僕が担当したわけです。

これが具体的なアウト・オブ・ジャパン以後のひとつの展開例みたいなものになったのかもしれません。でも、やはり評価には賛否両論あって、特にほめられるほどのものではなかったと思います。また、この企画を出した後に稲嶺成祚さんなどからクレームが出て、これじゃ沖縄の戦後美術の全体の流れとは言えんって言われて。そこで、僕らから見ると傍流でアカデミックな人たちを取り上げた『シリーズ2・固有性へのこだわり』が企画されたと聞いています。興業的にはそちらの方が観客の入りはよかったようです。でも、僕はそれには参加しませんでした。逆の意味でついていけなくて。

 

とにかく、そういうことも含めてあそこで一旦盛り上がったんだけど、しばらくしたら財政難ということで美術館建設そのものが凍結してしまった。それが、稲嶺(恵一)知事県政になって、駆け込み的に予算が組まれることになって、博物館と合わせて建設することになったわけです。

そこからあとの展開が、2007年開館予定の「美術館問題」として浮上してきたものです。もちろんその間にもいろいろあったんだけど、その中でも一番顕著でエポック的なものが前島アートセンターであり、写真家たちの台頭ですよね。

それまで写真にはほとんど目もくれなかったのに、この頃から写真が台頭してきて、それが沖縄の芸術にあらためてインパクトを与え、今では時に主流のように取り扱われています。前島アートセンターの動きは、なんて言ったらいいんだろう…。奈良美智とか村上隆とかの流れは何ていったっけ? 「マイクロポップ!?」。美術批評家の松井みどりさんが企画した展覧会(『夏への扉 — マイクロポップの時代』2007年、水戸芸術館)の名前なんだけど、沖縄でも、その松井さんが書いた『“芸術”が終わったあとの“アート”』(2002年 朝日出版社)という本の中で展開しているような動きが小規模ではあるけど出てきてました。よく言えばポップで、サブカル的な多様性に富んだもので、悪く言えば何でもありみたいな現象ですが、そうした流れとも連動するような形で出てきたという印象でしたね。実際、村上隆と奈良美智は当時似たようなカテゴリーで捉えられていて、世界的な状況とも繋がっていたし、写真表現の方は、植民地主義やポスト植民地主義的な問題と連動しながら、やっぱり世界的な動向とも繋がっていました。

ちょっと話が前後しますが、1996年の夏頃に、沖縄も巻き込んで、東京を中心に『アトピックサイト』という大規模なパブリックアートのイベントが展開されたんですけど、その頃から徐々にそれら二つの動きが、それこそ連動するような形でとりあげられました(「美術手帳 1996年11月号」で特集が組まれている)。問題だらけのイベントで、話し出すときりがないのでいつか別のところで詳しく展開したいと思っているんですけど、それがある意味で、比嘉豊光さんなんかが、「映像」(「しまくとぅばで語る戦世」など)でも脚光を浴びるきっかけとなりました。豊光さんの前には、すでに高嶺剛さんが似たようなアジアを意識した、どちらかというと(日本)本土を批判的に捉えながら、アジアというか辺境を意識したような作品を作っていましたが、沖縄でポストモダン的な新しい動きが大雑把にふたつの傾向として比重を占めるようになったのは、やはり2000年代以降という印象ですね。

 

■2007年の美術館問題

安座間)もう一度、話を2007年の「美術館問題」にもどすと、あの時最初に問題提起をしたのは、宮城君や小林(純子)先生ですよね(「芸術文化は誰が守るのか ①~④」琉球新報2006年4月17日~20日)。これまで話してきた流れで問題を提起して、現代美術をきちんとふまえた未来を見据えた形の美術館であって欲しいと要望していました。ところがやっぱり美術館って一部の人だけのものじゃない訳だから、そこに『沖展』関係の人とか、団体系列の人なんかも入ってきて、結局、問題意識は違っていたんだけど、とりあえず共闘しようということになりました。初めての(県立の)美術館ができるというのに博物館と合併して、しかも博物館がメインで美術館はついでにみたいな感じで、これじゃ不公平じゃないかというのが皆に共通した問題点の一つでしたね。それで、美術館をもっと博物館並みの待遇にしろ、というのが「大いに語る会」の問題提起にもなりました。でも、大いに語る会の中でもすべての問題意識が共有されているわけではないから、僕なんかは新聞やブログの中でも突出してしまって、翁長さんとか前田さんに対しても批判を浴びせてばかりいました。

 

そうしたことと関わるんですけど、美術館の方向性を示すであろう、注目された『開館記念展 沖縄文化の軌跡 1872-2007(以下、開館記念展)』(2007年11月1日(水)~2008年2月24日(日)、沖縄県立博物館・美術館)もどういうものになるのか当初はまったく分かりませんでした。開館一年ほど前から随時おこなわれた関連フォーラム(教育委員会と沖縄タイムスの共催)で、一回目のテーマが「沖縄文学」から始まって、いったい何のために、なにを訴えたくてやっているのかよく分からなかった。二回目のフォーラムでは、質疑応答のときにフロアーからウチナー口で「壇上の先生方はいったい何を言っているのか?」と怒号めいた意見が出たほどでした。でも、僕は二回目の仲里効さん(映像・文芸評論家)や新垣誠さん(沖縄キリスト教短期大学准教授(当時))らの「表象文化論」についての発表あたりから、どうも具体的な政治色の強い感じのものにみえていました。そして三回目のフォーラムで主催者側から「沖縄の文化全般」に焦点を当てたものという主旨の説明がやっと出てきて、やっぱりこれはおかしいという思いにとらわれました。というのも、それまでの県の企画展などでは、はっきりと「アジア」を意識したような取り組みが多かったし、実際に開館の2年ほど前に学芸員の翁長さんから、開館展はアジアの美術を取り入れた大掛かりなものをやるんだと聞いていたからです。

その頃から、僕はいっそうブログなどの中で行政や沖縄タイムスを批判していくのですが、当時、僕が問題にしたかったのは、アウト・オブ・ジャパンの頃はアジアを中心に、アジアに向けてって言ってたのに、蓋を開けてみたらむしろ、沖縄の歴史的・政治的視点=植民地的状況がより具体的な形でクローズアップされていたことでした。

フォーラムなどの内容が沖縄タイムスよりの傾向になっているのと、タイムス自体が行政のやり方を批判していたにも関わらず、「文化の杜」を立ち上げ、指定管理者の筆頭に名をあげた、それ自体が矛盾していておかしいんじゃないかというものでした。

「開館記念展」そのものも中途半端な感じだったから、評価もあまりよくなかったけど、東京辺りの美術関係者や知識人らの中には好意的に評価する人もいました。鷹見明彦さんっていう美術評論家がいたんだけど、彼は、最初その政治的なニュアンスに批判的ともとれそうな疑問を示していたにも関わらず(「美術手帳」2008年1月号)、数ヶ月した後の、今年の美術回顧みたいなもので、もっとも興味深い展示会の中のひとつに沖縄県立美術館の開館記念展を挙げていたそうです。鷹見さんも葛藤みたいなのがあったのだろうかと勘ぐってしまったものでした。

先ほどから言っているように、最初「開館記念展」はアジアの美術を中心にって進めていたと思うんですけど、アジアじゃなくて「沖縄の文化の流れ」みたいなものになっていたから、急きょ変更したんだろうなって思いました。でも、急に変更してうまくいくはずがないんですよね。特にこんな大きな展覧会は。

肝心なのは、この企画の変更が、いつ、どこで、どのような形でなされたかということです。僕はこれらのことと、フォーラムや企画の主旨が当初はっきりと打ち出せなかったことには、何か関係があるのではと思っています。

 

話は元にもどりますが、すべては行政の進め方そのものにねじれがあることが問題でした。宮城君や小林さんらが問題提起をした後に、僕は沖縄タイムスでの座談会「県立美術館を考える」(沖縄タイムス2006年4月13日・17日・18日)を読んで、学芸員の前田さんが県民も新聞(メディア)も関心が薄い。基地問題(「沖縄が抱える諸問題」)と同じくらい関心もってもらわないと問題は解決しない、と言っていました。それに対し、基地問題と美術館は問題のレベルが違うので、皆(県民)が基地問題のように「美術館問題」にも責任を持つべきだというのは的はずれで無理があるのではないか、と反論しました。

一方で、その時はどういう企画展になるのか分からないのと、行政側の「県立博物館新館・美術館のあり方を語る会(以下、語る会)」がどのように進めているのかということにもずっと興味がありました。実際のところ中身はどうなっているのだろうかと。密室的に進んでいるという印象が自分にもあったので、それじゃまずいだろうと。

 

町田)行政側の「語る会」に参加されたというのを何かで拝見したんですけど、その会自体は一般聴講可のものだったんですか。

 

安座間)参加しましたし、建前的にはそうだった。でも実際に聴講した部外者は僕を含めて2~3人くらいだったと思います。新聞に載っていたから、一般聴講もありだろうと堂々と入っていったら完全な部外者はたぶん僕だけでした。もちろん県の関係者とかはたくさんいましたが。

「委員会」の構成メンバーの中にオリオンビールの社長とか、「芸術」とは全然関係ないような経済界の人がいたりするのもおかしいと思いました。尚弘子さんが座長をやっていたのですが、一回目に参加したあと新聞で批判したら、二回目のときは、エレベーターの前に、会場はっこちらですって矢印が貼ってあって、すごい受け入れ体制になっていました。向こうとしては「開かれた場」であることをアピールしておかないとまずいってことになったのかもしれません。で、それに参加して、またコメントを出したら、今度は警戒されたのか、三回目のときは、その日になって急に会場が変わりました。結局、会場探しで手間取って遅刻してしまいました。

その三回目(最後)の会合のときに、尚弘子さんが「指定管理者制度」の問題を出してきました。そういう状況は日本全国でもかなり問題になっていて、もっと慎重にやるべきだと言ってきたんですけど、向こうには駆け込み需要的な事情があったみたいで、とにかく期限までに間に合わせないといけない、しかも県が単独でやるには経費がかかりすぎるから、「指定管理者制度」を取り入れないといけないという構図ができあがっていて、それを承認するみたいな会合になっていました。

実際に会合に参加した委員の人たちもあまり事情を知らない様子で、何人かの委員は僕らみたいな部外者が批判を行うたびに意見が変わったりしていました。琉大の美術工芸科の神山泰治(琉球大学教授(当時))先生とかは抵抗していましたが、たとえばある委員は、新聞なんかで問題になっているんですけど、そういうのは考慮しなくていいんですかって言ってました。

でも、係りの人から、今日で決めないといけないので、この案でいかせてくださいとばかり言われ、時間切れで決まってしまいました。

結局、個人的には「開館記念展」の企画の進め方に対する不満も強かったのですが、それ以前に、いま述べたような「指定管理者制度」に対する行政の態度や、博物館と美術館が一緒になるっていうことの経緯などをブログや新聞に書いたり、美術関係者にお話しして進めていったわけです。

結局、あの頃からもう7年も経ってしまいましたが、いまだに「報告書」は出せずにいます。いまは、この7年の間のことにも触れながら、「開館記念展」についても、企画の主旨はよかったけれど進め方がまずかったって「報告書」にはまとめてみようかと思っています。

聞き手宮城潤、町田恵美
収録日2015年1月25日