■MACの背景—沖縄県立現代美術館構想と前島暴力団抗争
前島アートセンター(以下MAC)は那覇市前島三丁目で活動がスタートしています。前島三丁目の町の背景をお話しすると、港町の歓楽街、飲み屋街として昔は栄えていたところで、1990年に暴力団抗争が県内で激化した時に高校生が犠牲になってしまう事件があり、それ以降、客足が遠のいて寂しいところになっていました。そこでMACができる前、2000年の秋に『前島三丁目ストリートミュージアム』というのが始まります。当時沖縄県立現代美術館の構想がありながらも財政難の為に美術館の建設が見送られている状況だった中、前島三丁目にあった高砂ビルのオーナーが場所を提供してもいいよと言ったことがきっかけです。県立美術館準備室の学芸員の人たちが、海外まで研修に行ったノウハウを活かしながらどうにか面白いことができないかという考えがある中で、芸大生や若手アーティストに声をかけて、ビルを使って何か面白いことをしようよっていう動きが始まったんです。それが盛り上がったので、それで終わりではもったいないとMACの設立に向けて動き始めたわけです。高砂ビルは結婚式場の高砂殿というのが入っていた地下一階、地上6階建てのビルで、一階のスナックだったところを改装して、手作りでギャラリースペースを作りました。その隣のスペースには飲み屋のカウンターだった部分を活かしてカフェを作り、展覧会をしてその横でちょっとおしゃべりしたりコーヒーを飲んだりできるような場を設けていました。
MACが出来てからはインドネシア出身のエディ・プラバンドノさんという作家が来た時にスタジオを提供したり、ギャラリーでの展覧会だけではなく、レクチャーやシンポジウムなど教育普及活動、子どもワークショップもやっていました。展覧会をベースにしながら、トークや音楽や映像のイベントなども開催していました。MACが入った頃、ビルのテナントの半分くらいは飲み屋で埋まっていて、あとの半分は空いているような状況で、でもだんだん飲み屋は減っていき、空き店舗が少しずつ増えていきました。それで、オーナーが空き店舗を面白そうな人たちに安く貸して、ミュージシャンやダンサー、演劇をやっている人、いろんな人がその場所で活動を始めていったので、そういう人たちと連携しながらイベントも開催していたという感じですね。
ビルは屋上が開放的で気持ちよかったので、2003年に屋上で週六日間毎日アートイベントがある『アサヒ・オリオンアートビアガーデン』を夏休み期間中7月終わりから8月いっぱいまでやりました。結構無茶な感じですけど、毎晩です。
■『wanakio』について
前島地域だけでなく那覇の中心市街地も含めた場所で、『wanakio』というイベントも展開していきました。町の中で展覧会をしたり、ワークショップをしたり。「wanakio」は「okinawa」を並べ替えた造語で、視点を変えると、全く違った見え方をするという意味が込められています。県内のアーティストだけでなく、海外県外からもアーティストを呼んで、まちの中にアーティストが入っていって滞在制作をして展覧会をしていました。展覧会だけではなくてまち歩きや子どもワークショップ、地域とアートについてのシンポジウムを開催したりもしていました。中でも子どもワークショップは結構力を入れていたと思います。アーティストが街の中で展覧会を開いていくというだけではなくて、子どもたちが地域にある魅力に気づくようなワークショップです。
『wanakio』は2002年2003年2005年2008年っていう感じで不定期に開催しました。琉球大学の先生のティトゥス・スプリーさんが那覇市の農連市場でプロジェクトを始めていたことがきっかけで、2002年に前島三丁目と、農連市場、2カ所で始まります。そのあと、2003年にその二カ所の間の地域、場所をつなげるように、桜坂とか水上店舗といった場所で展開していくようになりました。2005年にはもう少し地域を拡げて、久茂地小学校の空き教室だとか、城岳公園、那覇市内に点在するような形になりました。2002年にやったときは、農連市場の会場と前島の会場はまったく雰囲気が違っていました。平和通りは20時以降お店がほとんど閉まって、昼間は人通りが多いところが人通りがなくなるので、街の二次活用というか、通りを広場のような感じで使って、オープニングで舞踏のイベントなどをしました。他にも『国際キッチンワークショップ』は、海外から来たアーティストや、沖縄在住の留学生など外国の方にご協力いただいて、農連市場で沖縄で採れる食材を買って、それを使って自国の料理を作ってもらうというイベントです。海外からアーティストを招いてシンポジウムもやりました。久茂地小学校の教室やモノレールの駅で展示したり、国際通り周辺で空き店舗を見つけたら交渉して、那覇市にも協力してもらって会場を使わせていただくという感じでした。2005年は『ワーナキーズ・オークション』というアートオークションを実験的にやりました。最初は照屋勇賢というアーティストの企画だったんですけど、その後企画に協力した沖縄県立芸術大学の学生たちが中心になって2006年に第二回ワーナキーズ・オークションをしています。ここまでが2001年から2006年くらいまでの出来事です。
■MAC初期 2000年—
あらためておさらいしますと、まず立ち上げる背景に、県立美術館建設の予算凍結問題、それと前島三丁目いう町に活気がなくなっていたという背景がありました。そこで県立美術館準備室の学芸員の方とか、高砂ビルのオーナーとか、アーティストが出会って活動が開始したという感じになります。活動の当初は美術館でやるようなプログラムをやるような感じで動いていました。ギャラリーでは企画展と貸しギャラリーをやっていたんですけど、企画展は当初学芸員の方が企画をしていて、ベテラン作家さんたちが中心。若い学生やアーティストはギャラリーを安いレンタル料で借りて発表していました。比較的自由に使えまして、一番自由に使ったのは室内でふいごを炊いたことかな。石ノミを作るために石炭を燃やして鉄の棒を入れて鍛冶屋でやるやつです。壁に色塗ったりそこで制作したり若い人たちが自由に活動するには手頃なスペースでやりやすいっていうのと、ベテランの作家さんも新しいことに挑戦していくにはよかったと思います。企画展とプラス、アーティストトークなど週替わりで色々なレクチャーを行ってました。『琉・動・体』というグループがあって、美術館建設をソフト面から考える勉強会もやっていました。美術館でやるような機能をMACでやろうというのが最初で、美術館の学芸員たちが関わったのが大体最初の1年ぐらいです。その後2002年復帰30年の年に、美術館が2007年にオープンしますよっていうのが決まるあたりから学芸員たちは、運営には関わらなくなりました。
MACを立ち上げるきっかけになった『前島三丁目ストリートミュージアム』をやる時にはビルの空き店舗とか路地だとか、前島三丁目という足を踏みいれる機会のなかった地域の雰囲気が面白かったし、ビルのオーナーも自由に使っていいよっていうので、なんか面白いことできないかなって声をかけたら乗ってくる学生が結構いて、参加者もとてもたくさん集まって盛り上がりました。そしてMACがオープンしました。MACがオープンしてバタバタしていて準備も出来てない中、ビルのオーナーは一回目がとても盛り上がったものだから、また第二回目のストリートミュージアムをやりたいって色々お店に交渉していってですね、前島三丁目全体の飲食店を会場に、展示をさせてくれという交渉をしてどんどん進めてしまったんです。誰が出品するのかも決まっていないような状況でやらないといけなくなり、二回目はかなり消極的に失敗したなぁみたいな雰囲気になりました、これが2001年。それで次やるならもっと面白いことをしたいなと思っている時に農連市場でティトゥスさんが琉球大学の授業の一環でワークショップをやっていて、一緒に面白いことできませんかって話を始めて、先ほどお話した『wanakio』というのを始めました。沖縄美術界の大きな動きとしてこの頃、2002年は浦添市美術館で『東松照明展 沖縄マンダラ』が県立美術館の学芸員たちが関わって開催されました。それと合わせて『フォトネシア/光の記憶・時の果実』という森山大道や中平卓馬ら本土出身の写真家と、比嘉豊光や石川真生など沖縄の写真家たちによる沖縄を撮った写真を集めた展覧会が那覇市民ギャラリーでありました。その『フォトネシア』では、さらに若い世代の写真家たちの展示をMACでやったので、県内外の人たちにだいぶ認識してもらえるようになりました。その時に新宿の『photographers’ gallery』の方々とも関わりができましたね。
2003年に『アサヒアートフェスティバル(AAF)』に参加します。先程お話した『アサヒ・オリオンアートビアガーデン』という企画をやったのですが、そこでアサヒビールが支援しているプロジェクトに関わる県外の団体やアーティストとの繋がりができました。wanakioを2003年に企画しているときに、『全国アートNPOフォーラム』の第一回目がありました。全国でアート系のNPOが活動し始めた2000年代頭、NPO法ができて5年くらいになる中で、芸術文化に関わるアート系の人たちの政策提言が弱いのではないかっていう問題意識と、それぞれの課題を共有できていない中で、アート系のNPOが一堂に会して話し合うための場を作ろうと立ち上がったものです。その第一回目でMACのことを発表させていただいたんだけど、全国の皆さんは沖縄でこういうアート系のNPOが活動してるっていうイメージがなかったみたいで余計珍しいと思われたのか、そこからまた、別の角度から県外の人たちとの繋がりができ、MACの活動も知ってもらえるようになりました。
■地域とアーティスト「祝・前島三丁目まつり」
その後2004年から2006年AAFで活動していく中、成功だったなと思うのは2006年の『祝・前島三丁目まつり』です。MAC立ち上げの頃から我々としては非常に揺れている状況があって、前島三丁目という町の活性化はビジョンの中の大きな柱の一つで、それと県内の美術シーンを盛り上げていきたいというのがもう片方の柱としてあるんですけど、それがなかなか噛み合わないという悩みがありました。本当に面白いことをしようと思って何か動かし始めるときに、尖ったことをやろうと思うと地域の人からなんだかよくわかんないって思われてしまう。でも、地域活性化したいと思いながらも地域のためだけにやるわけではないし、地域活性化ってそもそも何なのかなって、地域の何を活性化するのかと自問自答しながらやりづらさも感じている中で活動していました。それでもアートの活動以外のこと、例えば公園を一緒に掃除するとかそういったところで地域の人たちとの繋がりがあった。地域の人はMACのやってることはほとんど理解できない。でも、変な人が変なことをしているという感じではなくて、信用できる人がなんか変なことをしているって思ってくれたらいいかなと。飲み屋ビルであるというビルの構造上、とてもクローズな空間だったので割と変なことしても目立たないといった感じでした。
そういった中で、2005年、2006年くらいになるとですね、ほとんどビルの空き店舗は埋まってきてました、入れ替わりはすごい早かったので、入ってはすぐ出るという感じではあったんですけど。デザイン事務所、音楽スタジオ、ライブハウス、ストリートダンススタジオ、ミュージシャンや美術家のアトリエもあったし、それと飲み屋、バーとかもあって割と埋まってるような状況になってたんですけど、安価で貸していたこともあってビルの経営自体があまり良くなく、ビルのオーナーが元気がないころがしばらくあったので、この地域に対して何かできないかなと思って2006年に立ち上げたのが、『祝・前島三丁目まつり』でした。
背景として前島三丁目では、昔、社交組合主催のお祭りがありました。飲み屋街で非常に儲かっている頃なので、芸能人よんできて、こどもたちに無料でお菓子配ったりしてとても盛り上がっていたという思い出のある五十代くらいの人たちがいました。暴力団抗争があった後に初めて、前島三丁目自治会っていうのができて、自治会が立ち上がったからと、お祭りをしました。でもお祭りの運営は大変なので、ここでみんな疲弊してまたお祭りをやらなくなっていました。それから10年くらい経ってMACっていうのが活動をはじめて、街中でわいわいがやがややって子ども達もすごい楽しそうにしていると。自治会の人たちはMACの活動に影響されて、自分達でもまたお祭りしたいなっていうふうになったんですね。それで、2004年に前島三丁目自治会のお祭りを開催しました。そうすると、お祭りの実行委員会になった人たちがやっぱり疲れてしまって、2005年はお祭りをしませんでした。そして、隔年にしよう。2006年やりますよと2004年終わった時点では言ってたんだけど、おそらくそのまま立ち消えるなと思ったので、前島三丁目祭りを応援するというプロジェクトを立ち上げて、助成金をAAFからもらって、主催は前島三丁目の自治会だけれども、アーティストも関わって、会場設営だとか、ポスター作ったりだとか、盆踊り作ったりだとかといったことをしたんです。アート作品はどこにもないんだけど、アーティストが祭りの運営に協力しますよみたいな感じのことをやってみました。
その時に初めて、とても喜ばれました。祭りの実行委員会でアーティストや、まちづくり系のNPOの佐々倉玲於さんたちとわいわい話をして。地域の人たちは、こうやったらお祭りはできるというのはなんとなく見えてるんですけど、そうじゃなくて本当は何がしたいのっていうのを話し合うために、佐々倉さんが自治会の会議のファシリテーターとして仕切り、ざっくばらんに、適当に面白そうな意見をなんでも言える雰囲気を作って。地域の人から意見がでたら、それを実現させるアイディアを次の会議に持ってきて、本当にできるんだなっていうのを感じてとても盛り上がった。自分たちの曲とか音頭とかあったらいいよねっていうのがすぐ形になったし、ポスターも子ども達とアーティストが一緒に作って、子どもたちが街に配りに行ったりとかもして。街の中で展覧会をしても、アーティストの作品だったら読み解くのが大変だったりするんでしょうけど、アーティストのもつイメージを形にする力だとか、イメージを触発する力だとかそういったものはすごく感じてくれたようで、この時に初めてMACがいて良かったなって思われたかなっていういい反応がありました。そうはいっても祭りを作っていくのがやりたいことではなかったんですけど、まぁ活動のメインではないというね。この時はそうしたかったんですね。
■ビル閉鎖と沖縄県立博物館・美術館開館
その後、祭りをやって地域の人達に喜んでもらえたとはいえビル全体としては、経営状態が良くないというか、当時の状況もあるんですけど、オーナーがビルを手放さないといけなくなりました。MACはビルを出なければならないという状況になった時に、地域の人逹が前島3丁目に残ってくれと近くの空き店舗や事務所を交渉してくれて、格安でビルの隣の物件を貸していただき事務所だけ残りました。展覧会は別の場所を借りてもできるし、ワークショップも別のところでできるしと思ってたんですけど、結局人が集まれる拠点がないと動きづらく、やっぱり拠点欲しいと考え始めていたのが2007年。事務所は作ったんだけど、拠点がなくて活動は停滞している中、2007年沖縄県立博物館・美術館が11月にオープンするっていう時で、なんとなく県内の美術状況を見ると、わさわさしているというか、ワクワクしているというか。美術館が開館に向けて問題も抱えながらも、みんがそわそわしているようなそういう雰囲気がありました。
そんな中で美術館建設と関連した背景で立ち上がったMACが、美術館のオープン時で県外からもアーティストやキュレーターの方達もたくさん来る時に、拠点がないからといって何もしないわけにもいかないよねって考えている時に、東京の『A.I.T』っていうキュレーターたちによるNPOがあるんですけど、そのNPOとは『wanakio』でも連携したことがあり、何かやりませんかと声をかけられました。彼らは時間限定の美術館、『16時間美術館』というプロジェクトをやってきていたので、それを沖縄で一緒にできませんかと。一緒にやるって言っても彼らの美術状況や問題意識は我々とは多分違うし、時間と言っても沖縄の時間と東京の時間は全く違う。「〜時間美術館」っていう彼らの時間限定というコンセプト自体が馴染まないかなってことで、「おきなわ時間美術館」というネーミングにしてイベントをしました。ウチナータイムの美術館ということです。夕方に空いて、人が帰るまで空いていると。この時拠点が欲しいと思っていたので、どうせやるならこのイベントをきっかけに新しい拠点を立ち上げようと場所探しを始めました。
■栄町市場への移転から解散へ
前島三丁目の経験からいうと、あんまり街とか地域とかと関わってしまうと、いろんなしがらみができてしまうので、アーティストが面白いことをしづらくなるなっていう思いもあって、思いっきり面白いことができるようなところ、自由で大きな空間はないだろうかと思って探し始めました。そんな中、MACの場所を探しているという話を聞いて、空いている場所の情報をくれる方もいて、その中に那覇市安里の栄町市場の空き店舗がありました。栄町市場は戦後の闇市から始まった市場で、狭いところにたくさん店が密集していて、その空き店舗っていうのが非常に面白い場所でした。あんまり街や地域のしがらみのないところでやりたいと思っていたにも関わらず、前島での経験から地域と関わってやることの面白さも知っており、栄町市場のスペースを見た時にあまりに空間としても周りの環境としても魅力的な場所だったので、ここでやりたいというふうになって、2007年の10月末に栄町市場の中で、「おきなわ時間美術館」っていうのをオープンさせます。
最初は単発のイベントとしてやり、その後もまたそこを拠点に活動をしていくんですけど、栄町市場はとても魅力的で面白かったんだけれども、地域の人たちとの距離が近過ぎて、アートをやっていくには不自由であったというのもあります。最初立ち上げた背景からいうとMACには二つのミッションがあると先程言いましたけれども、それに関しても状況がだいぶ変わってしまった。美術館建設に対しての意識っていうのもすでに美術館はオープンしたし、前島三丁目っていう地域とももう離れたし、関わっているメンバーにもそれぞれ違う状況が生まれていて。そうこうしているうちにアーティストがそれぞれで立ち上げた小さなスペースが生まれたりだとか、若手の写真家たちによる『LP』という写真雑誌が生まれたりだとか、2000年代初めに比べると県内のアートシーンもだいぶ変わってきていました。MACに関わっているメンバーの問題意識も最初から常に同じ方向を向いていたわけではなく、それを無理やりMACという枠の中に収めていく必要はもうないかなということで、それぞれが思っていることをそれぞれの場所でやろうと話し合い、2011年に解散しました。これが前島アートセンターの10年の歴史をざっと振り返ったところですね。