Interview アートに関わる様々な方へのインタビュー記録

秋友一司

2000年代

Profile

ギャラリーラファイエット経営者

■ギャラリーラファイエットについて

(阪田清子)今日は、どうぞよろしくお願いします。まずは沖縄にいらっしゃった時のことをお聞かせください。

 

(秋友一司)移住したのが96年です。当時は美術サロンにいました。
その前に1か所付き合いのあったギャラリーがあって、そこで手伝いをして、半年くらいしてリウボウの美術サロンに入ったんです。3年間です。99年までです。その後はもうラファイエットになりますね。

 

(阪田)ラファイエットを始めたきっかけは?

 

(秋友)沖縄に来る前に、大阪でもギャラリーに勤めていました。3つの画廊に勤務して、最後にいたのが現代アートのギャラリーだったんですけど、学校卒業して以来画廊以外の仕事したことがなかったんです。もう年齢も30になっていたので、踏ん切りをつけないとと思ってですね、ある意味勝負というか、年齢的にも今しかないなというので、自分でギャラリーをしたというのが正直なところですね。結局勤めでずっと終われるような業種じゃないので、いずれ自分でして、それができるかどうかっていう見極めが、僕には必要だった時期だったと思います。

 

(阪田)ラファイエットは現在までいろんな所に移転したと思いますが、1番最初って、どちらでしたか?

 

(秋友)1番最初は58号線沿いの伊佐陶芸教室ってわかります?あそこが最初なんですよ。ラファイエットと陶芸教室を一緒に始めて。これは、いきなりギャラリーやっても人がこないだろうから、陶芸教室で興味のある人をそこで集めながらギャラリーをすれば、スタートはそれでいいかなっていう感じでした。当時は、リウボウで知り合った同世代の作家。今で言うと、赤嶺学さんとか小泊良さんとかですね。どちらかというと、スタートはアートアンドクラフトギャラリーってことで、工芸がメインでした。いきなり現代アートって言っても、今でもそうですけど、はぁ?みたいな感じ。とりあえずギャラリーを知ってもらうっていう意味では、陶芸を入り口に始めたっていう感じです。そこは1年半ぐらいだったと思いますね。
その後はですね、伊佐浜という、そこからさらに海に行った方向に大きな酒屋さんの倉庫があったんですよ。120坪くらいの大きな倉庫があって。そこのスペースを自由に使っていいから来ないかっていう。ホイホイ移ったのが流浪の旅の始まりって感じでしたね。そこは半年ぐらいです。

 

(阪田)酒蔵のイメージとしてはとても広い感じがするんですけど、そうすると、その最初にやっていたアートアンドクラフトとは、また違った形になったんですか?

 

(秋友)基本は、展示品の企画は変わってないんですけど、ただスペースが大きかったので、いろいろできるかなって思った矢先だったので、結局何もできずじまいって感じでした。
当時は記憶にあるのは、『線と面』っていう企画をしたことがあって、これは書家の伊江隆人さんと画家の稲嶺成祚さん二人展なんですよ。これはそのタイトルの通り、書の筆と面画で見なれた稲嶺さんを比較するような。で、仲井間憲児さんを呼んでトークをしたりとか、割に攻めたつもりだったんですけど、全然でした。
全然というのは、まぁ内容は良かったんですけど、あまり世に知られてないとこがあって。
当時はですね、家賃なし。スペースも作ってくれたんです、わざわざ。新築して。倉庫自体は120坪ぐらいあるんですけど。でも結局ですね、銀行の抵当に入っていて、ある時銀行員が来て、ここはもう競売に出るから出てくれって言われたんですね。とういうことの顛末があって。
その次はmokumokuという。58号線沿いの、mokumokuさんは今別の場所なんですけど、mokumokuっていう木工のグループがやっているスペースに、2階建てで大きな建物なんです。2階が空いているから、来てもいいよってことで。結局ですね、半年で急に出ないといけなくなったんで、とりあえずなんとか場所を探したのがそこだったんですね。
結局そこも1年いない短さで。でもなぜ短いかっていうと、要は画廊沖縄さんが新都心にあって、当時ね。泉崎から移ったばかりで、上原さんが体調崩されてですね、一旦ギャラリー閉めるってなったんですよ。その建物のオーナーが、僕知り合いだったんですけど、上原さん出るから来ないかって言われて、安くするからって言って、だからすぐそっちに、新都心に移った。新都心はね、5年ぐらいいましたよ。まだ、県美ができる前でしたんで。酒屋もmokumokuも、どっちかというとごちゃごちゃした空間だったので、初めてホワイト・キューブに近いような場所になったのが画廊沖縄の跡でした。

 

(阪田)新都心に移られてから企画された作家さんは?

 

(秋友)藤本英明さん。そしてアリカワコウヘイ君とか。その場所で山城知佳子さんも1度やったことがあって、あと平敷兼七さん、フラバンドノエディーさんとか。新都心では、どちらかというと工芸よりも、平面とか、現代美術に移りだしたのがその頃だったと思います。

 

(阪田)工芸から現代美術の方に移行していったきっかけはありますか?

 

(秋友)元々は、僕は大阪で勤めてたギャラリーの現代アートが好きだったので、いずれそういうものもやりたいなと思っていたんで。最終的にはそっちに移行しようと思っていたので。たまたまそのホワイト・キューブに近いスペースになったので、新都心っていうこともあってですね、ちょっとこうチャレンジしようかなって思いだしたのがその時期だったのかもしれません。
その後は、結局ですね、新都心の家賃がどんどん上がりだして、その次にパルミラ通りに移りました。2階。ガラス張りの所です。2008年か9年です。101というアートフェアに出たのが2009年なんで、そのタイミングでそのパルミラにいたのを覚えています。

 

(阪田)コザに移られたきっかけっていうのは?

 

(秋友)元々住まいが沖縄市だったていうのもあって、広くて単純に安い場所を探してたら、たまたまコザのこのあたりが、そういう物件が多いと知って、色々調べて移りました。ただコザを盛り上げようとか、アノコザ(*2008年に沖縄市コザを中心に開催されたアートイベント)があってコザが面白いっていうよりも、ただ単純に広くて安い場所。で、住まいに近いので、あそこになったって感じですかね。その後、一旦M&Aっていう所に行きました。だからラファイエットはいったんそこで消えたんですね。M&Aって名前になって。それとMさん。Mさん?Aさん?Mさんが自分の店舗があるから家賃いらんよと。内装費も自分が出すから一緒にやろうというので行ったんですね。そしたら、ある日突然出て行ってくれと言われました。
それは沖縄あるあるって言うと怒られますけど、やっぱり善意っていうのがあって、僕がオープニング、東松照明さんをやったんですよ。東松さんやって、真喜志勉さんやって、僕の企画は任せるって言われてやっていたんですけど、ある時Mさんの方から企画を入れだしたんですよね。演歌歌手の城明展やるよって。いや、ちょっと待てと。何考えてんですかみたいな。それで、もう僕はその会期中はいないって言って飛び出して。そうこうしてる1年ぐらいだったと思うんですけど、まぁ石川真生さんをやったりいろいろやっていたんですけど、「もう君、もういい出ていけ」って言われて、「はい」て言って(笑)。

 

(阪田)M&Aの時は、2人で交互に企画するように?

 

(秋友)いや、最初は僕に企画は任せるって話だったんですね。で、いろいろやっていくうちに、自分も何かしたくなったんだと思うんですけど。それは当然ね。何度も話し合いをした結果なんですけど、もうやるということになって。M &Aも1年ちょっとじゃないですかね。だから酒屋に移ったのと、新都心に行ったのと、M&Aに行ったのは、誘われた形で。合意して行ったんですけど、それぞれがそれぞれの多少問題があったと思います。現在の場所に移ったのが2011年ぐらいだったと思うんですよね。ここはもう6年目ぐらいになるので、今まで一番長い。ここはですね、本当に家賃が安くて。壁もなくてトイレもなかったんですね。本当にただの箱だったんですけど、そこに壁を建てたり、トイレを造ったりして、そういう条件でそういう値段だったんですけど。

 

(阪田)今こちらに移られて、年間の企画展はどれぐらいとか決められていますか?

 

(秋友)特に決めてないですね。っていうのは、まぁ僕一時、文化振興会に1年半いて、全くほとんど何もしない年とかもあったんですけど。僕も50なんで、先々がそんなに長くないだろうと思っているんですね。だから最近は年間いくらっていうじゃなくて、いいと思えるものだけを少しずつやればいいかなという感じに今変わってます。
文化振興会のプログラムオフィサーは、とりあえず任期は3年あるんですけど、僕は1年半。その期間中は、そちらもやりつつ、こっちもやりましたよ。例えば石川竜一くんとかもその期間でやりましたし。あそこは月16日って、わりに自由に取れたんで、10日間ぐらいの展示会はすぐできた。そして、イチハナリはもう去年で終わったので、今僕のメインの仕事はギャラリーとまぶいぐみですね。あと、ひめゆりピースホールっていう所も多少手伝っています。

 

(仲宗根香織)それはどういうところなんですか?

 

(秋友)ひめゆりピースホールは栄町市場の中に同窓会館っていうのがあって。宿泊ができるところ。だからベッドメイキングをしたりとか掃除したりとかね。そういうのが今の主な仕事です(笑)。あそこは、まぁ僕っていうか、うちの奥さんの方が契約して、いわゆる店子として家賃を払って、運営しているっていう格好です。

 

(仲宗根)ラファイエットの名前の由来とかあるんですか?

 

(秋友)よく聞かれるんですけど、曲名なんですよ。レゲエの。これも最初ギャラリーをする時に、銀行から借り入れしたんですね。その時屋号がいるんだと。なんも考えてなかったんで、じゃあラファイエットでいいかって思ってやったのがそもそもですね。そんなに深い意味はないです。ただ、その曲が好きだったっていうだけで。

 

秋友一司

 

■コザでの活動について
(阪田)コザの活動について、お聞きしたいと思います。こちらに移動されてから、ギャラリーだけではなくて、街の中で空き店舗をアーティストに誘致するとか、いろいろな活動もされていますが、まずはそのきっかけからお願いします。

 

(秋友)沖縄市から3年だったかな?業務委託を受けて、街の活性化という名目で空き店舗にアーティストを誘致するという活動を3年ぐらいしてたんですよ。僕が、パルミラに行った翌年ぐらいなんで2008年か9年ぐらいだったと思います。
多い時は11人雇っていた格好になっててですね。沖縄市と県からこの事業をしてくれっていうことで。沖縄市の事業で5人雇って、県で6人雇って。だから11人ぐらい。ただラファイエットとしては全然、直接タッチはしてないですけど。そこで、左刀大地君とか平岡昌也さんとかが関わっていました。

 

(阪田)石垣克子さんは、多分アノコザがきっかけでコザへ来られたかなと思います。

 

(秋友)スペースZでしたっけ。運営もしながら、同じ建物の中に最初いたと思います。
コザでの活動っていうのは、単純にいえば空き店舗を調査して、家主と交渉してアーティストをマッチングさせて、そこに制作ができる環境をこしらえる。
例えば、トロピカルとかもそうだったんですけど、壁を白くしたり、照明を変えたりとか、そういうのを5人ないし11人で手仕事でやったっていう。その一つがアーケードだったり、ワンズだったり、トロピカル。で、何人か、美術家が見に来て、ここにしたいっていう、決めた場所とかもあったりしたんですけど、結局今もその人達が、まぁ吉濱君もね、もう移りましたけど、平岡さんと左刀君はまだいますし。こういう事業をラファイエットがというか、うちの奥さんの方がやってたという。

 

(阪田)多い時はどのくらいアーティストを誘致してたんですか?

 

(秋友)例えば、西真理さんっていう人がいたり、宮城クリフさん達の場所があったり。多い時で、人数で言えば10人以上はいたと思います。

 

(阪田)アーティストを誘致して、街の様子が変わるなどありましたか?

 

(秋友)基本、変わらないです。まぁアーティストもそこで生活してるわけじゃないので、どっちかていうと夜、アトリエを持ってるという形だったので、あんまり街に与えた影響っていうのはさほどはないと思います。今もですけど、あまりみんなで、何かをしようと雰囲気にはまだ、なってなくて、お互いがお互いでやっててっていう距離感が、今はまだいいのかなって言う感じですね。
wanakio2008年くらいには、コザの街でワナキーズっていうオークションがあったり、空き店舗でその期間だけ展示をすることがあったり。でも僕と前島アートセンターとの距離感っていうのは、近いようで遠かったような印象があって、あちらでされてることと僕がやってたことっていうのは、点では結びつくんですけど、線とか面まではお互い繋がらなかった、そういう感じだったと思いますね。
前島ストリートミュージアムとかから始まって、若い人たちがいて、僕が知ってた世代っていうのは僕と同世代の、その下の世代の人たちが出てきたかなっていう印象で。でも山城さんと、エディーさんと、何人かはあちらの出てた人の個展をしたりとかあったんで見には行ったりはしましたけど、頑張ってていいなぁっていう感じでしたね。前島アートセンターからはどう見られてたんですかね(笑)。

 

(阪田)そうですね。でも前島の人たちもラファイエットに限らず、他のギャラリーは良くまわってたかなと思います。そうやって沖縄のアートを気にかけていたというか、どういう作家を取り上げどんな作品が展示されているのかといことはみんなそれぞれ見ていたと思います。

 

(秋友)そうですよね、だから、お互いなんかしようって言うよりも、お互いがお互いで頑張ってたっていう感じだと思うんで。

 

(阪田)コザ行われたアート展についてまたお聞かせください。

 

(秋友)県美の『アジアをつなぐ』だったかな、の時に、女性の企画の巡回展があったじゃないですか?あの時に豊見山さんから、何かできませんか?っていう打診があって、当時『コザの窓』っていう場所があって、そこで女性だけのグループ展。お金も何も出なかったですけど、やったっていうのはありますけど。
『コザの窓』っていうのはですね、元々その場所はコザまち社中というNPOがあって、そこが国のお金で、内装をリフォームした場所が一番街の中にありました。そもそもあそこはですね、コザまち社中とミックスライフスタイルが内装をやるんですけど。彼たちに何千万だか出してあの建物をリノベーションしたんですよ。リノベーションして活用するって言ったんだけど、結局活用できずにうちの奥さんがやってたオフィスブラットっていうところが入るという格好に一時期なって、そこでやってた時代が『コザの窓』っていう名称でやってたんですよ。

 

(阪田)『コザの窓』の活動について聞かせてください。

 

(秋友)例えば当時、平良亜弥さんとかもいたんですね。確かスタッフで。やったのは、その県美の巡回っていうかサテライト展と、あと森山大道のワークショップをしたのと、あとは事業予算が多少あったのでゲストを招いてレクチャーとかトークをして、そこにコレクターの宮津さんとかを呼んだりしたっていうのが3つくらい覚えてます。県外からもゲストを呼んだり、あとは単発で丹治さんが展示をしたり、そういう展示にも使ってましたね。当時は2階をアーティストの共同アトリエっていって、10組くらい入れるような仕切りを作ってたんですよ。それももう今は跡形もないんですけど。
今はその活動は一旦そこで終わって、どちらかといえばひめゆりピースホールの方に今移ってると思います。『コザの窓』っていうのも委託の事業だったんですね。期間が終わるともう終わってしまったっていう。

 

(仲宗根)コザって場所が、しっくり来ている感じはありますか?

 

(秋友)結局場所の問題で言えば、いろいろ移って分かったこと。やっぱり来る人しか来ないっていう。新都心だからね、便利だから人が来るかっていうと、そうでもないんで。来る人はどこでも来るっていう感じ。だから企画というかね、良いものさえすれば、それなりに人は多少不便でも来てもらえるだろうっていうぐらいですね。
今はコザって言うブランドというイメージよりも物件として魅力があるっていうのが、コザっていいなぁっていう…。うちの奥さんはね、いろいろ市とか県からコザの市街地活性化で事業をしましたけど、僕自身はどっちでもいいんですよ。活性化しようがしまいが。僕自身は、多少は還元できればいいけど、積極的に街づくりに入り込もうとは思わない感じです。コザに対して。

 

(阪田)銀天街の動きもありますが、以前だとスタジオ解放区がいて活動していましたね。そこの関係性っていうのは、どんなふうでしたか?

 

(秋友)お互い行き来はあって、あっちはあっちでまた、沖縄市からお金が出てたんで、それぞれやるべきことがあって、その上で行き来はあったんですけど、これが一つになって何か事を起こすっていうところまではまだならなかったって感じですね。斜めに見合ってたわけじゃないんですけど。林僚児くんがコザとゴヤを行ったり来たりして、うちらも銀天祭りとかいろいろ行ったりはしてたんですけど。

 

(阪田)お互い見てはいたけど連携してするいうところではなかった?

 

(秋友)そうですね。何度かそういう話はあったとは思うんですけど、結局は何か実現ができてなかったんだと思いますね。あっちは商店街組合が無くなって…。市もお金の出しどころが今ないので、それと同時にスタジオ解放区もなくなって。最近は僕もなかなか行く機会がないですね。

 

(阪田)前島アートセンターがあった頃は、銀天街との交流がよくあったんですね。
沖縄市と那覇市で距離はあったけど、お互い世代も近いところがあったんで、情報交換をよくしていたところだったかなと。前島とは結構行き来しているアーティストも多かったんですね。それと前島アートセンターの理事でもありwanakioのディレクターでもあったティトゥスさんも銀天街の活動には深く関わってましたから。

 

(秋友)たぶんあの時代はまだ、僕ら、僕らっていうかうちの奥さんもまだそういう事業をやってなかったと思うので、ちょっとズレてるかもしれない。その時はもう栄町だったんですか?

 

(阪田)そうですね、栄町に移っていました。

 

(秋友)コザでね、もしかしたら銀天街と一番街って近いようで遠かったのかもしれない。例えばこういうこともあってですね、林くんが2年ぐらい前に来てて、ちょっと見てほしいものがあるって言われて、いそいそ見に行ったら、こないだやったんですけども、曽根裕さんが立ち上げたBeautiful Artistっていう企画があってですね。要は曽根さんが9.11の時にアートで何かできないかっていって、自分のアトリエで自分の絵と知り合いのアーティスト入れて、アトリエで展示会をするんですよ。それを知り合いのアーティストにパッケージで送って、その送られたアーティストが自分の絵を足して展示会をして、またニューヨークからロサンゼルスへ行って日本に来て、実は沖縄に来て10年間止まってたんですよ。それを、これ見てくれませんかって…。それで、よくよく調べたらほんとは藤浩志さんから託されたんだけど、林くんはもう長野に帰るからと手付かずで10年間ほったらかしてたのを、もう荷物整理の時に出てきたのか分からないけど、なんとかしてくれって言われて。とりあえず物だけ預かり、この間やっとタカバタケさんっていう人に託して。結局50人ぐらいのアーティストの作品で結構なボリュームなんですよ。そういう意味では銀天街の遺産を一つ、手助けできたかなっていうふうに思いました。
押し入れ用の服のケースってあるじゃないですか。あれが三箱ちょっとです。
作品は銀天街に2007年ぐらいに来てるんですよ。それまでは山口・福岡・金沢などに行って、その後に鹿児島から林くんのところに来たみたいです。それは言ってみれば他人が始めたプロジェクトなんで林くんには責任がないのかもしれない(笑)ですね。
もうちょっと言えば、アーティストイニシアティブが強くてですね、僕らが入ってどうのっていうのじゃなかったんで。で、タカバタケさんに僕が話して、興味があるからやりたいって言った時に、彼女はその出展作家に分かる範囲で全員に連絡していたらしいんですよ。曽根さんにも連絡したと思いますけどね。でも、かといって、中には作品返してくれって人もいたらしいんですけどね(笑)。

 

秋友一司

 

■イチハナリアートプロジェクトについて

(阪田)イチハナリアートについてお聞きしたいと思います。プロジェクトに関わるきっかけからお聞きしていいですか?

 

(秋友)きっかけは4年前にイチハナリが、今年7年目なんですね。
14年に事務局から連絡が来ました。その連絡きた内容っていうのが、3年目を終わって統括をする、シンポジウムをしたいと。それの司会をしてくれないかということだったんですね。それでパネリストに北川フラムさん、伊計島の自治会長と、そのイチハナリを立ち上げた喜久山悟さんといううるま市出身の方と、あと愛知県の佐久島アートのプロジェクトをしている方の4人がパネリストで、僕が司会っていうので呼ばれたのがきっかけですね。そのシンポジウムを無事終えて、年度が変わってから、実はディレクターが3年で交代なのでやってもらえないかって話が来たのが2015年です。

 

(阪田)ディレクターとして3年間。秋友さんがディレクターになって、その前から始まっていたイチハナリを見られて、どのように秋友さんの目に映りましたか?

 

(秋友)最初は小中学校を中心に、結構長い期間、1ヵ月とか2ヵ月やってたんですね。最初ディレクターをされた喜久山さんはうるま市出身で、当時熊本大学教育学部の美術の教授で、その人がうるま市に帰省した時に、同級生の市の担当者から、実は一括交付金っていうのが来て、離島振興みたいなのができないかなって言ったら、瀬戸内でそういう事例があるからアートでやってみたらどうか、というのがそもそも最初だったらしいんですよ。
その3年間は喜久山さんという方がディレクターをして、彼が属している日本こうさく学会の人たちがグループで作品を持ち込んで展示をしていました。2年目には照屋勇賢さんがスポットで入ったりして。それで僕に代わった段階で、僕としてはあまり良く知らないこうさく学会(正式名称は不明)のグループ展よりも、学生とか地元のアーティストもいるんだから、沖縄の人たちにも展示の機会を与えてはどうかって言ってやったのがこの3年間なんですよね。
琉大の学生もいましたし、県芸もいましたし。沖縄国際大学の学生達が研究テーマとして、地域のアートフェスティバルを調査していました。

 

(阪田)最初はその小学校が中心だったんですけど、それから派生していろんな島に展示場所が増えていきましたよね。そのきっかけというのは…。

 

(秋友)まず3年終わった段階で、小中学校にテナントが入ったんですよ。N高校という角川系の通信教育、学校が今も入ってるんですけど。それが来て、まず学校が使えなくなったと。伊計と宮城、浜比嘉、平安座を4年目から増やして、4島でやるって変わったのが4年目なんですよ。
島っていうか、たぶんこれは行政上のテクニックだと思うんですけど。最初3年伊計でやって。一括交付金は、3年で一旦見直しが入るんで、4年目からじゃあどうするのとなった時に、展示の島を増やしましょうと。それを行なったのがちょうど僕の時期だったんです。僕が意図的にこっちもこっちもって話したわけじゃなく、すでにそういうプランの上に僕は入ったっていう感じだと思います。
僕も、そういうディレクターっていうのも初めてだし、もちろん伊計島のイチハナリは何度も見てたのでだいたいの様子は分かってたんですけど。ディレクターって何をどうしたらいいっていう、仕事の制約が曖昧なんですよ。一応その書面では契約はするんですけど、そこにアーティストを選定して設置までとか、そういう具体的な書き方じゃないんですよ。それを、まず僕が場所を探して一からやるってとても出来なかったので、アーティストも4、50人いたんで、全部マッチングさせるというのは僕自身一人じゃ無理なんで。事務局のうるま市観光物産協会の担当スタッフも、アートプロジェクトの専門じゃないし、僕も初めての機会だったので、最初はもうてんわやんわというか、何がどうなってるのか分かんないっていう状況だったと思いますね。
とはいえ、期日があるので、最終的には開催には至るんですけど。細かなトラブルが当然あちこちにあって、例えば突然建物を貸さないって言われたこともあったと聞いてます。

 

(阪田)アートプロジェクトを運営するに至って、その時はどのぐらいのスタッフで動いていましたか?

 

(秋友)事務局がうるま市観光物産協会なんですけど、担当は二人ぐらいですね。少ないでしょ(笑)。しかも、一年間イチハナリに集中してるわけじゃないですからね。マラソンやエイサーなどのイベントも行う組織なので。これは一括交付金の良くないところなんだけど、1年毎に実績成果をみて次年度も続けるか国の審査を受けないといけない。恐らく中長期のビジョンもあるはずだが、あくまでもうるま市の担当課と国との調整なので、事務局(観光物産協会)まで共有されているとは思えません。
そういう状況の中で、今年のイチハナリがあるのかないのかはっきりするのが大体5月ごろ。まず、うるま市のホームページに今年度の受託事業者の募集が出て、事務局が応募、プレゼン、審査を終えて無事に市と契約が結ばれるのが7月頃。そこから初めて僕に話が来て、僕と契約して、そこからアーティストを探すっていう。通年した計画が立てれないというのが、一番ネックなところです。
ディレクターになった最初の年は夏休みの開催だったと思います。秋口に儀間比呂志展をやったりとか、いろんな取り組みは最初の頃やってたんですけど、僕に変わってからはもうイチハナリだけでした。

 

(阪田)3年間ディレクターをされて、3年間で何か変化、あるいは何か気づかれたこととかありますか?

 

(秋友)僕がいた3年間というのは、まずは展示会場が4つに増えたことです。その4つの島に8つの自治会があるんですよ。自治会長は当然8人いて。この8人にもいろんな温度差がやっぱりあるわけですね、積極的な人もいれば全然協力的でない人もいますし。やっぱり協力的な地域はどんどん自分たちで自活的に動いて、例えばね、そば屋を出そうとか、地域の古い物を展示しようとか、そういう動きがある自治と、展示に向いた空き屋が少なく、現代風のコンクリート家屋多くてアーティストもあまり興味を持てないエリアもありますね。
行政とかね、僕らとかアーティストもそうかもしれないけど、良かれと思ってやろうとしても、なかなか理解とか協力してくれないし。自治会長はダメでも住民が協力してくれたりっていうところもあって。要は年度が変わって、7月くらいに今年もディレクターお願いしますと、連絡が来るか来ないかっていうだけなんですね。今まで3年は6月か7月ぐらいには今年もお願いしますっていうのがあったんですけど、今年はなかったんで、ああもうじゃあないんだなって。

 

(阪田)ディレクターの選定に関しては、うるま市になるんですか?

 

(秋友)いや、観光物産協会です。去年、岡本光博さんの展示の件でちょっとお騒がせをしたのですが。作品「落米のおそれあり」については、道路標識の「落石のおそれあり」をもじった図案で、設置した伊計島は普天間基地と東村高江を結ぶオスプレイや他のヘリコプターの訓練飛行空路にあたり、制作の為の視察の時にも数機上空を飛んでいたので、岡本さんとしては新作ではなかったが最終的に「落米のおそれあり」に決めました。それ以外にも色々案があったんですが諸事情により実現しませんでした。興味があれば「落米のおそれあり」でネット検索してください。まぁ自分への批判は甘んじて受けますが、地元紙の記事もいい加減な取材で何も私に聞かずに平気で書いてるものもありますし。
実は会期中に、いろんな圧力があったみたいなんですよ。例えば、内閣府から観光協会にはあったらしく。その時にイチハナリを担当した人は今誰もいないですよ。最初2年担当した人も、もういなくて、去年担当した人もサポートしてた人たちももういないです。アートを10年間通してきっちりやろうっていうスタンスが市にもないし、事務局にもないので。ただ事業として作り上げられたものをひとまず10年間こなすという感じのかなというふうに思ってしまうというか。対応から受け取り方としてはそう見えちゃうこともある気がします。

 

(仲宗根)そういうので、内閣府から圧力があるんですね。

 

(秋友)だからイチハナリの岡本さんの件で言えば、新聞にもいろいろ出てますけど。
選んだのが僕で、場所を決めて許可を取って準備までしたのも僕が関わってたので。だから岡本さんが来て制作して、終わって、一週間後ぐらいにプレス向けのバスツアーをやったんですよ。マスコミを呼んで一台バスの中に僕とかアーティストと観光協会と市の担当者も乗って、全部は回れなかったんですけど、スポットになるところは見せて、そこで岡本さんのもちゃんと見せて、説明をして、新聞記者も写真を撮ってツアーは終わったんですけど、翌日に急遽、伊計の区長があれを展示させないっていう話になって。それで、非公開になるんですけれども。僕としてもね、政治的な意図であれをやったわけじゃなかったですけど、市の方が忖度したのかよく分からないです。
それでまぶいぐみの、豊光さんは出展作家だったので、もう抗議するって言って、まぶいぐみで抗議をすることになり、マスコミを連れて市長に会いに行くことになりました。でも、市も協会もどうしたいのかが分からないって言いだしたんですよ。作品公開はあの場所ではもう出来ないのは決まったので、場所を移して公開するべきなのか、あるいはもう非公開のままでいくのかって、協会も判断ができなくてですね。最終的に僕は公開できる場所をあっちこっち探して、それで宮城島が了解を出してくれて、公開の前日の話ですよ。
それも協会が全然それをさせなかった。でも、中にはあれだけ話題になったのだからうちに持ってきてくれって言ってくれる人や、あと伊計の住民がうちの軒先に置いてくれって言う人もいて。一方的に政治的だってことで市が決断をしたことなんです。

 

秋友一司、阪田清子

 

■近年の沖縄のアートについて

(阪田)ご自身でもギャラリーも運営しつつ、あとアートプロジェクトのディレクター、文化振興会のプログラムオフィサーなどいろんな立ち位置されて、その20年で、沖縄のアートの移り変わりというか、秋友さんから見て気づかれたことなどお聞かせいただけますか?

 

(秋友)まず、県美ができたっていうのはね、一つ大きなことだったと思うんですよ、だったなんですけど、だとは言わないですけど、だったんですよね。だから一応ね、県立美術館っていうのもできて、芸大もあるし、前島とか、若い人たちの活動してる場があったってことで、一つ沖縄県のアートシーンみたいなところが2000年から10年ぐらいにかけて、ある程度形にはなったと思うんですよね。だから96年とか、僕が来た頃は、沖展はあったにしてもそんなにあんまり活発な印象もなかったですし。美術展っていうのも限られた場所、市民ギャラリーとかでしかなかったので。そういう意味では東京がどうとかそういうわけじゃないですけど、一応0年から10年でいろんなものが形にはなったっていうことですよね。10年代に関して言えば、今はバラックとか、あとはそこにもあるストックルームとか、また次の若い30代ぐらいの人たちがね、僕がギャラリースタートしたのは32歳だったんで、たぶんその年代の人たちが今また活動してるっていうのは、この先もそういう形でいいんじゃないかなと。僕はアートフェアに出たんですけど、その時言われたのは、まず沖縄に画廊があるっていうのはびっくりされたんですよね。まずね。看板にラファイエット沖縄って書いてある、沖縄に画廊があるんですねって(笑)。
当時2009年は、沖縄プリズム展が2008年にあって、県美のオープンが2007年だったんですけど、僕の中ではある程度沖縄にもアートがあるっていう認識なんだろうなぐらいに思っていました。当時ラファイエットから出した作家は、山城知佳子さんと藤本さんと豊永さんがいましたけど、でも誰も見向きしないわけですよね。
まず沖縄に画廊があることが不思議なようで沖縄アートもまず上から見下ろされているように感じたんですね。でも山城さんの作品が売れたんですよ。初めてですよ。だから中にはそういう人もいるんだろうなって、分かっただけでも良かったんですよね。年間、ほぼ一年分の家賃を3日か4日につぎ込んで、旅費をかけてわざわざやるって、今はあまりもう感じなくなってますよね。
今後、僕も50才なんで、あと10年どうしようかなと思ってて、まだこれは全然実現性はないんですけど、できたら台湾にギャラリーを移したいなってちょっと思っていますね。
東京は面白くないし、東京に行くよりも台湾近いし、台湾でギャラリーしたら面白いなと思ってる時期ですね。そういうのがこの先目標というか、そうできたらいいなっていう感じですね。

 

(阪田)今日は秋友さんが沖縄に来られてからを振り返っていただきました。大変ありがとうございました。


聞き手阪田清子、仲宗根香織
収録日2018年10月28日