Interview アートに関わる様々な方へのインタビュー記録

上原誠勇

1990年代

Profile

画廊沖縄オーナー

■画廊をはじめた経緯

町田)まず、画廊をはじめたきっかけをお聞きしたいと思います。

 

上原)画廊をはじめたきっかけですか、分かりやすく言えば、沖縄にこれだけの画家がいるのに、社会にプレゼンして売っていく画廊が無かったことです。

高校を卒業して上京し、電子系の技術屋をしながら絵を描いていた。7年余の生活を終えて、沖縄に戻ってきて、職を転々と変え、最終的に雑誌の「青い海」に4年勤めました。そこで沖縄の美術関係者、作家の先生方と会う機会が多かったですね。

だけど、よくよく考えてみると、こんなに作家さんがいるのに企画画廊がほとんど見あたらなかった。あったとしても貸し画廊が多く、画廊喫茶みたいな画廊も多かった。「文化画廊」(那覇)、「クラフト国吉ギャラリー」(那覇)、「画廊匠」(宜野湾)、代表的な「沖縄物産センター画廊」(那覇)があって、大先輩方の作家さんや現在70代以上の作家さんは「沖縄物産センター画廊」をよく利用し、中心的な画廊だった。その物産センター画廊が、唯一画廊らしい雰囲気が漂っていて活発だった。那覇の中心地と言うこともあり、作家さんにも人気があった気がするんですね。

タイムスホール、それから琉球新報ロビー、県民アートギャラリー、デパートの美術サロン、あとはもう画廊喫茶が多かったですね、城間喜宏さんの「セーヌ画廊」(コザ)とか、星雅彦さんの「詩織」(前島)、「バルビゾン」(嘉手納)「ルネサンス画廊」(普天間)、あっちこっちにあった。

東京時代も画塾に通いながら美術館や画廊通いをよくやっていましたので、今から振り返ると、美術を社会に繋げていく仕事がしたいな、と心の何処かにあったのでしょう。これも出版社に勤めているときは考えていなかった。それまではまだ絵描きになりたいと思っていましたから。雑誌「青い海」社を辞めることになって、それで、画廊をやろうと思い立って、これまで書きためた作品(油画)はほとんど燃やしました。残ったロールキャンバスや、絵の具、フレームなど友人の美術家にあげました。いさぎよく、さー画廊だ…企画画廊だという感じで。スタートしました。

 

町田)そのときは、もうご結婚されて…

 

上原)結婚もして私は34才、子どももいました、4才の長女と3才の次女。将来の生活のことを考えたりして。出版業って厳しく、経営が不安定でしたから。社長にいろいろと経営の相談をして、「縮小して、少数精鋭の体制で」と訴えましたが、「縮小しない」と社長の結論を聞いて、そのとき総務をみていたんですけどね。社長にお願いして、「私辞めます」って辞表を出して。

辞めてこれから先何をしようか、何も考えて無かった。画廊でもやっちゃえって事になったんです。前島小学校の正門まえの小さいぺースを借りて。画廊の経験もないまま、若気の至りというか無防ですね、今考えると。

 

町田)前島がスタートですか。

上原)前島小学校の正門の向かいのマンション。家賃が5万円くらいかな。スペースが5坪くらい。内装も自分でやって、友達も手伝ってくれて、手作りですよ。1981年の6月に内装始めて、企画展がスタートしたのは9月かな。

沖縄の作家さんを片っ端から、月に2回。2週間の企画で合計4週間の展示会。中一週間は休みで。画廊のホームページ見ると分かると思うんですけど、かなりハードなスケジュールでしたね。現在の画廊のHPにupしてありますよ。若かったからできたんですね。懐かしいです。

 

町田)歴代の沖縄画壇を取り扱って。その頃って誠勇さんの画廊沖縄以外にもポツポツと画廊ができはじめた感じでしょうか。

 

上原)その時代は貸し画廊と、画廊喫茶は結構あっちこっちにありました。僕の画廊イメージは企画画廊しか頭になかったです。自分でこれはと思う作家さんを選んで企画展して。沖縄の作家は当時200~300人ぐらいいたんではないでしょうか。沖展や県展に出して、グループ展や個展をしている人とか。その中から絞り込んで100名以内、しかも80年代前後にして、むこう2,3年で個展をした経験がある人、活動中の作家と言うことを念頭に入れて企画展を計画して行いました。

ある人に、「沖縄では画廊は3年でつぶれるよ」と言われました。確かに、開廊して1年はほとんど絵が売れない。会社関係や新築の家、病院など営業して回るのですが、絵が売れない日々でした。ある時、当時琉球新報の美術担当の記者をされていた三木健さんが取材に来られ、僕が沖縄の作家(画家)をリサーチした資料のアルバムを見て、「これすごいな、沖縄に画家がこんないっぱいいるの」、と驚いていました。作家の顔写真とプロフィールを取材して、アルバム資料に添えてあったので、分かりやすかったのでしょう。「上原くん、これは画集にしたほうがいいよ」と、それで月刊沖縄社(佐久田繁社長)を紹介してもらって、当時社員の島袋捷子さん(ニライ社)が担当窓口になって、画集をつくることになりました。

取材と作家選定、レイアウトは私がやって、撮影は写真家の嘉納辰彦さんにお願いし、半年の製作期間で大急ぎでした。1982年11月、画集「沖縄現代画家78人」(定価12500円)が完成し発行されました。1万円を超す画集でしたが、予想を上回る売れ行きでした。このような沖縄美術界をまとめた画集が必要とされていたのだと思いました。

出版社時代の営業戦略を思い出し、8人ほどの営業社員を抱え、沖縄中を飛び回り、その画集は学校や役所、一般の会社などで受け入れられ1年余で1500部ほど販売し、運転資金の返済に目途がたちました。

「絵は売れないが画集は売れる」その画集が売り切れる頃になると、沖縄作家の絵の注文が入る様になったのです。画廊のキャッチコピーは「暮らしの中にアートを」でしたので、画集がその宣伝媒体になったのでしょう。思わぬ展開に手応えを感じたのは開廊3年目のことでした。その勢いで画廊を前島から泉崎の中前通りに移転し画廊スペースも3倍の15坪の画廊へと拡大していきました。

 

町田)なるほど。仕組みが無かったものを整えていく作業というのは、そのノウハウが『青い海』時代にあったからでしょうね。コネクションや技術的なものとか。

 

上原)コネクションもそうだけど、『青い海』に入った時も、結局あれは定期購読、年間3,500円(10冊)正月の特集とか夏の特集、年間10冊ぐらい発行して3,500円。後には5,000円になりましたけどね。入社した時、定期購読の営業から僕は入っているので、すぐ役所行ったり、学校行ったりして、休み時間に、「すいません、先生、こんにちは。雑誌の青い海です・・」こんな感じで営業して。

また、定期購読している読者の未収金というのが結構あったんですね。当時250万円ほどかな・・。編集長に、これを手分けして回収しようと、そういう提案をしたりして。生活は厳しく、まともな給料がもらえるのか気掛かりではありましたが、入社面接の時、津野創一編集長が「あんたは技術屋なのに出版社で飯食えないよ、厳しいよ」と言ったのに対し、私は「いいです、僕は沖縄の歴史も文化も何もわからないし、それでは絵を描けません」と言って、「お願いします。なんでもやります。ただ一つお願いがあります、沖縄の画家たちを取材させて下さい。カラーグラビアで毎号紹介して行きましょう」「いいよ」と編集長とのやりとりの返事で「やった!」という感じで入社したものだから、徹底的にリサーチして、営業のシステムを再考して、自分がやっていることがどれだけの効果があるのか、あるいは改善する方法がないか。どうしても僕は物理系なので、そのような方向に行ってしまいますね。社内は文系の文学青年達が多かったんだよ(笑)。

 

僕の執拗な提案が採用されて、購読者の名簿をカード式で管理する。今のコンピューターに近い発想ですね。全部アナログですけどパンチカードで、要するに一人一人の読者のカルテをつくった。パパパっとこう、未収金、何年この人は購読しているかとか、検索マシンを導入して、当時70万円ぐらいでね。そういうことをやって、完全に顧客管理をやったりして、とにかく確実に集金をして利潤を上げていく、あるいは購読者を増やす事に熱中していました。購読者はピーク時8千名を超えていましたよ。定期購読が。すごい勢いでしたね。日本本土、ハワイ、米国、南米、ブラジル、ペルー、アルゼンチンなど海外にも送っていましたね。県内各書店でも置いてもらって、毎号2千冊ほど売れていたから。発行部数も1万2千部ですよ。発行部数が当時ピークの時。1977年から81年まで関わりましたからね。4年間。

 

町田)みなさんにとっても楽しみにされていたでしょうね。

 

上原)そうそう。ちょうど復帰の後で、海洋博が終り、あれ、なんか違うぞ、沖縄のアイデンティティーが日本化されていくなかで、みんなちょっと、あれ?あれ?って言う時代にあったから、沖縄社会があの雑誌が受け入れられたのでしょう。創刊号の表紙が儀間比呂志さんの絵でスタートしていて、沖縄の歴史文化をもう一度確認しよう、そういう思い(風潮)があったと思います。想像以上に僕は学ぶ事が多かったですね。

 

町田)その徹底した経営理念があったといえども、やはり、画廊経営って今も昔も大変だったんじゃないかなと。

 

上原)そうです。だからどうやって売ろうかと。どうやってクオリティーの高い作品を生み出し、作品が売れ、作家が生活できるような、環境をつくれるのか、ということに腐心したんですね。それで僕はデパート山形屋で、「沖縄の現代画家50人展」大きなフロアーを使ってやりました。まあまあ反響があって売れましたね。それから東京の松坂屋でもやりました。みなさんが繋いでくれて、沖縄タイムス東京支局長の由井晶子さん、あの方にも、「大丈夫かなー」(想像ですけど)と思ったのでしょう。それで沖縄協会の吉田嗣延さんと県沖縄事務所を紹介頂きました。また東京上野の松坂屋を紹介してもらって、沖縄の美術展やったり、それから水戸のデパートでもやったり、東京の表参道でも、新宿の東京ガスのギャラリーでも、やったりいろいろやりましたね。

 

町田)どうですか、反応として、東京の方が買ってくれましたか。

 

上原)いや、そんなに買ってくれない。沖縄の美術はほとんど無視されましたね。ほとんど赤字の企画展

でしたね。

ただ沖縄出身の方が、与那覇朝大さんの絵とか、沖縄の風景、ローカリティのあるような風景を買ってくれたことは確かですね。新城征孝さんの絵とかね。沖縄の画壇なんていうのは関心持たれないし、無視ですよ、あちらでは。ほとんど知られてなかった。

 

やっと照屋勇賢とか山城知佳子が日本のアートシーンやマーケットに参入しているんだけど、40年前っていうのはとてもじゃないけど。ほとんど知られてない。

ただ、印象深いのは茨城県水戸市のデパートで「沖縄の美術家展」をやった時の事ですけど、70才ぐらいの初老のオヤジさんが、展示会場にやってきて、一生懸命沖縄の風景画を見ているんですね、で私が「沖縄へ行ったことがありますか?」と訊くと「行ったべさー戦争で・・・」「あれから行ってねー・・行けねーべー」「沖縄には悪いことしたべ・・」「・・・・・」あまり語ろうとはしなかった。

更に翌日、同年代の白髪頭の恰幅のよいオヤジが展示会場に現れて、「沖縄は暖かくて良い所ですよ」

と声をかけても、背中を丸めて手を後ろに組んだまま黙って画面をじっと見つめ続けていた。会場を去るとき「沖縄は戦争で行ったが、おなごには悪いことしたべなー・・」とつぶやき足早に去っていった。戦争で沖縄へ行って生きて帰ってきて50年過ぎても、戦争トラウマがあり、沖縄へ行けない、想い出したくない・・という「本音」を聞いた感じがして、強く印象に残っています。

 

でもね、それはとてもいい勉強になりました。もともと美術系でもないし、文化系のことをやってきたわけでもない。科学的に論理的にまず考察してどういうシステムになっているのかとか、どういうふうな展開をすればどういうことが得るか、そういうことをすぐ分析して考えていくタイプなので、当時も画廊したら3年で潰れるだろうと言われたけれど、潰れたら潰れたでいいさという感じで思っていたから。どこまでできるのか、挑戦という感じかな。無謀なことと今になったら思えるけど、当時の僕にとっては素直な出方だったんですね。沖縄社会に必要だからやっただけにすぎない。

 

■ギャラリー全盛期

町田)そのうち、画廊沖縄以外にもギャラリーができてくるんですよね。

 

上原)できましたね。いっぱいね。

 

町田)ギャラリーがいっぱいできて、ギャラリー巡りを母親に連れていってもらったという勇賢さんの話を聞いたんですね。今しか知らない私からすると、そんな時代があったのかというぐらい驚きました。

 

上原)3、40件ぐらいあったと思いますよ。

 

町田)81年に画廊沖縄をオープンして、ギャラリー全盛期みたいなのはいつ頃、訪れるんですか。

 

上原)80年代半ばから始まり、ピークは90年ぐらいじゃないかな。要するにバブルに乗っかってどんどんできましたね。内地からもギャラリーがくるし、一枚の絵とか、デパートのギャラリーとか、動く美術館とか、財界とか、医師会を巻き込みながら、政治的な動きとかね。

家庭の応接間とか、企業の社長の応接間の背後にちゃんとした絵があると、ひとつのステータスみたいな。当時は企業メセナとか、企業のポリシーとか、企業人格みたいなのを問われていたんですよ。要するに儲かればいいってもんじゃないという社会の風潮がありましたね。いわゆる企業メセナが唱えられた時代ですね。

 

沖縄で美術作品が売れなくなってきたのは94年ぐらいじゃないかな。90年の絶頂期に「GALLERY WORK II」ってもうひとつのギャラリーを隣にオープンしたんです。

ギャラリーWORK II、ニューヨークのソーホーのギャラリーを想わせるような、非常にストイックなホワイトキューブの空間でした。そこで結構、幸地学とか、内外のそれなりの作家たち、版画家の黒崎彰さん、彫刻家の戸谷成雄さんの講演とか、オーストラリアの画家ジョアン・フック、米国の画家ジャン・デビットソンなんかも招いたり。美術評論家の千葉成夫さんも。画廊創立10周年記念講演で沖縄に来ていただいて。あの70年代の美共闘の美術家、彦坂尚嘉を招いて、世紀末の過激な個展をやったり…。

あの時は美術館もないからさ。国立近代美術館の学芸員の鈴木勝雄さんみたいな立場の人さ。千葉さんの著書の「美術の現在地点」(1990年/五柳書院)とかを読んで、手紙出して東京で会って。沖縄の美術、あるいは日本の美術、これからどういうことが美術の世界に望まれるのか、そういうポジティブな未来系の話をしていただきたい旨を伝えOKしていただきました。ちょうどその時、エスニックブームもあったんだよね。日本がバブリーで…

 

町田)南に目が向いていた。

 

上原)アジアの経済力と価値や美学がね、食も含めて、東洋、アジアンチックなものがもてはやされた時代なんですよね。90年前後ですね。

千葉成夫さんがきたのが、91年。ちょうど10周年記念の時。松尾の八汐荘で10周年記念講演をやりました。

 

町田)どうでしたか、沖縄の作家のみなさんも多くいらしてましたか。

 

上原)たくさん来てくれましたよ。250人以上来ていただいたと思いますよ。その時に翁長直樹さんには「沖縄の美術」について講演してもらいました。彼は学校の先生をしていたけど、ギャラリー匠とかでも関わっていたし。沖縄近現代美術の先駆的な研究者で、美術評論もしていましたから。

翁長さんとはもうずっと古い付き合いですね。今県の美術館は国内外から、作家や評論家、アートディレクターとか呼んでいるでしょ。そんなことを画廊でやっていたんだよ。

 

町田) みなさんどうでしたか、千葉さんのお話を聞いて…

 

上原)どうだったんでしょうね。結局ね、沖縄で美術をやっている人達というのはほとんどその復帰後の系列化、東京中央画壇と上野の森の美術館の二科会とか国画会とか春陽会とか、旺玄会とか、日本の中央画壇と繋がることに一生懸命で、もちろん沖展にも出品するけれどもプロの画家として、絵を売るっていう意識が薄かった。(大嶺政寛は違いますが)

画廊は画家の先生から絵を預かって販売するじゃない。その時に、Y先生に「芸術を売るとは何事か」というふうにいわれた。芸術は売り物じゃないって、結局預かってきたけどね。画集も当然その前につくっているので、先のY先生の作品を積極的に売る事は辞めた。かたや、戦前の東京美術学校(東京芸大)を3浪か4浪して入学した玉那覇正吉先生から4号か6号を数点預かった。「先生、すみません、この2点はどうしても売る事ができなくてお返しにまいりました。」って言ったら、「君、画廊だろ、画廊は預かった以上、売るもんだ。返すとは何事か。」って怒られたんだよ。

 

町田)コマーシャルギャラリーではなく、あくまで企画で、注文をして描いてもらっているのではない、画廊沖縄の方針を、もしかしたら汲み取れなかったのかもしれないですね。

 

上原)汲み取れない。企画販売の画廊の仕事というものがまだ理解されてない沖縄の時代状況でした。市民一般に販売され、人々の生活の中に置かれてはじめて、生かされるものだということが、まだ、受け入れてなかったと思うんですよね。だけど、玉那覇正吉先生とか大城酷也先生、大嶺政寛先生についてはもう十分それはわかっているわけですよ。

「画集現代沖縄画家78人集」の時に、画集のページ割を年功序列で並べたんです。年齢順に。当時72歳の大嶺政寛先生が画集のトップに入るべきですけれども、断られました。僕は何回もアトリエを訪ねたんですが、毎回断られたんですよ。だめだって。「沖縄に絵描きは私しかおらん」「なんだあれは、学校の先生じゃないか」そんなこと言われて、「画集つくるんなら僕の画集つくれ」って。はっきりいわれたんです。僕は5回通って、頭下げて先生お願いします、先生がトップにこないと、この画集は成立しません。「先生トップに、一番高齢であられるし、是非お願いします。」ってお願いしたが頑として、首を縦に振らない。もう諦めたよ。それで大嶺信一先生がトップにきた。

(大嶺政寛)うちの親父と同じ明治43年(1910年)生まれで、頑固でしたね。デージヤッサー(大変だな)と思ったんだけど。政寛先生がね、戦争終った頃のいろんな絵の話をされて、「おい!青年(政寛先生は私のことをいつもそのように呼んでいた)私の絵はみんな同じと思っているでしょう」と言うわけね。いやいや、先生、という感じで、なんとなくごまかしながら、実は同じようにみえるんだけど、「僕は抽象を描いているんだ」「沖縄の心を描いているんだよ」「あんた屋根の下に何があるかわかるか」っていうわけさ。「屋根瓦を描いているんじゃないんだよ。みえないものをかいているんだよ」。なんかすごいなーと納得した。

鳥瞰図みたいなね。ぶっといね、チャーギが組まれているでしょ、その上にどっしりした漆喰に固められた赤瓦がのっているじゃない、その強さ、愚直な生命観みたいなものを表わしたかったんだね。

「戦争終わって、安次嶺金正が旅行で八重山に行ったんだ」。それで、「あれー、フラーやんどー(ばかな奴だな)」っていうわけさ。(笑)八重山に行ってね、「赤ガーラシカネーランッタッサヤ―(赤瓦しかなかった)」、「アンサーニーワンネー、トー(それだったら)」、パチッと手を叩いて、「ナマヤッサー、ワンネースグ八重山カインジャーヨ、ワカイミ?(すぐにでも八重山に行かねば、意味わかる?)」って、僕に言ったよ。

それで、沖縄の原風景を描くことによって、彼は戦争で失われた沖縄の源風景を求めて八重山通いをしたと思う。沖縄の民俗文化、民芸にも属していたでしょ。大嶺政寛先生だから沖縄の伝統文化や、その赤瓦の屋根の風景を通して、沖縄の心、あるいは精神文化みたいな、力強さ、精神、プライドそういうものを表現したかったんだと思う。そういう意味では対局の安次嶺金正先生のようなモダニストの画家ではないわけ、ある意味ではね。洋画の手法と油絵の具を使いながら、あのスタイルでね、沖縄の精神性を表現したかったんでしょうね。

 

町田)それぐらい個々の作家さんと付き合っているからこそのお話だと思うんですね。いまでこそお亡くなりになられた方もいるだろうし、現在進行形で付き合っている方もいる。ギャラリーの存在って大きいと思います。

 

上原)そうね、でもインターネットも普及し、現在はどこからでも、国際的な美術のアートマーケットに参入できるし、随分活発に動いているんだけど、沖縄においてはなかなかその美術界の動きが見られない。作品を売っていくというしたたかさみたいな、例えば映像メディアをつかっていても、それを写真におこすとかね、版画におこすとか、シルクにおこすとか、違うメディアに変換して、自分のコンセプトを押し出す。いわゆる売れる「物」、あるいは売る「モノ」としてね、要するに他者にメッセージを含んだある種の美術のメディアとして違うメディアに変換して制作することが積極的にされていない。

今の若い作家たちの表現者と社会の関係性の感覚はわからない、つまり、今の携帯や、iPhoneやスマートフォンでほとんど交流するでしょう、「場」の共有実体がない、実際に会わないで済ます。

声だけは一応健康そうに聞こえるじゃないですか、情報、その中間のなにかリアリティが、欠落した中で、交流がされている。でも、それもバーチャルリアリティーを獲得して情報を「共有」することで社会性を得ていると信じて疑わない様な気がする。物理的に「モノ」を他者(社会)還元する概念が大きく変化している様に思う。

 

町田)ギャラリーが活発だったころには、真喜志(勉)さんとかが言ってたかな、夜な夜な、ギャラリーでオープニングがあったら、みんなが集まって、オープニングという名の飲み会で、そこではみんなざっくばらんの度が過ぎて喧嘩になるという(笑)

 

上原)はい、これは当然でしたね。大変でした、もう、画廊のオープニングや週末は。口論、喧嘩は日常茶飯事で、コップは投げるしさ、先生ちょっとまってくださいよ、って僕は止め役ですよ、画廊は。

毎日でもないんだけど、展示会のオープニングや、クロージングの度にね、こういうことがあったわけですよ。打ち上げとかね。

 

町田)それはお互いを傷つけるためのものではなくて、それをよりいいものにするために意見をぶつけ合うわけだから、多分、翌日にはみんなけろっとしているわけですよね。今はそういうことが多分できないのかもしれません。

 

上原)現在の若い作家は、相撲をとるポーズはする、でもポーズをとって、そしてお互いのスマートフォンやiPhoneのツイッターやフェースブックで交流して、私そうよねっていうぐらいで、確認して、じゃあね、って相手を傷付けるんじゃないかと、本音の議論口論を避けている気がする。昔の人はちゃんと土俵をつくって、相撲をとってたの。酒飲んで、ちょっと強気に言い過ぎたかなとか反省も含めて、そこまで言ってしまったとかね、そりゃあるわけですよ、それが人間だもん、生々しい交流がありましたよ。

だから作家同士で飲み歩いたりして、2次会、画廊が閉店してからでも結構ありましたね。

 

町田)お互いの作品を見て、コメントするっていうのは見ないとできないことだから、見るっていう環境ができていたと思うんですよね。いま、私がちょっと心配というか、気になっているのは、あまり作品を見ることがないんじゃないかな、という気がしていて、例えば、美術館ができても、どれだけ作家の方が足を運んでいるのかなということだったり。沖縄だけに限らないと思うんですけど、自分が制作をすることが第一になっている現状があるなと思いまして…

 

上原)結局ね、直に展示会の作品を見て、ガチンコ対決みたいなものがね、作家同士の、要するに同じ土俵で、同じ時代や空間を共有しているお互いアーティストという者が、お前はどういう技を持っているんだ、どういうところに眼差(コンセプト)しているんだとか、お互いに確認しながら、俺は違うぜ、と、それぞれの良さみたいなものを確認して、違いを確認する、取っ組み合いみたいなもの、それがね、されてない感じがする。現代の若手は意識的に避けているのかな・・。

 

町田)それだと、高めるっていう作業が難しくないのかなと思って。

 

上原)やっぱり作家っていうのは自分のことは自分であんまり分からないし、制作に一生懸命だから、自分のそのコンセプトやイメージを可視化したり、具体化することが精一杯。だけど、他人というのはそれなりの他者の眼差しで客観視できる。違いがわかる。その違いがいったいなんなのか、っていうことを。どうして自分の考えとずれるの、みたいな。いいアドバイザーなんだよ他者は。

画廊業界では常識だが、「作家を潰すのは簡単」で何より褒めちぎることです。盆栽のように育てて、野生化しないように。ほんとに作家が発展して行くには、「褒め言葉も疑い」自らこの盆栽の鉢も割って、地に根を生やし自在に展開し、自立へ向けてサバイバルする作家が望ましい。しかし、作品の内容とはまた別ですよ。成功するとは限らない。美術家としての才能とサバイバル出来る能力の問題ですね。

 

上原)僕の画廊は作家を育てるっていう意識は全然ないですよ。共同作業ですよ。

 

町田)ほんとですか。誠勇さんのスタイルって、作家と向き合っている部分があると思うですけど…

 

上原)育てるなんて、とてもそのような「おごり」はありませんよ。僕はむしろ作家に育てられている。画家の、その時代の若い人は若い人なりの眼差しがある、僕が見えてない、感じてないところを、鋭くえぐり出したり、でもそれは美術品のクオリティーの高い作品であっても、売れない場合もあるけれども。作品が覚醒させる力、画廊の僕に相当刺激とインパクトを与える、その時にいろんなことを思うわけですよ。

そして僕はそれをプレゼンテーション(企画展)する、そしてその時に商品化できるようなあるアイテム、あるいはそういうメディア手頃で日常的に人々が買えるような、そういう提案をしたりするのが僕の画廊の仕事。だから育てるっていうことはないですよ。共同作業に近いです。共同で一緒に、年齢も関係ない。作品を通して、作家と信頼とリスペクトがないと企画出来ない。

 

町田)そういうふうに社会とコミットしていくことって、制作をしているだけでは、わからない部分だと思うんですね。それをまわりとの関係性を繋いでいくっていう意味で、一緒にやっている、育てている、というふうに感じています。

 

上原)作家と画廊は対等な関係と思っているから。媚びないですよ。アーティストに媚びない。良い仕事している作家には年齢に関係なく尊敬しますよ。良い仕事をするために本音で話しますよ。

 

 

 

聞き手町田恵美
収録日2015年2月22日