宮城)まずは自己紹介をお願いします。
大田)大田和人です。
通称、カジトゥ・タルガニーです。
元々、先祖代々、糸満米須のここに住んでたんで、一応ここの出身です。まぁ、今は残念ながらここには住んでいないんですが。世界一小さな現代美術館「キャンプタルガニー」を主宰して、遊んでいます。誰も来ないけどさ(笑)
宮城)大田さんのアートとの出会いは?
大田)実は熊本に小学校4年までいたんですよ。小学校1年のときに、県下学童スケッチコンクールというのがあって、熊本市長賞を受賞して、そのときに県知事賞を受賞したのが中学3年生で。小さいときから絵というのは好きだったんだけど、中学校3年生のときに「キチガイに刃物」というタイトルで抽象画を描いたら、絵の先生にさんざん叱られて。とっても嫌いになりました、絵が。(笑)
ところが、高校卒業して大学生のとき、夏休みに沖縄に帰ってくると高嶺剛監督が、家が隣なんですけど、カメラを振り回しているので「何をしているんだ」と聞くと、映画、ということで。
ムニャムニャ酒を飲みながら話しているうちに二人で映画を作るようになった。それがアートにのめり込む大きなきっかけだったんでしょうね。
宮城)その後、「街と彫刻展」とも関わるようになりますよね。
大田)パレットくもじができたときに私はそこに出向していたんですけど、正直言って「文化の発信基地」とかっこいい言葉を使いながら、何をやっていいかわからないというのがあって。
そこに丸山映先生と上條先生二人が乗り込んできて、「街と彫刻展」の企画書を開いて、こういったのをやりたい、と。
都市の中に、彫刻作品がどういう存在であるかということ、いわゆる彫刻の社会性。それと沖縄県立芸術大学ができたが、なかなか多くの人の目に触れるような発表の機会が残念ながら沖縄にはないということで、そういった場をつくりたいと。二つの理念を持ってお二人でパレットくもじに乗り込んできたんですよ。すぐ意気投合して、じゃあ、やりましょう、ということで、街と彫刻展が始まったんですよ。
我々パレットくもじとしては、これこそ今やるべきことだ、とピターっと一致したと、そういった感じでした。
宮城)キャンプタルガニーはいつ、どのようなコンセプトでつくったのですか?
大田)実は、それまで彫刻作品というのはあまり興味なかったんですけどね、どうしても絵画と映像、このふたつに興味が限定されていたんだけどね。それが丸山先生と上條先生とおつき合いするようになって彫刻というものに対しての興味がものすごく膨らんできて。で、最初に丸山先生の作品を購入して、次に上條先生の作品を購入して。こういろいろやっているうちに作品を置くところがなくなってしまって。そうすると、だんだん集まってきたし、もちろんもらってきたものもたくさんあるんですけど、その展示の場というものをつくりたい。あと一番肝心なものは、沖縄県立芸術大学がせっかく沖縄の地にできたと。まぁ、日本には国公立の芸術大学は5つしかないけど、そのうちのひとつが沖縄にあるわけでしょ。それをうまい具合に利用しない手はないという気持ちが相当強くあったんですよね。
そうすると、やっぱり我々、ちょっとでもアートに関心のある人間は、じゃあどうすればいいかって考えるべきじゃないかって思うようになったんですよね。
まぁ、そうすると私が那覇市の文化部長のときに、たとえばパレット市民ギャラリーとか、これは無料というわけにはいかない。結構お金をとるんですけど、若い人はそのお金を払うというのは結構きつかったんですよね。そうすると行政としていかがなもんか、っていう疑問が相当あったんですよね。まぁ、そういう意味で、あまりお金がかからなくて、若い人たちが発表できる場が必要なんじゃないかと思って、結果的にこういうことになりました。(笑)
宮城)このキャンプタルガニーの建物はもともと大田さんのものなのですか?
大田)はい。1951年建築の木造の建物を糸満の街の中から持ってきて、しばらく住んでいたんですけど、こういった美術館をつくりたいということで、ここに新しいコンクリートを建てたんですね。
それと先ほどの話、街と彫刻展をやっていたんで、いろんな日本国内のそれ相応な有名な方々と知り合うことができて、たとえば美術館関係者では、前の神奈川県立近代美術館の館長の酒井さんとか、東京国立近代美術館副館長の市川さんとか、京都国立近代美術館館長のさんだとか。みんなお知り合いになれて。神奈川県立近代美術館の酒井さん、東京国立近代美術館副館長の市川さんには、ここのアドバイザーに就任してくれって、まぁ快諾を得たとか、そういったのもあって、今でもおつき合いしてます。そういった形で、いろんな人が何らかの形でバックアップしてくれてるんで、それでその人たちに俺、美術館つくるぞー、って言ったら二人ともケラケラ笑っていたんですけどね。それで向こう見ずにつくっちまって、で二人ともできたあと一応観に来てました。やっぱりあんたは馬鹿だねって。(笑)
まぁ、そういうような形で、今ではここには週のうち半分近くですかね、那覇と行ったり来たりしてやっているんですけど。はてさて、どうなることやら。
宮城)この場所や建物についてももう少し詳しく教えてください。
大田)ここは第二次世界大戦、沖縄戦最後の激戦地で、この米須というところは、一番、部落としては死亡者が多かった地域らしいんですね。ですから、そういった歴史的な事実というのはちゃんと把握しながら、やはり戦争というものがあったら文化も何もないわけなんですよね。人の幸せもね。だから平和だからこそ文化もあるわけですよね。だから最大の激戦地、しかも最大の死亡者を出したところに、平和だからこそできる文化というか、文化的要素のあるものをなにか建てたかった。僕の場合はたまたまこういう美術館だったということなんですよね。
我々は愚かなる戦争をけっして忘れてはならないし、ここで平和だからこそできる文化というものをどんどん発表して、アクションを起こすことによって、なんらかの形で、この平和の一助になればなっていう気持ちがあるというのは確かです。そういうことで、あえて壁の色は血の色にしました。まぁだけど、血の色と言っても毒々しい血の色ではなくて古代赤といったかっこうでですね。やわらかく今生きている人たちを見守ってくれている尊い命をなくした人たちの血の色、というふうにみてるんで、包み込まれているっていうんですかね。もちろんここには収集されなかった骨というのは当然埋まっているはずなんです。爆弾とか砲弾とかに引きちぎられた肉片とかもそのまま土に還って中にしみ込んでいるはずなんですよね。そういったところに住んでいても何も怖いという気持ちはないし、新しいアクションを起こそうと思えば、その人たちに、お願いですから助けてください、一緒にやりましょう、って気持ちになれば何も怖いことはないし、心が安心できるといいますかね。だから安心して、そういう活動ができるんです。ごくごく一部の変な人は幽霊がでるとか、どうのこうのいう人がいるけどね、そんなこと言ってたら人間というのは生きてはいけないです。亡くなった方々というのは生きている人を悩ましません。見守っているはずです。
宮城)大田コレクションはどういったものがあるのか、どういった視点、気持ちで収集しているのか、教えてください。
大田)コレクションの中には自分の意志で集めたものではない、古い家屋をもらうときに一緒についてきたものとかいろいろあるわけです。それ以外で自分の意志で集めたものというと、どちらかというと現代的なものですね。現存している人たちが一生懸命つくっている様子とか、そういうものをみてですね、こういうふうに一生懸命している人のものだったら、という形で評価していくというかですね、それが自分の好みにあうかどうか、自分としてそれを感動できるかどうかということですね。ですから、有名な人とか無名とかか、歳が何歳とかそういったものは一切関係なしに作品そのものを見て、好きとか嫌いとか、これは感動するとかしないとか、そういう視点でコレクションをしています。
まぁ、先ほどいいましたように、だんだん彫刻の方に興味が移ってきたんで、彫刻をメインとするような美術館というのは実はあまりないんで、特に沖縄はほとんど平面ですよね。ですからあえて現代彫刻をやったんですけど、立体作品をメインにしながら、その他のものでもやっぱり自分の心象風景的なものにすごくサーッとくるようなものであれば、立体でなくても収集するというような形ですね。
ですから、その作品がいわゆる世の中で一般的に評価を受けているとか、そういったものは全然関係なし。あくまでも自分の眼で見て、心で見て、判断するということです。
宮城)キャンプタルガニーは今後、どうしていきたいですか?
大田)実はそこが重大問題なんですよね。
昨日も寝ながら考えたら、今年67歳になる。人間というのは病気するしないは、神様が決めることだから、よくわからんから、仮に病気になったら寿命は短くなってくるでしょう。そうすると、今は元気だからと思っていてもいつまでも元気じゃない。すると、この気持ちを引き継ぐ人がいるのかどうかにかかってくるのかな。自分が生きている間においては当初のコンセプト通りに、基本的にはアーティストと一緒になんか面白いことをやりたいな。今後も一緒にやりたいけど、やっぱり維持管理という面からみるとどうなるかちょっとわからない。だから元気なうちは当初のコンセプト通りにやり通していこう。元気なうちはよ。(笑)
個人の美術館は日本のあちこちに、大金持ちがつくったようなものがあるさぁね。で、公の美術館も世界でも稀なくらい日本は多いんだってね。そういったところはたしかに素晴らしいでしょう。公共的なものはみんなの税金でやっているわけだし、でっかい個人美術館は大金持ちがやっているわけだし。僕の場合は、正直言って年金収入しかないし、貯金もゼロです。毎月が綱渡りです。収入的には。それでもね、やりたいと思うのは若い人たちといろいろ話をしながらやっているとね、あ、この世の中まだ捨てたもんじゃない、という気持ちが実際に伝わってくるわけですよね。
人間なんのために生きているかって始終考えているわけだけど、それを考えなくなったら自分であっち逝っちゃうとかいろいろあるわけですよ。まぁ、そうじゃなくて、やっぱり生きているうちは、通常通り与えられた命というのは全うしないといけないと思ったら、それはお金の問題じゃなくて、生き様、生き様という言葉もあまり好きじゃないけど、どう生きていくか、てのは、若い人たちと話をしていると本当に将来性があるような感じがしてくるわけですよね。年寄りとばっかり話していると、あんまり将来ないもんだから病気の話とか病院の話とかくだらん話ばっかり。若い人たちと話をすると、まだ将来に向かってのすごく可能性とかいろいろでてくるので、とっても楽しいといいますかね。この管理運営というものは正直言って苦労はしているけれども、ここに来る人たちと話をすると、管理運営の厳しさというのはプッと吹っ飛んでしまってさ。ある意味で自分なりの自分で決めた人生を楽しむしかないと思い込まざるを得ない心境に陥ってますよ。
宮城)「キャンプタルガニー」と名付けた理由を教え てください。
大田)僕がカジトゥ・タルガニーでしょ。 だから、タルガニーさんがキャンプしているところ。(笑) どうせ人間の一生というかな、一人の人間の歴 史というのは短いものでしょ。人類の歴史とか地球上の歴史から比べると。人間の歴史から比べても一人の人間の一生というのは短いから、地球上に生きている人間というのは、たまたま今生きているところにキャンプしているようなものという見方を僕は持っているわけ。だから、たまたまタルガニーさんがここにキャンプしているだけ、タルガニーさんのキャンプ場というわけ。
宮城)タルガニーとはどういう意味ですか?
大田)タルガニーって言ったら二つの意味があるわけね。ひとつは、タルガニーって有名な人でね。 それ相応の権力者の名前ではあるんですよね。ところが、沖縄の田舎の方でタルガニーっていう場合は、沖縄のお芝居とかでよくでてくる、ちょっとおつむの弱い小使いさん、そういう人を「タルガニー」ってつけている場合が多いわけ。
「えー、タルガニー。ミジクリクーワ(おい、タルガニー。 水汲んでこい )」って言って、「ウーサイ(はーい)」って言ってね。沖縄芝居で使われているタルガニーって使いっ走りの名称が非常に気に入ったもんだから、それで、20代のとき、高嶺監督と映画つくるときに、僕は自分自身でタルガニーって命名した。で、僕がカジトゥ・タルガニーだから、前の国立近代美術館の副館長で今は茨城県立近代美術館の館長している市川さんもたまたま僕と同じ歳なんだけど、「僕もタルガニーになりたい」って言って、市川さんは 政憲(まさのり)だから、うちなー風に発音するとマサヌイーやさ。だから彼はマサヌイー・ タルガニー、僕はカジトゥ・タルガニー。お互い手紙のなかでもそういうふうに書いている。
宮城)キャンプタルガニーのコレクションで特に印象に残っている作家にはどんな方がいますか。
大田)一人は彫刻の丸山映さんね。 やはり最初にパレットくもじの時にお会いして、すっかり意気投合して。彼の作風も面白いし、人間性にも惚れたっていいますかね。固い石でもってやわらかいものを作っていくという、そういう意味では非常にいい作家だと思っているんですね。 残念ながらだいぶ前に、65歳で県芸を定年間際で亡くなってしまって。本当に惜しい人を亡くしたというか・・・。
もう一人はトシコタカエズさんね。 トシコさんとの出会いは、京都国立近代美術館がトシコさんの作陶50周年記念で展覧会をやるということで、館長の内山武夫さんから電話で「大田君、どうも京都でやるトシコさんのご両親とも沖縄出身だということがわかったので、 京都の他にも巡回するんだけど、ぜひ沖縄でもやらないか」ということで。で、調整しているうちに沖縄でもさせてもらったんですよ。それで、彼女に展覧会で沖縄にいらしていただいて、 約一週間沖縄に滞在してしたので、ルーツを辿ってみたいということで調べたら、当時の具志川のご出身ということで、具志川市役所に行ったり、具志川市長にお会いしたりして。まぁ、ご親戚の家までは探し当てて行ったりとかですね。それで一週間沖縄で行動をともにしたんだけど。 また、初めての家族そろっての海外旅行を彼女の住むニュージャージーまで行って。あちこち案内してもらって、それでいろいろお世話になって。 それから、彼女がすごくビッグだなと思ったのが、ニューヨークのアメリカンクラフトミュージアムで個展をやるから、ということで、東京のトヨタコレクションの豊田社長が「大田君は絶対個展は観に行かないといけないよ」というので、観に行ったんだけど。ニューヨーク近代美術館の近くにあるアメリカンクラフトミュージアムで彼女の個展を見たんですけど。するとビックリしたのが、けっこう広い美術館なんですけど、その三層使ってね、会期が6ヶ月。それには正直言って度肝を抜かれたというか。それからイサムノグチの美術館行きたいって言ったら連れて行ってくれてさ。そしたら休みで、電話したら館長以下スタッフが全員出てきてさ。(笑)
非常に気さくな方でね。偉ぶらないというか。 そして、仮に作品が5万ドルで売れたとしたら、 本人はその一割くらいしか取らないって。あとは寄付って。普通の生活と制作費とちょっとした旅行ができればそれでお金は充分だ、ということで。そういう非常にすごい人でね。 丸山先生とトシコさん、二人とも残念ながら亡くなってしまったんですけど、お二人が非常に深いというか、印象に残っているというか・・・。
もう一人は版画家の今京都に住んでいるリチャード・スタイナー。 リチャード・スタイナーの奥さんは紀美子さんといって、高嶺監督が京都教育大学にいるときに事務みたいな形で彼女はいたみたいなんですけど、スタイナーと結婚するときに、沖縄行きたいって言って、二人とも金がないということで、二週間くらいいたんじゃないですかね。ここ(キャンプタルガニー)に。 二人にはここで初めて会ったんですよ。高嶺監督の紹介で。僕は仕事なもんだから、カギを渡して、適当にやっとけ、って言って(笑) 今から30年以上前ですか。それからですかね。こっちが京都とか行ったときには可能な限りお会いしていますね。そういう仲で、彼とも長い、30年以上の付き合いで。ほかにもあるけど、3点ほどというとこの3人ですかね。
宮城)この3人のコレクションで、それぞれ一点ずつ好きな作品を挙げるとするとどの作品ですか?
大田)丸山先生だとやっぱりでっかいお尻。ここに石彫が3点、外にありますけど、そのなかでもやっぱりお尻「KUME」というやつですね。 トシコさんだと普段は和室のテーブルの真ん中に置いているやつ「Closed Form」ね。コレクションリストに載っているやつ以外で小ぶりの「Closed Form」とお茶碗ひとつは前島の自宅に置いているんですけど。薄黄緑色の釉薬がかかったあの「Closed Form」ですね。 リチャード・スタイナーでいうと、一番評価されたのは「Gray Ears」っていってあれが版画協会会長賞かな、もらったんですけど、僕はどちらかというと、彼のユーモアをかってこのサンマね。焼かれたから喉が渇いてアッチッチーってなっている「二匹の喉が渇いた魚」。
宮城)今回の展覧会は「visions| for the world to come(来たるべき世界に)」というタイトルですが、これから来る世界に向けて、われわれはなにをすべきか、大田さんの思いをお聞かせください。
大田)何をすべきか、というのは正直言って、僕はわからない。何ができるかというと、自分自身が思っていること、それを信念を持って突き進む以外ない、ということ。なにをすべきか、ということは、なにができるかということと重なってくるとは思うけどね。ただ作家というのはそれぞれ個々人の考えでもって、あくまでも個人をベースでもって活動するのが作家だろうし。家を建てるみたいに、あんたは型枠をつくる人、あんたはコンクリートを流す人、そういうふうに明確な役割分担で作品というのはできるというものではないと僕は思っているので、個々人の思想性が作品に現れてくると思うので、compassの皆さんもそれぞれ自分なりのビジョンを持って、ある意味では going my way という形でやるしかないんじゃないかな。6名集まったから必ずしも6名で協議をして、チームワークを維持するために妥協して、という形になってはダメだと思うし、絶対それだけはやらない方がいいと思うんだよね。だからそれが壊れようと、離合集散別の形でそれをやろうと、それは当たり前のこと。だからそれは気にせずに、6名でやっていけるうちは6名でやればいいし、それができなくなったらあっさり、じゃあね、って別れればいいし。いい作品つくろうと思ったら、そういった形になるでしょうね。 だから何をなすべきかと言っても、それは一人一人の意識にかかっているでしょうね。 僕がなぜそれを強く意識したかというと、それは映画を作るときなんですよね。映画というのはたくさんスタッフはいるけど、決めるのは監督一人だけじゃないといい作品は つくれないんですよね。みんなで協議したら単なる合同制作でくだらん作品しかできない。だから compass のメンバーも所詮は一人一人の作家なんですよね。だから一人一人自分で決めて自分でやるしかないのかな、という感じがしますね。 それについては、外部の人間というのは人の作家性まで立ち入ったらとんでもないことになるので、こうあるべきだというのは僕は言わないし、そして言えない。人の心の中までわれわれは立ち入ることができないし、のぞくこともできないし。難しいね。
宮城)沖縄の社会のなかでは政治的にいろんな局面が現れてきて、どうすればいいのか、ということが問われる場面も多いと思いますが。
大田)僕はね、たしかにアートが社会的な存在として、社会のいろんな現象を100%無視するということはそれは難しいでしょうね。だからどうしても社会的な事象に捕われたりとか、それを対象とするような作品をつくったりということはあると思うけど、でもそれを勘違いしてしまっては困るというのが、僕はアート全体に対して思っていて。アートが「なんとかー」といういわゆる政治の、右でも左でも、ひとつの政治のプロパガンダ的なものになってしまっては、これは政治の僕(しもべ)になってしまったアートというわけでさ。自由度というのはないと思うわけ。それだけは避けた方がいいだろうね。
たしかに沖縄には様々な現象があるわけで、それをどう表現するのか、どの程度だったら嫌らしくないのか。政治なんてフンって笑いながら、 実は社会的な現象をちゃんと捕らえられるのか、難しいことではあると思う。でも、僕は直接のアーティストではないから、美術館運営をしているなかで、アートというものが変な意味での 政治性を帯びるのは避けようと思っていて。 そうやるとよく一部の人から、きちんとした思想性のないアートだ、とか言われることもあるけどね。言わしとけって。 じゃあ、一般の人がわかりやすいように、今こういう現象があるから、それを言っているんだなってわかりやすい形で表現すれば必然性があ るかっていったらそれは全然違うと思うしね。 見る人がわからないけど、実は作品は社会性を凝視して、これはおかしいんじゃないのか、ということを凝縮されている作品というものも実はあるわけでね。作品に、実は私はこうです、って心を打ち明けたものが出てくるというわけではないしね。 アートは政治の従属物ではない、と。だから僕はそういうものを美術館活動としては気をつけているよ。
とくに若い人たちが具体的な事象をパーっと表現して、人がわかりやすいものをやれば、なかにはいいねーって言う人もいるかもしれないけど、そこで勘違いして結果的にはそのアーティストとしては政治的なプロパガンダしか作品化できないってなってしまっては、それは本来のアートではないのではないかな。そ こに陥らないように若いアーティストも気をつけていた方がいいんじゃないかな。まぁ、基本的にはアーティストはどこでなにやろうとわれわれがとやかくそばから言うものではないけどさ。基本的には自分自身の戒めとして、そのへんのきちんしたものを持っておかないと、こっちが流されてしまう可能性もある。
宮城)よくアーティストは自由だというけれど、自由でいられる空間というのは非常に限られてい る気がします。キャンプタルガニーではアーティストが自由でいられる空間を大田さん個人が担 保しているとのがスゴいと思っています。
大田)正直言って公というのは規制が好きなのよね。そして非常に公平ぶっている。でも実は不公平 な考え方で凝り固まっているわけなんだよね。まず権力に弱いということ。なんだかんだ言って裏からへんな権力が入ってきたら、いつのまにかそれができていたりとかね。そういうことをたくさん見てきたわけね。だからなんというのかな。公というのはそれでいいのかな、と疑問を抱いていたわけね。だから、ここでは基本的には自由でいいですよ、と。どんな作品なのか何も聞かないというのは、アーティストは自由であって、自由に表現してほしいと。ただ、何でもやっていいというわけではないし、常識の範囲内で表現すればいいわけよ。自由だからガラス割ってもいいのかって言ったらそういうわけではないし。ガラスを割っちゃいけないっていうのは言わなくても常識の範囲内さ。だから、壊すな汚すな、というだけで、これも常識の範囲内だからあえて言わないという話。で、自分が聞いてみないとこれは不安だな、ということは聞いてみなさい、と。ひょっとしたら、これはちょっと・・・というかもしれないよ。 だけど、これまで一度も、それはちょっと、と言ったことはないけどね。僕は僕なりにきちんとしたコンセプトを持っているわけだから、そういう場面が出てきたらキチンと言うし、だから常識の範囲内で自由にやってください。非常に単純な話(笑)。
宮城)若い人には将来性を感じる、というお話がありましたが、その若い人へのメッセージをお願いします。
大田)自分の信じる道をそのまま突き進んでいきなさい、と。 それと、ツルゲーネフの言葉に「疲れたら休め、彼らもそう遠くへは行くまい」という有名な言葉があるけど、僕は「疲れたら休め、彼らはきっと遠くへ行っているはず。でもそれがどうしたの」って、あくまでも自分が中心でいいわけ。他人と比較しなくてもいいんだよ。だから、己の信ずる道を、己を信じて歩む以外ないのかな。それと、何度でも挫折を味わいなさい。それでも潰れるな、と。(笑) 難関はいくらでもあるよ、って。単純に言えばそんなもんかな。 まぁ、たくさん言えば、きりがないわけだから。自信が持てないときは、持たなくていいさ。当たり前、最初から自信なんてあるわけないさ。 自信が持てるようになるまで頑張りなさい、というだけの話。(笑)
*展覧会「visions | for the world to come/主催:compass」にあわせて行ったインタビューです。(協力:compass)