Interview アートに関わる様々な方へのインタビュー記録

嘉藤笑子

前島アートセンター

Profile

wanakioディレクター

立ち上げのきっかけ、ディレクター同士の出会い

嘉藤:wanakioが始まる前の話になりますが、ディレクターの一人であるティトゥス・スプリーと出会ったのが2000年頃なんですね。東京の墨田区京島にある物件をティトゥスが借りていて、その後ティトゥスは沖縄に移住することになり、私がその物件を貸してもらう話になりました。その頃、墨田区はアーティストが多数移住し始めていて、空き家を使って展覧会を開催するなどアクティブになりつつあり、ティトゥスは、そのような動きを沖縄でもやりたいというアイデアを持っていました。私は墨田区でアーティスト・イン・レジデンスのプロジェクトをやったので、その報告もかねて沖縄に訪問しました。
それまで私は沖縄に行ったことなかったので最初はプライベートでゆっくり様子を見るつもりだったのですが、ティトゥスはすでにやる気満々だったんです。笑。ティトゥスが案内するところは空き家や農連市場など観光地ではないわけですよ。その中に前島アートセンターも含まれていて、そこでもう一人のディレクターである宮城潤さん(以降、敬称略)に会いました。ティトスは、中里和人(現・東京造形大学教授)を招聘して写真ワークショップを始めたところでした。その翌年には早速、那覇で展覧会をやる話になったんです。

阪田:前島アートセンターでは2000年に「前島3丁目ストリートミュージアム」というアート展がありました。そちらではなく、2002年に開催された1回目のwanakioのことでしょうか。

嘉藤:そうですね。当時は前島アートセンターもすごい勢いがあり、潤さんがすでにストリートアートみたいなことをやっていました。ティトゥスは農連市場を中心に那覇に空き物件がいっぱいあるからそれを活用して展覧会を、私は、墨田区で行っていた同じような地域プロジェクトを進めたいという思いがありました。もちろん墨田と那覇では様子がまったく同じとは思えませんでしたが、それぞれがとにかくやろうという話になりました。その頃は、現在のような地域プロジェクトや国際フェスティバルがなかったので、かなり先駆的事例だったといえます。
役割分担として、作家選定は潤さんが地元、ティトゥスが海外、私は県外を担当しました。ティトゥスとしてはたぶん国際的なフェスティバルにしようという考えがあったかと思います。
ティトゥスは琉球大学の教員だったので、初めに関わった若い人たちは琉大生が中心でした。
アートマネージメントという言葉自体が使われ始めて間もない頃で、どうやってフェスティバルを作るかという議論は、ほとんどありませんでした。ちょっと驚いたのは、潤さんもティトゥスも私もアーティストも学生もボランティアも皆並列でチラシに明記されていました。良い意味では水平構造ですが、大掛かりなフェスティバルを牽引する力はこれでは作れないと思い、後になって3人がディレクターというポジションで呼ばれるになった経緯があります。
wanakioは、スタッフ分担ができずに混沌とした組織でしたが、展示場所は確保したし、前島アートセンターという拠点もある。wanakioは実行委員会形式で開催しましたが、前島アートセンターの事務局が自然とwanakioの事務局を兼任したというのは、小規模の予算と組織では仕方のない状態だったと思います。

阪田:嘉藤さんにとっても、wanakioの準備と個人の活動を考えると、初めて沖縄へ訪問した2001年からすでに大変でしたね。

嘉藤:その頃、「アートロジー」っていう墨田区で空き家を使ったアートフェスティバルがあり、私はそれも関わっていました。それが終わって、RICE+(コミュニティカフェ)を立ち上げました。私自身も拠点があった方が面白いかなぁって。RICE+は最初の半年ぐらいは、慶応の大学院生に貸していて、坂倉杏介氏(現・東京都市大学都市生活学部准教授)が住み込みで実験的にオープンスペースを運営していました。その後、元米屋をRICE+という名称でコミュニティカフェを運営することになり、古い物件を学生やアーティストたちと一緒に改装しました。当時、AAF(アサヒアートフェスティバル)の実行委員会のメンバーだったので、墨田区で多数のアートイベントを開催し、RICE+も拠点のひとつでした。トータルで5年くらい関わりましたがスカイツリーの建設を機に退去することになりました。自分の中では、墨田と沖縄の両輪活動だったイメージがあります。前島アートセンターがアクティブだったので頻繁に沖縄にも行っていた時期になりますね。ご存じでしょうが、日本のアートプロジェクトは旅費を含むバジェットが厳しく、一度沖縄へ行くと1・2ヵ月は帰れない状態が続きました。そうなると私も事務局の一員として実務をしたわけです。
2002年の最初のwanakioの時は、まだ沖縄という文化自体もそんなに知らなかった。だから地元のアート事情やアーティストは、ほとんど潤さんから教えてもらったところが大きく、大御所も含めて沖縄で活動している重要な人たちを紹介してもらいました。例えば、書道家の伊江隆人さん、写真家の比嘉豊光さん、建築家の真喜志好一さん。そして若手世代では照屋勇賢、山城知佳子、阪田清子など、wanakioや前島アートセンターに限らず活躍していたアーティストたちに出会えたのは、やっぱり大きな財産ですね。2002年のwanakioは日本とベトナムのハーフであるアーティストのジュン・グエン=ハツシバを招聘したのですが、本人もベトナムと沖縄が似通っていることを感じた様で、沖縄の海をテーマに作品を考えてくれました。
wanakioはサイトスペシフィックな作品制作を条件にアーティストを招聘したので現地制作が基本でした。アーティストも私もwanakioを通して沖縄について学びながら成長したといえるでしょう。いろいろなアプローチで沖縄を探求した作品が制作されたのは、偶然ではなく必然だったのです。

嘉藤笑子

wanakioのコンセプトと作家たちについて

阪田:wanakioが立ち上がり、2002・2003・2005・2008と続きますが、一貫したコンセプトやテーマなどをお聞かせ下さい。

嘉藤:wanakioは、沖縄を日本の最果てとして考えるのではなく、アジア諸国の海洋拠点として中心的な役割を担ってきた歴史的背景を鑑みて、沖縄から本土(中央)に発信していく文化事業として始まりました。wanakioが、オ・キ・ナ・ワの逆さ読みであるのは、そのためです。3人のディレクターは、それぞれwanakioへの想い入れがあり、各自でアプローチが異なるのも面白かったと思います。ティトスは、建築家であり、都市デザイナーとして空間的なアプローチをするアーティストや事業を重んじていました。会場となる農連市場や前島の空き店舗などを活用して都市の空白を、アートによる都市再生、地域活性化を試みていたといえるでしょう。潤さんは、沖縄の美術環境の不足部分(当時、県立美術館設立が棚上げされていた)を改善したい、地元アーティストのために発表機会を設けていきたいという思いがあり、沖縄全体の美術環境の底上げを行っていました。私は、当時の日本のアートシーンに憂いがあり、絵画・彫刻といったオーソドックスな作品やインスタレーションだけではなく、コンセプチュアル、行為(アクション)やパフォーマンス、リサーチやSEA(ソーシャル・エンゲイジド・アート)といった社会的コンテクストと関わる斬新な現代アートを生み出してほしいという思いがありました。その点では、三者の想いが異なることで多層性を持ち、独創性のある作品を生み出したといえます。wanakioという国際フェスティバルを開催したことで、地元に大きな刺激を与えることができたと思います。実際に、その後の沖縄発のアーティストたちの表現は、多彩で完成度の高いものになっていったといえますね。

阪田:私が初めてwanakioに参加したのは2003年でした。展示の候補地を掃除するということでバケツとほうきを持って作家やボランティア、スタッフ総出で行いましたね。前島3丁目の空き店舗をみんなで回り、街の様子を少しずつ知ってから制作ができたように思います。いまではサイトスペシフィックと言葉も聴き慣れましたが当時はあまり分からないままリサーチと現地制作をしていたように思います。

嘉藤:最初のwanakioは2000年始まりですから、プロジェクト型の作家自体もそんなにいなかったです。今でいうSEAみたいな考え方は、日本のアートシーンには無かったので、私が県外から選出したアーティストたちは、絵画でもなく彫刻でもないものを制作するので、かなり戸惑いはあったみたいです。例えば、KOSUGE1-16(当時はKOSUGEジャンクションという3人組)なんかは自転車やスケートボードなどを農連市場内で駆け巡って作品化する試みをしました。すでに私のキュレーションで同年に墨田区において自転車プロジェクトをしていたのですが、自転車とアートが結びつくということはなかなか理解されなかった。墨田区でもかなり斬新なものという扱いでした。それでも農連市場においても同様の作品を作ってもらおうとしました。その成果として農連市場では一輪車(ネコ)が荷物運びに使われる道具なのですが、それを活用してネコの通る道を整備して作品化しました。wanakioをきっかけに彼らも大きな飛躍ができたと思います。わたしのなかでは墨田x那覇は地域プロジェクトとしてリンクしていたので、墨田で関わったアーティストたちをwanakioに招聘することは、その後も続きました。
wanakioは、予算もないしAIR(アーティスト・イン・レジデンス)として確立した事業でもないのに滞在制作を強要されるので、海外や県外作家にとっては辛かったと思います。若い作家であれば臨機応変に民泊や空き部屋に滞在することも可能ですが、慣れない土地で蛸部屋(もうちょっとマシですが)みたいな場所に一月以上も滞在するとなると大変ですよね。海外作家は母国で助成金を取得して滞在することが多いので、なかにはリゾート気分で離島めぐりをしていたカップルもいました。そうなるとアートプロジェクトとはいえないので、組織に予算がないのは非力だなと思いました。
そんな厳しい状況でもwanakioはアーティスト・イン・レジデンスの発表形式にこだわったのですが、それは滞在することで発見できることや新たな人々との出会いがあること、そのプロセスを大切にしていくことで新しい作品を生み出すことができると思ったからです。現実的にはそれが裏目に出る場合もあって、無駄な滞在時間を過ごしていた作家がゼロではなかったのも事実です。

阪田:wanakio2005に小沢剛さんも嘉藤さんが推薦されたんですよね。その時、私もサポートで入ってたんですが、作品「ベジタブル・ウェポン」は、例えばその後の反響などは出ましたか?

嘉藤:ベジタブル・ウェポンは、すでにアジアを中心に2・3年は続いているプロジェクトだったんですが、沖縄でやる意味はすごく大きかったと思います。新作の写真モデルは琉球舞踊を学ぶ県立芸大生でした。ロケ地は、嘉手納基地や佐喜眞美術館の周辺など深刻な場所を選んで沖縄の問題を浮き彫りにできたと思います。沖縄で行う前にもRICE+で新作のベジタブル・ウェポンを制作していましたから、キュレーターとして沖縄で新作を作ることに不安はなかったです。その後、オーストラリアの小沢剛個展で沖縄を含めて私が関わったベジタブルウェポンの作品が3枚ぐらい入っていて、シリーズ作品に関わるのは、壮観で気持ちの良いものですね。作品を通して連続したコンテクストを創り上げるというのは、意味があるなぁと実感しました。
それと、印象に残っている出来事としては、藤浩志(「かえっこバザール」開催とシンポジウムにゲスト出演した)がKOSUGE1-16を評価して、地方プロジェクトに招聘したことがありましたね。KOSUGE 1-16の作品を見た瞬間に「面白いじゃないか!」って感じで、アーティストがアーティストを気に入るっていうのは、すごく広報力がありますよね。

阪田:KOSUGE 1-16は、2002年のwanakio以降にも前島アートセンターが企画するイベントで呼んだことがあるんですけど、すごく柔軟な動きをする方でした。最初は「どんどこ紙相撲」を市場でやったら面白いかなと提案したのですが、ご本人に実際に市場を見ていただいたときに、ちょうど季節が梅雨で、栄町市場はとても古いので至る所で雨漏りがするんですよね。その雨漏りを活用したいと、市場の子供達と一緒にワークショップをして雨漏りキャチャーを作り、市場内に展示をしたんです。雨漏りは市場の人たちには当たり前の風景でしたがそこに視点を持って行き、マイナスだと思っていたことを面白いものに変えていく。ワークショップも子供達がとても楽しそうでよかったです。

嘉藤:彼らは墨田近隣の小菅という実際に住んでいた住所をグループ名にしていて、墨田で地域プロジェクトを多数経験していました。そうした経緯からwanakioや前島アートセンターで活躍してくれたのは自然の流れではないでしょうか。また、水内貴英は、過去に越後妻有に1年間住んで、地元の人たちと一緒に作品を制作した経験があることから「wanakioに向いている」と思い招聘しました。その頃は、住中浩史と一緒にワークショップを展開していたので二人をグループとして呼ぶことにしました。
「農連美術超短期大学」として、農連市場の一角が今で言えば児童会館みたいな感じで、放課後に子どもたちが自由にお絵かきやモノづくりをする場所をつくりました。そういう児童教育と美術を地域づくりの一環で行うことが農連を舞台に幾つかあり、多くのボランティアがかなり積極的に参加していました。あそこで学んだ子がアーティストになったとか、そういう情報はないですか?たぶん大きな刺激は与えることはできたと思うんです。物を作るとか、アーティストってどんな生き物か?みたいなことは観察できたんじゃないかと。あと桜坂の飲み屋で幾つかイベントをやりました。夜に寄る所として、拠所として桜坂は大事でしたよね。外から来るお客さんを案内するのも、桜坂多かった気がします。

阪田:2003年のwanakioだと思います。あの時は、AIT(特定非営利活動法人アーツイニシアティヴトウキョウ)が関わっていました。それと琉大生と県芸生も桜坂のバーで作品を展開していた記憶があります。
2008年になると那覇以外の場所での作品展示が増え、南城市や沖縄市、山原の方など、作品が沖縄本島に広く展開していたので展覧会が始まるとバスツアーも行っていました。嘉藤さんは、wanakio2008のディレクターと並行して、AAN(当時、横浜でNPO団体を主宰していた)によるテレビ局を企画されていましたよね?

嘉藤:栄町オンリーの放送局「アートでいいさー!」っていうプログラムですね。一応ビデオで収録してVHFっていう微弱の電波で、見れる人だけが見れるっていう海賊TVの手法です。今ならインターネット放送ができるけど、当時は斬新な電波放送でした。栄町の空き店舗をテレビスタジオにして、日替わりでwanakioの参加アーティストやボランティアがゲストとしてテレビ出演できるので、結構盛り上がりました。前島アートセンターの拠点が前島から栄町に移動していたのもwanakioの変遷としては大きいですよね。2008年は岩井優、タノタイガ、水川千春など県外作家を多数招聘していて、市街プロジェクトがたくさんあったのでスケジュールが混み入ってしまい、もうアップアップでした。

阪田:2008年は、wanakioのスタッフを前島アートセンターの理事が行っていました。理事がアーティストを何人か掛け持ちで担当し、双方に皆散らばってしまうのでなかなか皆でミーティングを行う時間が取れず、wanakioが始まってからのトラブルなどを共有することが難しかったように思います。

嘉藤:あそこまで展示会場が離れるとハンドリングできないですよね。wanakioはスタッフも少ないにも関わらず広範囲すぎて、無限ループ状態でした(ぐるぐる目が回るような)。まぁ、その辺がティトゥスや潤さんがやっぱりエネルギーがあったんじゃないですか。最後のwanakioが2008年。私は、また5年後ぐらいには声かかるかと思ったけど、その次は前島アートセンターの解散でした。仮に前島アートセンターが解散しても、wanakioはやろうと思えばやれなくはないと思いますが。ただちょっともういわゆる燃え尽き症候群でした。皆、疲れちゃいましたよね。

阪田:wanakioと前島アートセンターは別組織でも、内部の人は一緒だったんですよね。皆wanakioをやると楽しいんですがすごい消耗もしてしまう。前島アートセンターが解散したあと、理事が個々でスペースを持ったり活動したりしているので、今はまた違ったアプローチになっているかなとは思いますね。

嘉藤笑子

沖縄の美術について

嘉藤:沖縄のアートシーンは本当に2002年から比べ物にならないくらいアクティブになったと思います。美術館が開館したことも大きいと思いますが、やっぱり前島アートセンターの役割は一番大きいかな。それとwanakioはインターナショナルじゃないですか。やっぱり普段出会えない県外の作家だとか、世界の作家と一緒に展示できるのは、地元の沖縄にとっても大きなメリットだったと思います。そして、実は県外の作家にとっても沖縄でやれることは、結構ポテンシャルが大きかったんですよ。wanakio2008作家の岩井優はプライベートな意味でもすごく沖縄との出会いが大きかったと思います。
別の形でもいいから、例えば美術館がやってもいいし、何かそういうインターナショナルなプロジェクトがもっと継続できるような体制ができるといいですね、希望ですが。2020年にアジア(沖縄・韓国・台湾)を巡回する国際展が開催されると友人から聞いています。いい傾向ですね。
それから美術家じゃない人たち、周辺を守るオーガナイザー、サポーターなどの関わりが、すごく大きな役目を担っていました。沖縄のために立ち上がった大人の人たちがいて、そのひとたちと一緒に潤さんも前島アートセンターをやり始めましたね。でも、それも時と共にいろいろと変遷していきました。wanakioを外から見る、前島アートセンターを見守る人たちの役割は、大切だったと思いますね。

阪田:最初の高砂ビルの存在も、ものすごく大きかったですしね。

嘉藤:そうですね。ティトゥスも高砂ビルがあったからwanakioを始めようと思ったんじゃないかな。まったくまっさらで農連だけでやろうとしたら大変だと思う。思い出しけど、私は農連市場と前島アートセンターの徒歩往復をしていて、沖縄の日差しがもの凄いと実感しましたよ。ティトゥスは農連市場を舞台にwanakioを始めようとしたけど、高砂ビルは人が集まる拠点として必要でした。その後、プロジェクトが一気に大きくなっていったことを考えると、やっぱり地元のオーガナイザーの存在は、果てしなく大きいですね。

阪田:wanakioは2008年で活動が終了していますが、その後ディレクター同士で継続についてなにかお話をされましたか?

嘉藤:その後は無くて…もうちょっとフェスティバルとして、終結宣言ぐらいの事を言って終わりたかったな。もしくは、20年後もやるかもねぇ~ぐらいの雰囲気で、継続を考えたいけど。次があるとしたらwanakioの名前が変わり、ディレクター陣が再編成されているかもしれない。将来的に「wanakio的なものが沖縄にやっぱり残った」となれば、嬉しいですし、若い人たちがぜひ始めてほしいです。
すでに大勢のwanakioに関わった人たちが県内外で活躍しているので、過去にこだわる必要はないですが、若い人たちをどんどん触発させるプロジェクトは興してほしい。wanakioは絶対的に美術館では扱えないじゃないですか。どう考えても規制の枠から、はみ出していたし、美術館が主導する文化事業とはまったく違うものでした。wanakioのようなものが地域で起きれば、美術館にとっても相乗効果になると思うし、良い意味で沖縄のアートシーンはさらにアクティブになるような気がします。

阪田:そこで、やっぱり若い作家たちがどんどん実験的な事ができると思うので、そういう機会は必要ですよね。今日はありがとうございました。

聞き手阪田清子
収録日2019年9月14日