Interview アートに関わる様々な方へのインタビュー記録

小林純子

沖縄県立博物館・美術館

Profile

沖縄県立芸術大学教授。 美術館企画展示アドバイザー、前島アートセンターの理事を歴任し、美術館建設運動に関わりが深い。

「沖縄県立博物館・美術館建設と前島アートセンター設立」前編

 

■はじめに

sima art laboの研究会のテーマは2000年代の沖縄美術の検証ということですが、美術館の建設運動は1960年代から始まっていますので、60年代から話をさせていただきます。また前島アートセンターの設立ですが、確かに前島アートセンターの設立は美術館の建設の経緯に少し関係はあるのですが、本当に美術館と関係していたのは1年くらいですね。美術館の学芸員が設立には関係するのですが、その後すぐに主体が宮城潤さんなど学芸員ではない、アーティストや美術関係者に移っていきました。ですので前島アートセンターのお話は、今日はそのごく初期だけにさせていただきます。

 

■建設運動の始まり―1962年「総合文化センター建設推進期成会」

沖縄県立の美術館の建設運動というのは1962年頃から始まっていまして、1962年総合文化センター建設推進期成会が活動を開始しました。4月に発起委員会があって3月に設立総会が行われています。2000年代美術館問題に取り組む中で、この60年代のお話はよく関係者から聞きました。もう亡くなられましたけれども画家の安谷屋正義の奥様、節子さんがやはりこの頃のことをよくお話になりました。その後、79年には県の教育庁に総合文化センター準備室というのが設置されていますが、総合文化センター設置を目指す中心的なメンバーが安谷屋で、どんな美術館にするか、照明を部屋の中にどう配置するかなどの図面を安谷屋が引いていたというお話を、節子さんから聞いたことがあります。

はじめ美術館は、総合文化センターの一環として考えられたのですね。総合文化センターは与儀公園、現在は沖縄県立図書館と那覇市中央図書館、那覇市文化会館がある所です。あのあたりを総合文化センターにしようという計画があり、そこに美術館、中央図書館、科学館、中央公会堂などの文化施設を建設する五カ年計画を期成会は考えていたようです。1979年には総合文化センター準備室が教育庁に設置されていますので、県としてはかなり本格的に文化センター構想を考えていたとは思うんですが、1984年には総合文化センター準備室は廃止になっています。

60年代の運動の結果、1972年の第一次沖縄振興開発計画には「芸術鑑賞や創作活動を推進し、そのための場となる県立総合文化会館の建設をはかる」という文言が盛り込まれました。県立総合文化会館という名前になっていますが、この頃は一貫してセンター構想があったようです。これ以降、第三次振興計画まで、必ず文化施設や美術館建設についての文言がこれまで盛り込まれてきました。

1980年代になって準備室が廃止されますが、沖縄県立芸術大学が開校していますので、大学のほうが優先されたのかとも思います。1962年から期成会が作られ、運動が起きたわけですが、この時期、一時ストップというか、断絶とまではいえませんが、ここで一つ線がひけるのかなという気がします。この総合文化センターの中に美術館を作ろうという運動は、例えば1965年に沖展で署名活動が行われたりして、美術界において盛り上がりがあったように思います。

 

■1990年読谷村立美術館—「美術館問題を考える100年の会」

次に大きく美術館建設運動が盛り上がるのは90年代で、1994年ですね。運動の活発さから言えば、この時期、つまり県立美術館の基本構想、基本計画ができる頃が一番活発なのですが、その前段として読谷村立美術館の開館時に問題があって、これに対する美術関係者の動きがありました。これが1994年の前段になっていると、当時の関係者から聞いています。1990年、沖縄県にも2つの公立美術館、浦添市美術館と読谷村立美術館が開館しました。読谷村立美術館は歴史民俗資料館の3階部分にできたのですが、読谷村で何が起きたのかという話をしておきたいと思います。

開館の前年の1989年、「美術館問題を考える100人の会」が結成されて、《地方における美術館の望ましいあり方シンポジウム》(1989年6月8日、読谷村中央公民館ホール)が行われました。パネリストは翁長直樹さん(後の沖縄県立博物館・美術館美術館副館長)、真喜志勉さん(アーティスト)、永津禎三さん(現琉球大学教育学部教授)などで、後に県立美術館についても大きなシンポジウムが行われるのですが、これらのメンバーが美術館建設あるいは美術館問題に関わる人たちとして、この時から読谷村立美術館の問題にも関わっていました。だからメンバーは重なっているんです。

この時の問題というのは県立美術館とはだいぶ違っていて、当時読谷村の教育委員会社会教育課が行っていた「動く美術館」に関係しています。「動く美術館」という移動美術館は、川島博さん(美術評論家)がプロデュースする展示会です。この縁で、川島氏から読谷村にある洋画家の作品が寄贈されたんですね。読谷村はこのコレクションを元にして美術館を作ろうと計画し、村長は川島氏が館長になると公言したりしていました。それを疑問に思った美術関係者たちが会を結成し、そして問題点を読谷村に提示して公聴会を開催させたようです。美術関係者と読谷村の考え方はかなり食い違っていて、そのために更に考える会は会の規模を大きくしてシンポジウムを催したわけです。その後、コレクションが貧弱、学芸員等の館に携わる人員の不足という問題はありつつも、読谷村立美術館の運営は正常化していきました。なので、美術関係者、美術家がとった行動が行政を変えたという、民間の力がインパクトを持った事件でした。

 

  • 1990年代 県立美術館基本構想

県立美術館のほうに話を戻しますと、沖縄県文化問題懇話会が特色ある県立美術館建設の早期実現を提言するのが1990年。このあたりから沖縄県が美術館を作るという気運が盛り上がります。一方、県立博物館のほうですが、こちらも新館を立てるという計画が同時にありましたが、当時は美術館と博物館は全く別々に考えられていました。さらに那覇新都心再開発という問題があって、それと博物館新館建設と美術館新設の動きがリンクしていきます。博物館新館と美術館を新都心開発区内に建てるという用地が確保され、同一用地に建設するということが、1991年から1992年くらいにかけて決まっていきました。

そして、1993年に県立美術館基本構想検討委員会ができ、基本構想を策定するということになりまして、その検討委員会の第一回が1993年8月に行われます。このときに示された事務局案は、行政文書から少しずつ言葉をとってきたような非常に無難で、無味乾燥としたものでした。基本構想の策定が性急に進められ、また過程が不透明であることに不満を持った美術関係者たちが集まって、翌年1994年1月2日「沖縄県立美術館建設を考えるシンポジウム実行委員会」が発足します。この時はまだ私は沖縄におりませんでしたので、直接この時の運動には関わっていませんが、後にこの実行委員会は分厚い報告書を出しています。それを見ると初めは真喜志勉さんのお宅に集まって問題について話し合っていたところ、だんだん人が増えていってこの実行委員会設立に至ったということが書かれています。

ここからは実行委員会の動きと、それが基本構想にどのような影響を与えたのかについてお話していきたいと思います。「沖縄県立美術館を考えるシンポジウム実行委員会」のメンバーは、新聞などで盛んに意見を表明していて、それらは報告書にほぼすべて掲載されています。報告書には読谷村での動きやシンポジウムなどについての新聞記事も載っていて、読谷村の美術館を巡る運動が県立美術館建設の運動の前史となることを表明しています。読谷村の美術館の動きが前段にあるということは、この報告書でも明らかなのです。この報告書ですが、主要な沖縄県内の図書館には入っておりますので、詳しくは是非報告書をご覧下さい。

さて、県立美術館のほうですが、「沖縄県立美術館建設を考えるシンポジウム実行委員会」が発足しまして、1994年2月25日に大規模なシンポジウムを行って自分たちの考えをアピールしていきます。参加者が250人。主催はシンポジウム実行委員会ですけれども、共催に沖縄タイムスと琉球放送が入って、RBCホールで行われております。実行委員会が発足した頃、沖縄タイムスに実行委員会メンバーが一人ずつ発言する記事が、連載されています。シンポジウムはステージ1とステージ2に分かれていて、ステージ1はミュージシャンやボクサーを呼んだりして、イベントになっていました。ステージ2の方がシンポジウムですね。報告書を見ると、明らかに豊平ヨシオさんが実行委員会の理論的な支柱だったということがわかります。パネリストとして高嶺剛さん、山本秀夫さんを本土から呼び、安田哲也、城間喜宏、能勢孝二郎、真喜志勉さんがパネリストで、それぞれの意見を披露し、お互いに議論し、さらにフロアからの質問等に答えるというシンポジウムでした。

 

■『アウト・オブ・ジャパン、そしてアジアへ』

そのシンポジウムに向けて企画趣旨というのが作られたのですけれど、その一部を読んでみます。「 いま、私たちの目の前には中途半端な妥協が生んだ「美術館列島」の玉虫色の風景が横たわっている、といっても過言ではありません。新しく造られる美術館は、少なくとも、こうした日本の美術館を取り巻く状況から離脱するものでなければならないのではないでしょうか。沖縄の美術館が、顔のよくみえない47番目の美術館として最後列に加わるだけに終わるのか、それとも開かれたアート空間を創造できるかどうかが問われているといえます。沖縄にこだわりながら、沖縄という枠組を越えていく、そのような地域的個性と普遍性が同在する空間としての美術館は出来ないものなのでしょうか。地域的個性と普遍性、私たちはこれを沖縄の<アジア性>と呼ぶ。ここでいうアジアは単に地理的なそれを指すだけでありません。沖縄が歴史的・地理的に蓄積した経験を掘り起こし、組み替えながら、新たに見いだしていく<関係概念>であり、創造される<交通空間>である、ということです。想像し、創造する力によって初めて拓かれ、みえてくる場所—<アジア>とはこのような発見されるべきαのようなものなのです。このαのようなアジアを発見し、根拠にすることは、沖縄の近代と戦後の志向ががんじがらめにされ、今も陰になり日向になり沖縄の意識や無意識を拘束し、日本のしっぽで凡庸な悲・喜劇を演じる47番目のコンプレックスを書き替え、自由になることにもつながると考えます。」という文章です。

この企画趣旨は、当日に司会進行も務めた批評家の仲里効さんが起草したものだそうです。読んでいただければわかるように、半復帰、反国家論のスタンスを踏襲していることは明らかです。また沖縄からアジア諸地域へ広がる視線が明確に示されています。このア沖縄からアジアへという広がりは、当時の県も共有していた考え方で、当時の県の国際交流推進大綱でも沖縄が南への拠点になることが目指されていました。結局、この思想は、基本構想、基本計画に反映していきました。基本計画の中で、アジアの現代美術の収集を、明確に収集方針の中に入れるようになっています。

 

■沖縄県立美術館から沖縄県立現代美術館へ

この動きを受けて、基本構想検討委員会が基本構想検討報告書を答申しまして、その中で名称が「沖縄県立現代美術館」になりました。それまでは沖縄県立美術館と言っていたのですが、過去の美術品、古美術を集める美術館ではなくて、現代を扱い未来を見つめる美術館だということが打ち出されます。通常、基本構想に一、二年かけてその翌年には基本計画というのが順当な段取りですので、このころは順調にいっていたんですね、翌年1994年9月には「沖縄県立現代美術館(仮称)基本計画」が策定されました。名称に「(仮称)」が付いております。収集対象を沖縄の近現代美術、沖縄を取り巻くアジア諸国の現代美術、そしてこれも特徴的ですが、戦後のアメリカ現代美術という三本柱ができました。中国やベトナムなどの現代美術が今現在の沖縄県立美術館に収蔵されているのは、こういう収集方針があったからです。でも開館までは、アメリカ現代美術は値が高すぎて、一点も収蔵していませんでした。沖縄の近現代の作品も収集していきました。また、管理運営の問題が後で問題になってくるわけですが、基本計画では管理運営を財団法人に委託させると明記しています。この基本計画は知事部局で策定されているんですね。その後、建設が博物館と一体になっていった段階で、美術館の準備室は博物館を所管する教育庁に移るのですが、この時は知事部局の文化振興課の管轄でしたので、恐らく財団法人は沖縄県文化振興会を想定していたのではないかと思います。

肝心な理念と活動方針ですけれども、初めの事務局案にはその美術館の基本的理念はあまり明確に記されていませんでした。しかし、シンポジウムが行われたりしまして、基本的理念と活動方針がしっかり基本構想、基本計画に盛り込まれるようになりました。この辺が他の都道府県には無い基本計画で、非常に特徴的なものになっています。例えば、基本構想だと、基本理念および活動方針で4頁半を当てています。資料も合わせて15頁あるのですが、その三分の一が基本理念に費やされている。この基本理念の部分がしっかりしているのが沖縄県立美術館の特徴です。そして、基本構想の基本理念を、基本計画も受け継いでいます。

基本理念は三つあります。「沖縄県立現代美術館(仮称)が目指す第一の理念は、当美術館を人間の根源的な感性を呼び覚ます、人間復興の最前線として考えることである。第二の理念は、現代を見つめ、未来への展望を切り開く場として機能する美術館を目指すことである。第三の理念は、地域性と国際性を同時に共存させる視点を持つことである。」この三つです。人間復興の最前線、それから、現代を見つめ未来への展望を切り開く、そして地域性と国際性を同時に共存させる、基本構想ではこれをグローバルとローカルをつなげて「グローカル」という造語が使われました。基本構想では文言が公の文章として適当でなかったり、熱が入りすぎていたりするところが、基本計画ではきれいに整えられて、でも本質は変わらず、基本構想が基本計画に生かされています。活動方針は、時間もないので読み上げませんが七つです。基本的理念にエネルギーが費やされているのが、沖縄県の美術館の特徴だと思います。シンポジウムなどが行われて、美術関係者の力が県の基本構想や基本計画に反映されたということでは、この運動は非常に成功したと思います。

 

■予算の凍結と前島アートセンター

ここまではよかったのですが、バブルが弾けて沖縄県の財政状況が悪化していきます。そして、設計者が決まり、基本設計が1997年に作成されたんですが、実施計画の予算計上が1997年度から見送られます。建設の動きがここで鈍くなっていきました。そして1999年からは建設自体が凍結されます。前島アートセンターは、この凍結期に出来ているんですね。

2001年、前島アートセンターは那覇市前島三丁目の高砂ビルで活動を開始、そして翌年にはNPO法人になります。前島アートセンターの設立には、県立美術館の学芸員たちが建設も凍結されてしまい、活動が八方塞がりになっていたことが一つの要因となりました。また高砂ビルのオーナーや美術関係者が、前島三丁目をなんとかしたいという思いがあって、それと学芸員たちのどこかで活動したいという希望が結びついて、前島アートセンターになっていったのだと私は解釈しています。その初期の活動の特徴ですけれども、今から考えると美術館的な活動でした。まずギャラリーを作り、中堅以上のアーティストを呼んで個展をさせていました。ギャラリースペースだけではなくて以前は宴会場だった部屋を使って展覧会が行われましたけれども、可動壁やパネルを持ち込んでそこに作品を掛けていくような、美術館でやる展示方法をそのまま持ち込んでいる感じの展覧会でした。でも、当時前島アートセンターで行われた展覧会はとても質が高かった。中堅以上のアーティストたちも美術館が出来なくて活動の場を探していたと思いますし、前島三丁目という繁華街として老朽化した街中で作品を展示することに、作家たちがとても前向きで、その結果、作品もよかったですね。前島アートセンターでの展覧会が、作家の作品歴を見ていくときに、一つのターニングポイントになっていたりするのです。

 

■建設再開—復帰30周年事業

そうこうしているうちに美術館の建設が再開します。これが2002年でして、沖縄振興計画の県素案に博物館新館と美術館の整備が盛り込まれ、復帰30周年事業として建設が決定します。2003年には基本設計の規模を小さくした図面をもう一回引き直すというようなことだったと記憶しておりますけれども、実施設計が行われ、2004年起工式、そして建築工事が始まります。もうこの頃になると前島アートセンターに関わっていた県の学芸員は美術館に時間を取られ、前島アートセンターからは離れて行きました。学芸員が前島アートセンターに関わっていたのは2001年から2002年にかけての一年くらいだと思います。そして、建築や内装、収集委員会の他にどんな展覧会を行っていくかということを考える、県立現代美術館の企画展示アドバイザー会議という外部委員会が出来ました。私はこの委員会のメンバーだったのですけど、会議では開館記念展をはじめとした企画展など、学芸員が計画を立てたものに外部委員が意見を言うというような形でした。その中で、いい館長が来てくれればいい作品も借りられるし、国際展も容易になるというような館長問題、それからどんなスタッフ、学芸員を雇用できるかでやはり展覧会の質が変わってきますので人事の問題などの、展覧会の中身以外の話というのもかなり話し合われたと思います。この頃には所管が教育庁に移っていました。教育庁所管の県立博物館は戦後ずっと直営で来ましたので、教育庁としては美術館も直営でやりたいとこの頃は考えていたようです。基本構想、基本計画が博物館とは他にあるのですから、博物館と美術館が複合施設でひとつの建物の中に入っても、美術館にはしかるべき館長をおきたい、いい展覧会をやっていきたいという考えを当時は持っていました。

 

■行政改革懇話会での基本計画変更

それがどんどん変化していくひとつの原因として、かなり強い反対が行政改革懇話会などで出されているんですね。2005年の行政改革懇話会の専門委員会で集中的に、県博物館美術館の管理のあり方というのが議論されます。11月25日の第6回と12月13日の第7回の二回にわたって議論されました。この段階で直営で行きたい、館長を博物館と美術館の館長を一人ずつ置きたいという県の教育庁の案が、懇話会の委員によってことごとく否定されていく。そして委員の意見として指定管理者制度を導入すべきである、博物館と美術館両方を兼ねるひとりの館長でいいという意見が出されました。この委員会から宿題が出され、県庁内で総務部と教育庁が意見の調整をしてもっといい案を持って来いと言われるわけですね。その案を作る作業の中で、それまでの基本計画に沿った人員配置を次第に譲歩し、変形させていく。第7回になりますと、県から委員に対して指定管理者制度を導入し、継続性の求められている収集、研究等は県職員の学芸員が、企画展示等は指定管理者の学芸員でもできるので指定管理者が行うことを考えていると説明しています。今の状態はこの時に作られたと言えるでしょう。翌年の2006年1月10日に行われた行政改革懇話会で、専門委員会の委員長から検討結果が報告されています。指定管理者制度導入を導入し、学芸部門にも指定管理者の学芸員が受け持つ部門を作ると。そして、館長は総館長。博物館と美術館両方と合わせて一人。県の側は博物館美術館に一人ずつ館長を置き、その上に総館長を考えていたんですが、三人も館長を置くのはダメである、一人でいいということが話し合われ、県もそれに従って計画を立てていますという報告がなされました。

 

■「沖縄県立博物館新館・美術館のあり方について語る会」

そして、懇話会からの要請を実際に反映させるために、県庁内に「県立博物館新館・美術館運営のあり方について語る会」を作りました。これは外部委員によって構成されていましたが、存在が不透明な会で、きちんとした諮問機関として位置づけられていないんです。にもかかわらず、非常に重要な美術館に関することを決めた会です。これを県庁内に設け、現在も問題になっている管理運営に関すること、それから人員に関することなどを議論させて決めさせました。この語る会ですけれども、第一回が行われたのが5月12日です。我々は基本計画しか知らなかったわけで、大きく中身が変わってくるということに気がつき始めたのは、この5月になってからです。にわかに美術関係者の動きが活発になって、「沖縄県の美術館に関する公開質問状支援文化18団体」(後に19団体)という団体が作られる。まず、その団体が8月25日に公開質問状を出します。このようにわかに動きが激しくなった頃に出された沖縄タイムスさんの連載ですが、見出しだけ見ますと、「一方的な方針に美術関係者不満」。そして指定管理者制度についてですが、「施設内容充実と経費削減で対立」。「管理手段、行政の案が前提、本質論なく討議」。見出しから推察できるように、美術関係者と県の意見が大きく食い違い、対立していくということになりました。美術団体のほうはまず公開質問状を出し、9月に回答書が来たのですが、要望が取り入れられない一方的な意見が記された回答書でしたので、12月には県議会へ陳情書を提出することになります。その頃には条例案が県議会で審議されるようになっていて、その条例案に対する運動になっていきます。そして、美術関係者と美術団体が大同団結するようなかたちで、『美術館問題について大いに語る会』が発足します。会の名前は先程お話しました「運営のあり方について語る会」という不透明な会が県の中に作られ、そしてたった三回の審議ですべてが決められていた事に対して非常に不満があったので、それをもじって『大いに語る会』になりました。

 

前編終わり。『美術館問題について大いに語る会』発足以降は後編に続きます。

聞き手sima art labo
収録日2014年11月9日