Interview アートに関わる様々な方へのインタビュー記録

永津禎三

Profile

美術家/琉球大学教授。

■匠をはじめるきっかけ
(町田)それでは、始めたいと思います。永津先生、よろしくお願いします。
今回、2000年代の美術についての検証ということですが、それに先だって1980年代後半、正確には86年から約2年間、運営に携わっていたギャラリー匠についてお聞きしたいと思っています。匠は、当時幾つかあった画廊とは形式が異なり、作家が主体となって始めた活動で、それは現在に続くアーティスト・ラン・スペースの沖縄におけるはしりとして考えます。そもそも「匠」を始めることになった経緯から、お話していただけますか。お願いします。

 

(永津)はい。僕が沖縄に来たのは1982年になります。安次嶺金正先生が定年退官されて、その代わりに僕が来ました。その2年後の84年の9月にまず、丸山映先生が教養部教官で採用になり、琉球大学にいらっしゃいました。玉那覇正吉先生が在職中にお倒れになり84年に亡くなられたんですね。それで、半年ぐらい僕たちが手分けして授業を担当したんですけども、半年後に採用人事ができて、丸山先生がいらっしゃいました。その1ヶ月後の10月に、奥田実先生が教育学部の陶芸担当教官としていらっしゃいました。そう、丸山先生のご専門は彫刻でした。そういう形で、実技の教員がずいぶん入れ替わったということが状況としてまずあると思います。
僕自身は赴任直後から、自分がそれまでやってきた仕事をこちらでみんなに見てもらいたいと思っていて、1年ほど準備をし、83年の4月に、僕が大学3年の時からここに採用になって1年経過したまでの作品を一挙にお見せするという展覧会を開きました。29歳の時です。
その展覧会を、宜野湾市の大山にあった画廊匠の宮島都紀雄さんが見に来て下さいました。その宮島さんが、僕の作品を気に入って下さって、個展を自分の所でやらないかと声をかけてくださいました。画廊というよりは居酒屋さんみたいな所だったんですけども。画廊居酒屋。

 

(阪田)お酒も飲めて、ご飯も食べて。

 

(永津)ほぼ、お酒を飲むほうが主体というか。長野のご出身だったのかな? 店に囲炉裏風の感じのものがあったりとか、なんか不思議な居酒屋さん…。でも、実は、声をかけていただく前に、その画廊に入ったことがあったんです。僕は当時大謝名に住んでいまして、近所だったんです。
画廊に入ってすぐ右手の壁に、李朝の民画が掛かっていました。文字絵です。それが、すごく良いものだったんで、決心して後日、買いに行ったらもう売れていた。そんな出来事がありました。そこの方が声かけて下さって、たまたま場所も知っていて、その年、83年の11月に画廊匠=居酒屋画廊で、新作の個展をさせていただきました。その後、84年の12月から85年の1月にかけて、今度は版画の個展をそこでさせていただきました。2回ですね、個展を画廊匠でさせていただきました。
まぁ、居酒屋画廊だったんですけども、展示期間が長く、ほぼ1ヶ月ぐらいやっていいということもあって、それが魅力で。83年11月の個展は3週間ちょっと、版画展の方は、ほぼ1ヶ月、お正月を挟んでいたんで、その間は休みですけど、やらせていただいて。ということで、懇意にしていただきました。簡単に言うと、ちょくちょく呑みに行っていました。
86年だったと思うんですね、1月か2月ぐらいに、画廊匠の経営者の宮島さんから相談を受けまして、ちょっと今危ないと…。継続が困難であるという話、相談をされました。
僕は名古屋の出身なんですけども、たまたまその頃、名古屋でグループ展をやったりしていた時に、美術批評の三頭谷鷹史さんや、名古屋芸術大学の茂登山清文さんと知り合いになりまして、彼らはちょうど、『美術読本』という小冊子を作っていたころで、そういう人達と付き合いが始まったところでした。
彼らが作っていた『美術読本』っていう雑誌名は、美術手帖を出している美術出版社が押さえていた名称だったので、ちょっと争いになって、結局、名前を変えざるを得なくなりまして、『裸眼』って名前に後から変わるんですけども…。
僕は愛知県立芸術大学の出身だったんで、わりとそういう、どういったらいいのかな? 現代美術系の人達と、それまであまり知り合いはいなかったんですけども、自分の作品がだんだん変わってきたのと、グループ展をするメンバーも少し変わってきていたので、その頃、そういう人達と知り合いになったということかな。
その人達が、いろいろな場所で生まれていた、自主的な、作家が持っているスペースっていいますか、いわゆる自主企画運営画廊なんかの動きを教えてくれまして…。そういうようなものが、いろいろ起こってて、自由にやっているんだなということを知った頃だったんです。
それで、宮島さんから相談を受けたのは幸いということで、経営的に厳しいのであれば、例えば、自分達が月々いくらかづつ会費を払って、その作家達の自主企画運営画廊としてこの場所を使ったらどうか、ということを提案しました。それに、賛成して下さったということで…。

 

(町田)あの、1月か2月に話があったっていうじゃないですか? 1回目の会議が3月なんですね。そして、画廊の第1回目の展覧会が5月に始まっています。

 

(永津)展覧会は5月だったっけ? あーそうか、そうか!そこは居酒屋画廊でしたから、中の改装から始めて…、自分達で改装しました、お金がないから。
そんな記録写真もありますけれども…。だから、ほとんど、春休み、春休みがその改装期間。当時、琉大も暇だったんで、ばっちりその時間をつぎこみまして…。

 

 

永津禎三

 

■メンバー構成
(町田)先ほど名前が上がった丸山先生始め、琉大のメンバーや、他にも何人かお誘いをして、立ち上げることになったと思うんですけど、、。

 

(永津)まだその時、自主企画運営画廊でやろうという提案をした時には、まだ具体的には顔ぶれというのは僕の中には浮かんでいなかったですよ、実は…。
でも、同僚の実技系の先生が、そういう形で新しい人が増えたので、誘えばきっとやってくれるだろうという気分は、どっかにあったと思います。
いま、ちょっとメンバーの話が出たので…。僕の今の妻、禮子は旧姓が照屋で、もうすでに僕よりも2年ぐらい前から、織染担当の大城志津子先生のもとで技官として仕事に就いていました。僕の職場の先輩になりますが、彼女にも色々なことを相談していて、早速こういう話があったということも相談をしました。
こういう自分たち作家の自主企画運営画廊みたいな事をやろうと思った時に考えていたことがあって…。前から感じていた事でなんですけども、沖縄で批評活動している人が、ほとんど詩人や作家ばかりで…、自分の事も新聞記事に書いて頂いてありがたかったんですけれども、何となくピンとこないという気分もあって、ちゃんと評論を出来る人はいないのかなと。あるいは育てられないのかなと思っていて、そういうことを禮子さんに相談をしたら、翁長直樹さんという人がいますよ、と…。
その人は少し変わっていて、琉大の先輩なんだけど、英語がすごく出来て大阪教育大学に国費留学で行ったのに、何か映画にのめり込んでしまって大学に行かなくなり、退学して琉大の美術工芸科に入りなおした人。彼は映像に興味があるんだけれども、評論にも興味があって、やってみたいと言っていたのを聞いた、ということでした。それならということで、早速会いに行きました。
当時、読谷の古堅中学の先生をされていたと思うんですけども、そこに会いに行って話をしたら、「あ!やるよ」ということで、そこからは、割とトントンと数名が固まって来て、もちろん丸山映先生も奥田実先生もやってくれる、禮子さんも参加してくれるということで、翁長さんからは、山内盛博さんが良い仕事しているよとか紹介してもらって、あと宮島さんから大浜用光さんと写真家の大城信吉さんを紹介していただきました。
それから、出資者として宮城信博さん、僕たちは“しんぱくさん”と言っていましたけど、その方は『八重山生活誌』を書いた宮城文さんのお孫さんかな、僕より少し年長ですが、会社の社長さんをされていた。
画廊匠の常連さんであったということで…。実は、私が当時住んでいた大謝名の家の近所に住んでいらして。当時の僕の妻がピアニストで、宮城さんの奥さんもピアノ教師をされていて、そういう関係で既に知り合っていました。
そういうことで宮城さんも参加してくださるということで…。もう一人、米盛裕二さんという琉大の教授だった方がいらっしゃって、その方は白保の自然保護運動をしていた方でその人も誘いたいと紹介をされたんですけど。結局、米盛先生はそちらの運動で忙しいので無理だということでメンバーとしては参加されませんでしたけれど、何かと見守ってくださいました。そのようなメンバーで段々固まっていきました。

 

(町田)あと、大嶺實清さんとかはどうですか。

 

(永津)はい、大浜用光さんから實清さんがいいよという形で段々輪が広がっていって、何段階かでちょっとずつ人数が増えていったと思います。
初期のメンバーが固まってきた頃、宮島さんのお考えで画廊主宰というのを置くと…。それから、資料を見直してみたら、一応、規約みたいなことが決まってましたね。
運営と企画とで、担当を分けてやりましょうというようなことを決めてあって…。

 

(町田)資料には匠って書いてあるけど、てぃぐまって、ひらがながふられていましたね。

 

(永津)主宰を大浜用光さんに、運営の方が宮島さんと宮城さん。企画は大浜さんと丸山先生、大城信吉さん、奥田先生、翁長直樹さん、照屋禮子さん、山内盛博さんと僕で、ここに作曲家の上地昇さんの名前も入っています。
上地さんはその頃音楽院首里を主宰されていて、83年の私の顔見せの展覧会を見てくださいました。僕の前妻がピアニストだったんで、たぶんその関係での知り合いだったと思うんですけど…。自分の所でもやってくれよみたいな感じで、ちょっと個展をしたことがありました。その頃、上地さんは「音楽院首里」で美術の展覧会をしたいと僕とか喜久村徳男さんを誘って、個展会場で音楽会や詩の朗読会などいろいろやっていました。そういうちょっと違うジャンルの人達と仲良くなるのも沖縄ならではで良いなと思ったりもしていたんで、画廊匠でも、せっかくなのでそういう美術家だけでなくていろんな人が参加するというかたちをとれたらおもしろいかなということで、上地昇さんにも声をかけました。即決でいいよ!と言ってくれたんですけど、名前だけの会員で終わってしまった。結果的に。そういう感じでこれがだいたい第一陣のメンバーです。
実は、こんなふうに決まる前に、86年の3月に打ち合わせ会を、何回かやっていまして、その時には、もっといろんな方の名前が出ていました。例えば、洲鎌朝夫さん、関根賢司さん、國吉清尚さん、真喜志勉さん、能勢孝二郎・裕子夫妻、松島朝義さん、安谷屋美佐子さん、高良勉さんとか。多分、それ以外にも名前がたくさん出たと思うんですけど…、伊江隆人さんもですね。
このときは思いついて名前を挙げているだけなので、声をかけなかった人もいたと思うんですけど…。そういう人も含めて、参加を呼びかけて断られたり、メンバーの中で、どんな仕事をしている人なのかもう少し時間をかけて確認しようかという人がいたりして…。一応、最初の形になりました。
その後、加わったのが、伊江隆人さんと吉川さんだったかな? 吉川さんはテレビ局に勤めてる方で、映画の『パラダイスビュー』に出演されたっていう…、吉川正功さんだったっけ?
ちょっとね、東南アジアの空気感を漂わせているおもしろい人だったんですけど、その方も結局ほぼ名前だけかな。企画には参加されなかった。会費は払ってくれていたのかな…。それから大嶺實清さん。という感じで増えていきました。

 

■運営について
(町田)会費という言葉が出てきたんですけど、運営自体は、メンバーで会費を出し合って回していたんですね?

 

(永津)はい、そうですね。この資料を見直すまで僕も忘れてたんだけど、当時集まっていたメンバーで、まず、改装しないと場所が作れないということで、3月24日締め切りで1人3万円まず払いましょう、と決めたみたいですね。これは改装費。あと、会員は年に12万で月々分割でも良いって書いてある。月1万っていうのは分割だったんだ…。作家が月1万払えば、これで維持できるだろうという計算。15人ぐらいのメンバーでいけそうと、ざっくりですけど皮算用でスタートしたと思います。

 

(町田)その内訳は、リーフレットやDM、あと、会場の借用料でそのぐらいの金額ってことですか?

 

(永津)えっとね、そこは、居酒屋画廊の奥に宮島さんの秘密基地みたいな部屋があって、家賃に関してはそのフロア全部で払っているから、多分いいと言ってくれたんじゃないかな。1万円だけでは、そこまではできないと思うので…。ですから、この金額は基本的にはギャラリー運営のため、ということで、家賃抜きで…。だから、リーフレットと、あと、人件費。当番係ですね。もし夜も開けるとすれば、お店を任せられる人。それから、郵送料とか、そういうような雑費ですね。
展覧会の設営に関わる費用は、基本的には展覧会をする人に持ってもらって、その代わりギャラリー費は取らない。そういう形だったと思うので、それで、なんとかやっていけるのだろうという皮算用だったと思います。はい。

 

(町田)実際に、金額的には集まらなかったんですか?

(永津)まぁ会員は15人ぐらいいたはずなんですが、幽霊会員がたくさんいて…。前から僕は、ちょっと腹立たしいことだと思っているんですが、沖縄の作家の何人かは、貸画廊にもお金を払わなくて良いと勘違いしているんじゃないかと…。結構多くの画廊がそれで経営が傾いたんじゃないかな…。沖縄銀行のビルにあった立派な画廊、なんだっけ?
貸ギャラリー全盛期のころ、作家が画廊に金を払わず、つぶしていったんじゃないかという。

 

■当時の美術状況と匠のやり方
(町田)80年代後半、その頃のギャラリーってわりとまだあったんですよね?

 

(永津)まだまだありました。90年代になってからじゃないですか、画廊が、そういう貸し画廊という形では、なかなかね、借り手がつかなくなっていったのは…。

 

(町田)そういう中で、アーティストが主体となって、いわゆるアーティストランスペースとして、立ち上がったっていうのは、画期的じゃないかなと思っていて、ギャラリストっていう立場としてやるのではなく、自分達でやっていこうという。なので、基本、作家ベースで、メンバーの展覧会をやっていますね。
ただ、メンバー以外の方が、時々参加されてるんですけど、それは、どなた、メンバーの知り合いとかですか?

 

(永津)そうですね。基本的には、やっぱり、自分達が自由に使えるスペースが欲しかった。当時の貸し画廊って釘も打てないし、期間も1週間くらいと短い。せっかく設営するまでにお金をかけるのに…、ってこともあったので、まあ月1万で、作家が自由に1ヶ月以上でも使える、そういう場所が手に入るんであればって、まぁ割と簡単に考えていたと思うんですね。自主企画の意味を、それほど自覚もせず…。

 

(町田)毎月やっているんですね。この間、空けずにやってるっていうのは、なかなか大変だと…。

 

(永津)当時の常識からいくと、例えば、週のうち3日だけ開けるという発想はなかったですね。今、考えたら不思議なんだけど、なんか毎日開けなくちゃみたいな気分で…、やっぱり貸し画廊のイメージが強かったんじゃないかなぁ?当時は若かったし、大学も暇だったんで…、奉仕をしてるつもりもなかった、普通に入り浸ってましたから…。

 

(町田)これは、どこかにデザイン出してたりとか、フォーマットが決まっているとはいえ、毎回、リーフレットも作家が、こう何かくっつけたりとか、手が込んでるんですけど、誰が、これはやっていたんですか?

 

(永津)リーフレットは、僕がデザインしました。
でも、このデザインは完全にパクリですね。INAXギャラリーのリーフレット。パクりですが、この資料には、「参考にする」と書いてある。(笑)
リーフレットは会場で配布をして…。中にオジリナルのシルクスクリーン版画を入れたものは、それを売ることで運営費に充てようっていう気分もありました。そのシルクスクリーン版画を刷るのも大学で、学生にも手伝って貰ったりして、みんなでやってました。

 

(町田)結構、大変ですよね。結果、記録として残るので、すごい重要…。

 

(永津)そういう意識だけは…。評論の問題と一緒に、やっぱり記録はちゃんと残った方がいいねっていうことで、リーフレットに関しては、最初から始めました。

 

(町田)どういった方がギャラリーにはいらっしゃってたんですか?その、実際に作品を買われるようなことも、あったんですか?

 

(永津)ありましたね、一応。その…、微々たる売り上げですけども、それも一部が運営費に回っていくという…。さっきも話した李朝の民画が、置いてあったら売れていくという感じ。それくらいには売れてた感じ…。
宮城信博さんっていう方も、社長さんって言ったんだけど、いわゆる都市計画のお仕事でした。それで設計や土木関係の人とかですね、そういう方もその店には飲み屋さんとして結構来てたので、そういう人達がそのまま客として残っていたので…、そういう方が、いくらか購入者としていらっしゃったと思います。
スタート当初は、割と自分達で自由になるスペースとして考えていて、自主企画運営の企画については、それほど考えていなかったんですけども、「裸眼」のメンバーなどから他の所の自主企画の動きだとか、そういうのを伝え聞いて、だんだんと企画というものに対して、考えていったのかな? 翁長さんには、元々意識があったのかもしれないんだけど…。そういうことから、意識が生まれてきたのかもしれないですね。

 

■展示の決め方
(阪田)メンバー以外の人選はどうされていたのですか?みんなで決めてたいたのですか?

 

(永津)それがですね、みんなでというつもりでいたんですけども…。この資料を見直してみると、総会というのを毎年行うはずなんですが…、2年ちょっとの活動期間の中で、総会は多分、1回しかやっていないと思います。最初の年の8月にやって、その時に新入会員が承認されていると思うんですけど。
本来なら総会の時に一番、会員が集まる筈ですが、一番集まったのは、実は、改装して何もない真っ白なスペースで、これからやりますよっていう、呼びかけの会。その時の写真が、ここにありますけど。見ると、一番活気がありますよね。まぁ、何も置かれていないので、人もいっぱい入れるというのもありますけども。その後、5月でしたか?
いや6月? やっぱり5月に開廊展をしています。もともと、丸山先生は2年ほど前の84年に沖縄いらっしゃったのに、まだ作品発表されてなかったし、彫刻だったので、なかなか簡単にはできない。石彫がご専門で、石彫の小品をたくさんもってらっしゃったので、それでやってもらったんですね。忘れていたけれど、この資料を見直していたら、この開廊展、初めはグループ展でやるつもりでいたみたい…。

 

(町田)ほぼ、個展ですよ。みんな。

 

(永津)時々はグループ展がありました。
最初、グループでやる予定で動いていて、なぜか、ちょっと忘れちゃったんですけど、多分、丸山先生がまだそういう紹介の展覧会をされていなかったこともあったからかな。会場の入り口は、一方からは1階ですけども、国道側からは2階なんですね。そういう場所なので、そんなに彫刻展をやりやすい場所ではなかったんですけれども、なんとか小品であればいけるということで…。石って重たいですよね? こんな小さな作品でも…。

 

(町田)展覧会の一覧を見てると、新里義和さん…新里さんはまだ学生の頃ですか?

 

(永津)いや、卒業して間もなくの頃で、すごく面白いインスタレーションをやっていたんですよ、新里義和さんは…。つい新里君っていっちゃうんだけど(笑) 卒業生なので…。僕が琉大に来たとき2年生だったんですね。ちょっと余分な話になりますが、その上の学年が、前田比呂也さんとか、金城満さんとか、非常に派手な学年で、その次の学年ですけど…。
新里さんは浪人していたので、3年生と多分年齢は一緒だと思うんです。その頃の学生はなかなか優秀で、その下の1年生が、仲間伸恵さんの学年で、田里博さんもいた。ちゃんとしたしっかりした学生がたくさんいて、その中でも新里さんは、いち早く才能を発揮していた人じゃないかなと思っています。卒業研究もすごく面白かった。
だから金城満でもなく、前田比呂也でもなく、新里義和だったんですね。やっぱり、インスタレーションっていう手法とかも含めて、ぜひ、このスペースで、やってほしいという気分があったんだと思います。
さっきの質問、みんなで決めるんですか?という話ですが…。主宰は大浜用光さんでしたが、企画で大浜さんから紹介があったのは1回だけで…。結局、企画に関しては翁長さんと僕が主で、奥田先生、丸山先生と禮子さんに相談するというような感じで、だいたい決まっていたんじゃないかな。

 

■匠の終わりと、その後…
(町田)結果、続かなかったのは、金銭的な問題ですか?

 

(永津)金銭的なものもだし、そのお金を払わないでもいいかなという気分になってしまったのは、今言った、そういう企画が偏った、全員の合意で行ってなかったということもあるかもしれない。でも、僕がさっき話した元々払う気がない作家さんが多い土壌もあったかなっていう気もします。

 

(町田)匠は、場所も含めて解散だったのですか? 別の方が、また何かっていうことではなく。

 

(永津)終わりは、また、宮島さんから相談があって、いよいよ立ちいかないよ…みたいな、金銭的に…。そこで、無理してでもこのスペースを維持するかどうか…。維持しようと思えば、実は、宮城信博さんがすごく積極的に応援して下さっていたので、金銭的な部分だけだったらなんとかできるよって、いうふうに言って下さったんですけども…。そこは、無理して、そういう形で負担をかけてまで続けることはないかなと思って…。2年ぐらいですかね、88年の3月で終わったんですけど。2年じゃないか、86年5月から始まっているから2年弱ですね、期間としては…。

 

(町田)それ以降に、そういったアーティスト主体のスペースみたいなものできたのですか?

 

(永津)スペースとしては、実は考えていなくて…。それまでは、一応スペースとして、そういうのを持ってるっていうことが重要だったんだけれども、まあ2年ぐらいやっていく間に、かなり勉強会的な場でもあって、恥ずかしながら、僕が多木浩二を知ったのはここからですし…。それくらいの絵描きバカだったので、いろいろ勉強させてもらって…。そういうような部分を継続して、会場はどこかを暫定的に借りてもいいので、そういう勉強会から始まった展覧会を企画したりとか、琉大の研究生の成果発表の個展としても使わせてもらっていたので、そういうような企画も含めて、継続したいという気分はありました。
その時、翁長さん、奥田先生と僕の三人で雑誌を出そうという話になり、特集のために座談会までしたんですけども、結局、それは発行されないまま、幻の雑誌で終わってしまった。その時の雑誌名は『marginal』っていう、結構、みんなでがんばって考えました。座談会には、能勢孝二郎さんにも参加してもらったりして…。文字にできなくて申し訳ないなと思うんですけど。まぁ、そういうことはちょっと、考えて動いたんですけども…。結果的には、形には残らなかった。

 

(町田)匠のメンバーだけではなく、別の、匠の活動を見たほかの人達が、そういったアーティストランスペースみたいなものを、立ち上げるような動きみたいなのはなかったですか?

 

(永津)特になかったと思います。その時は。

 

(阪田)ずいぶんと、そこから間が空きますが、私が学生のころ、1995年~2000年弱ぐらいの間に、一時だけ、県芸の卒業生が集まって、ギャラリーを立ち上げた時期があってですね。県芸のすぐ近く。名前が憶えてなくて、でもそのメンバーには黄金忠博さんがいたのは覚えています。当時、私はまだ学生でしたがよく遊びに行ってました。

 

(町田)そういった作家が主体的に集う場みたいなものが、その時立ち上がって、それからどうなったのかな?って、後から知る人間としては気になるし、それが何故かなというのもあるんですけど。

 

■匠という存在
(永津)匠のことで言い忘れていたのですが、安谷屋美佐子さんですね。彼女は元々は版画の人だったんですけども、匠で87年8月に行った展覧会はインスタレーションなんです。これに関してはかなり学生が、制作段階で手伝うというか参加していました。そのときは公開制作の形をとっていて、あまり多くの人が見た訳ではないですけど、でも一応制作現場を見たり、参加できるという形のものだったので…。この時にもうやってたんですね(笑)。今、このリーフレットを見て思い出したんだけど。そうか、96年のアトピックサイトの随分前にやってたのか…。何故これを公開制作にしたんだろうね(笑)
忘れていた。既にそういう意識があったんだね、こうやって見るとね。学生の関りということなら、そういう感じ…。

 

(町田)今、どうして公開制作にしたんだろうね?とおっしゃってたように、また新里さんの時に、インスタレーションという試みを沖縄においてやったことは、永津先生が、名古屋や外で見てきた経験をこちらで紹介というか、提案としてあったのかなとも思いますし、それが永津先生だけじゃなくて翁長さんやそういった人達によって、沖縄でこういった表現が浸透していったのかなと思います。

 

(永津)僕自身の作品は、画廊匠の頃はインスタレーションという意識じゃないんです。86年の8月に匠で個展をしたときですね。匠のスペースがものすごく細長いスペースだったんですよ。自分が作っていた作品がかなり大きな作品で…。それを引きのないところで見せるのが大変に辛い、ということで、それを何とか解消したくて、部屋のコーナーを使ったんです。コーナーを切れ目なく繋ぐ作品にして。

 

(町田)面に並べるじゃなくて…、

 

(永津)コーナーを作品で連続して埋めるってことなので…。それによる空間の解放感、狭苦しさを解消するような作品にしたのが唯一インスタレーション的なこと。だから基本平面なんですね、僕の場合。
そういう発想から、この年、86年は僕にとって収穫の年と言って良いかもしれない…。ちょうど、東京と京都の博物館で、天皇在位60年日本美術名宝展があって。そこで、長谷川等伯の松林図を、京都では立体的な屏風状態で見て、東京では平らに伸ばされた状態で見て…、コーナーの作品をやっていたんで、じゃあ次は屏風形でいこうかなという感じになったんです。そういうちょうど転換期で、だんだん、コーナーの作品や屏風形の作品と他の小さな平面の作品を組み合わせていくような、絵画作品なんだけど、インスタレーション的な発想みたいなことになっていった時期になります。
だからまだまだ、僕の中では、インスタレーションっていうのは、他人事の話。その頃、新里君はいち早くインスタレーションに取組んでいた。彼もやっぱり、いろんなアンテナがあった人だったと思うので…。琉大を卒業してから、浦添工業高校で非常勤講師をしてたんですけども、今ちょっと、こういうことやってるんですけど、見てもらえますかって言われて、浦添工業高校の美術準備室に遊びに行ったら、いろんな物が拾い集めてあって、すごく面白かったんですね。木枠に貼られていないキャンバスがあったり、光背のような形の板絵があったりとかして。まぁ、おもしろいなーっと思って、是非こういう人に展覧会して欲しいなと…。

 

(町田)それを聞いたのは、永津先生が、愛知でやられてたことで、沖縄にいらして、翁長さんをはじめ、いろんな方々と匠を始めて、翁長さんはレビューで書かれているんですけど、沖縄自体が、地域性が強い場所である。そこを、作家がどう受け止めていくかみたいな部分で、自己を脱出できないでいる。そういった表現の閉鎖的なところをこの匠では、実験場として、開放することが、できたのかっていうところですかね?
実際に関わられていて、そういった風な活動自体が、そういった意味を持っていたのかっていうのを、どういうふうに考えてらっしゃるかなと思って。
それは客観的じゃなくてもよくて、永津先生自身が沖縄で、そういう作家活動をする中で、思っていることでもいいです。

 

(永津)まあ、一応、ある程度の実験はできていたと思いますね。というのは、まず会期が長い。先ほど話題にした公開制作も含めてなんだけど、そしてやっぱり、新里君の展覧会は、時期としても早い時期にやっていたし、会員じゃない人のこういう展覧会を、ここでやったというのはひとつ大きいと思う。それから、公開制作のことばかり話したけど、安谷屋さんの個展はなかなか作品として面白かったんですね。真っ白なホァーッとした空間、それがただあるというだけなんですけど…。
その後に、比嘉豊光さんがここで写真展をやったんだけど、豊光さんも、スクリーン越しにプロジェクションをするっていうようなことをしてました。いろんなちょっと、他ではやらないことを試みることができたと思います。
匠の最後の展覧会になってしまったけど、照屋禮子さんの個展も実験的でした。織物って割と伝統的な世界なんですよね。織物の世界からいえば若手の人が、何か変なことしてるぞと…。布を使ってインスタレーションみたいな感じのね…。禮子さんの基本は織りで、その織りの美しさだと思うんですけども。でも、沖縄でファイバーワークって、殆ど無いなかで、これを視野に入れていた。本質的にはファイバーワーク寄りではないのが、また良いんですけども。

ファイバーワーク的ということなら、仲間伸恵さんも個展をやってます。86年に琉大を卒業して、1年間研究生をやって、87年に、匠でその修了の個展をやってから、京都芸大の大学院に行きました。ただ、仲間伸恵さんは、この個展の前に、実は既にデビューしていて…。学部を卒業してすぐに、「画廊沖縄」が三人展をやってくれたんです。新里義和さんと金城馨さんとで三人展を…、なんとね。
だから、そういうファイバーワーク的なこともね、始まってましたね。
そういう意味では、琉大の学生や卒業生の新しい表現ですね…。僕自身もそういう形で、場所の制約から始まったことではあるけれども、新しい表現が作品に反映されてくるというところもあって…。ただ、その当時の自分の意識としては、新里君、ずいぶん新しいことやってるなという感じで、ちょっと自分とは切り離して見てた感じはあるんです。

 

(町田)いらっしゃった方々、例えば、上の世代の沖縄の作家さんなどから、匠はどういうふうに見られてたんですか?

 

(永津)うーん、どうなんですかね? 実は、最後に座談会をしたって話したじゃないですか? その時に、能勢孝二郎さんは、どんなふうに見てたかって話は聞いているんですけれども…。他の人からは、あんまり、ちゃんとそういうことを、しっかり聞いてはいないですね。

(町田)言わない風潮なんですか?
でも、伝え聞くというか、見には来られてたりするんじゃないですか?皆さん。見にも来られてないことってあります?

 

(永津)見には来られますよね。結構、来られるんですけど。どうなんですかね?
ちょっと、変わったことをやってる場所だなって感じで見てたのかな、大雑把に言うと。普通の貸し画廊での展示と比べたら…。

 

(町田)そうですね、貸し画廊とは違って見られていたのかなと。

 

永津禎三、阪田清子、町田恵美

■大学との関わり
(阪田)88年に匠が終わって、でもこの時に、琉大の卒業生達が、活躍し始めるころですよね。86年に、沖縄芸大が開学し1期生が入って、90年に県芸も卒業生を送りだした頃。琉大もそのまま続いている中で、90年代始めっていうのが、どんな動きとかあったとか、何か記憶にあるのをお聞きしたいなと。

 

(永津)うーん、90年代初めは、、、
ギャラリーがだんだん、その若い人が借りなくなる頃だとは、思うんですけど。芸大の人ってあんまり、ギャラリー借りたりしてないんじゃないですか?どうなんですか?逆に?

 

(阪田)学生でもあったのでお金もなく、私たちは借りたことは無かったですね。

 

(永津)ですよね。もうね、最初から貸し画廊でやるっていう考えがないよね。
うん。そういう世代がもう出てきてる頃なので、だから残っている画廊も…、まぁ年配の人はいるんだけど、そういう人たちがやっている展覧会のような感じになってきていると思うんですね。
やっぱり、それ以外で展示をするっていう形が、やっぱりだんだん皆の発想の中に出てきたっていうことですかね、一つは。
僕らの学生の頃は、やっぱりお金貯めて、ギャラリー借りて、展覧会するってのは普通の発想だったから、多分もう全然そこは違うと思いますよ。阪田さんたちの世代とは。

 

(阪田)私たちの時は、沖縄でギャラリーの数が減ったときだと思うので、卒業生や学生が展示をする場所というのは大学の展示室以外にあまり無い時期が続いて。それで自分たちで展示場所を作っていこうということになったと思います。

 

(永津)一応ね、うちの卒業生に関して言えば、ちょうどその頃、「1956」っていうギャラリーが、当時のフェスティバルビルの前の、ケンタッキーの上にあって、そこが綺麗なスペースで、真喜志勉さんも仲が良かったと思うんですけど、うちに研究生がまだいた頃で、事情を話して展覧会させてもらえませんか?って言ったら、お金にもならないのにやらせてくれたり、そういうこともありました。ただ、「1956」もそんなに長続きはしなかった。そうか、うちに大学院が出来たのが1989年だから、これは80年代の終わり頃のことですね。
90年代では勝連竜子さんと新里義和さんが二人でパレット久茂地の2階の短期間空き店舗になったスペースを使用できるように自分たちで交渉して、1階から階段部分とその2階までを使った大規模な二人展を行なっていたのを思い出しました。「街と彫刻展」がこの前後になるのかな…。丸山先生がこの頃琉大から芸大に移って、上條先生と一緒に行っていた。
僕自身は、91年に浦添の美術館で個展をやって、その後は2002年まで、ティトゥス先生が琉大に来るまで、作品をあんまり発表してないし…。

 

(町田)なかなか作品が発表しづらいとか、できない時期が…

 

(永津)うーんとね、そういうことではなかった。この時期、僕は個人的に制作より研究の方にシフトしちゃったので…。だから95年に、僕は研修に行ってるんです、愛知の芸大に。
愛知の芸大でそういう理論系のことが勉強できる訳じゃなくて、自分で資料を集めるために…。実家から通えて便利だったから愛知芸大に行って、ほぼ図書館にいました。
自分でそれまで考えてたことを文章にまとめたいなというのがあって。もともと僕は学生、院生の頃に、絵しか描いてなかったから、さっき絵バカと言ったけれど、論文の書き方を全く知らなかったんですね。それまでは新聞などにエッセイっぽいことを書く位のことしかしてなかったんで、さぁ論文を書くぞと思ったら、結局5年くらいかかったんですよね。86年頃から漠然と考えていたことを95年頃に論文にしようと思い、実際それを形にできたのは2000年ですから。だからその間は、なんか個展を自分でやるっていうふうになかなかなれなかったんで、ちょうどその時期です。
そこに、ちょうどティトゥス先生が来てくれたことによって、もう一回、制作について意欲的にできるように…、まぁそこで文章も作品の一部になったということもあるんですけども。そこでもう一回仕切り直した感じ…

 

■匠が残したもの
(仲宗根)再度「匠」について聞きたいのですが、その頃「匠」は先鋭集団みたいな感じだったんですか?

 

(永津)そういう意識は、少なくとも僕にはなかったんですけど、どうなんだろう?

 

(町田)この画廊匠企画展データの右欄は、執筆者ですか?

 

(永津)そうです、執筆者です。ほとんど翁長さんですよね。
研究生展の時は、うちの卒業生だったので、僕が最初書いて、奥田先生が書いて、本当に短い文章で…。だから、安谷屋美佐子さんの時かな、初めて、僕が少しまとまった文章を書いたのは…。たぶん僕が安谷屋さんを推薦して、公開制作したいっていう話だったので、書いたんじゃないかなと思うんですけど。
まぁちょうど岡崎乾二郎さんが87年6月にやってて、5月のグループ展で1年の総括的な文章を書き、次の月、岡崎さんについての文章を書いて、翁長さんが疲れたんだろうな…。7月は奥田さん自分で書いてるでしょ? やっぱり、ちょっとお疲れだったのかな。(笑)

 

(町田)だから山内盛博さんも一回書かれてるんですね。
あと県外の作家で、岡崎乾二郎さんがいるのですが、どんな経由で展覧会を開くことになったんですか?

 

(永津)実は、岡崎さんは、翁長さんと旧友なんです。岡崎さんが高校生の頃から知ってるらしい。

 

(町田)じゃあ翁長さんのほうから声掛けたんですね。

 

(永津)そうですね、二年目に入るので、なんか今までとは違う企画したいねって話をしていて、それで、岡崎さんやってもいいよっていう話になったんじゃないかな。この時は、琉大の2階にあった視聴覚室で講演会もしてもらって、とても良い話をしてもらいました。実は僕、ここでの話を今も授業のネタで使っています。

 

(町田)それではこの辺で、今日はありがとうございました。

聞き手町田恵美、阪田清子、仲宗根香織
収録日2018年9月2日