Interview アートに関わる様々な方へのインタビュー記録

石垣克子

前島アートセンター

Profile

美術家・sksk主宰、沖縄県立芸術大学非常勤講師

ホワイトキューブから外に出る

 

 

仲宗根:石垣さんが前島アートセンターに関わるきっかけについて教えていただけますか。

 

石垣:まずは、前島アートセンターができる前に欠かすことのできない、前島三丁目ストリートミュージアムというアートイベントがありましたのでそのお話から始めます。前田比呂也さんから、高砂ビルというビルを使って、前島三丁目ストリートミュージアムというアート展を開催するから出してみませんか?という依頼があったと思うんです。その当時、私が初めて個展を行なったのが98年で、2〜3年個展を続けていたのですが、ギャラリーで展覧会を行うと来る人が限られているから、街中で展示してみたいという欲求が私の中にすごくあったんです。前田さんから依頼があった時が2000年だったので、自分の絵をギャラリーとは違う場所に展示してみたらどう見えるんだろうという思いがあったので、「はい」と返事して参加することにしました。

仲宗根:前島三丁目ストリートミュージアムとはどのようなアートイベントだったのですか?

 

石垣:ストリートというより、高砂ビルの上階にあった中華料理店「高砂」を片付けて、そこでグループ展をすることになりました。宮城潤さん、私、石膏版画の普天間朝子さんの三人ともう一人いました。

 

宮城:画家の宜保朝子さんや美術家の阪田清子さんも一緒に参加されていましたか?

 

石垣:宜保朝子さんは階下の部屋でグループ展に参加されていたと思います。
阪田さんはこの前島三丁目ストリートミュージアムには参加されていませんでした。最初に出会ったのは豊永盛人さんや、宮城光男さんだったと思います。もう一人、ヒロカネフミさんも宜保さんたちと一緒に展示されていたと思います。
画家の齋悠記さんが踊り場で線画を描いていたのかもしれません。

 

仲宗根:前島三丁目ストリートミュージアムに参加されて石垣さん自身の実感や周りの反響などはいかがでしたか?

 

石垣:参加した時、畳の座敷の部屋に作品を大きくドンドンドンっと展示したのですが、叱られたりもしたよ。

 

仲宗根:どうしてですか?

 

石垣:真喜志勉先生だったと思いますが、「そういうところに絵を展示するなんて」というように言われました。その当時は、畳の部屋に展示することは悪いのかなって思ったりしました。今考えると、真喜志先生がホワイトキューブでの展示にこだわる方だったのかと思います。ですが、当時の沖縄にはホワイトキューブのような展示場所がないので、もし「お店や街中で絵を展示するとどうなるのだろうか」と、ギャラリーで展示することとは違うことだと思っていました。
あとは大阪から来てるギャラリーの方が作品を見てくれて、前島三丁目ストリートミュージアム展示後に大阪でグループ展をすることになったので、沖縄から県外への繋がりが作れたような気がします。

 

仲宗根:石垣さん自身も前島三丁目ストリートミュージアム前はホワイトキューブのようなところで展示をしてて、もう少し大衆的な、多くの人が集まる場所に展示したいという思いもあったのですか?

 

石垣:そうですね。公募展の県展や「あけみお展」、沖展にも出展してみたことはあります。りゅう石美術賞も96年と98年に入選して、「あけみお展」は98年に大賞をいただいたので、ホワイトキューブでの展示はもういいかな、と思っていました。2000年以前は自分のスタイルがまだ決まっていない頃で、自分で自分の作品についてこれで良いのかなといろいろ考えていました。描いてはみたけれど、作品についての評価までは至らないのです。
だから、いつも展示に参加して自分の積み重ね、データを増やしていくような感覚で、経験値をまず増やしていかないと、本当にどこで何をしていいのか分からないというのが実際のところでした。

 

仲宗根:これが2000年代初期の頃ですね?

 

石垣:2000年代の始まりで、前島三丁目ストリートミュージアムがホワイトキューブを出ての展示のスタートでした。
だけど、その後前島アートセンターができたと聞いても、そこに参加することに少し距離を置いてました。2002年に「wanakio2002」というアートイベントがあった時は参加しましたが、2001年には参加しませんでした。
展覧会に参加し続けていると、今度は、絵が描けなくなってしまって、私には絵を描く時間が必要だと気づいたんです。そのためには、前島アートセンターとは距離をとって、まずは制作に専念しようと思いました。

 

仲宗根:wanakioに参加して、新しい展示方法を開拓されたと思いますが、どのような印象でしたか?

 

石垣:wanakio2002・2003・2005に参加していて、野外でアートをする意味、人と交流して作品を作るということを、他の作家の作品を見ながら学んでいったような気がします。
出会いによって次に活かされることや、良い意見ばかりではないから、良い方ではない意見で、次を考えることというように、常に次はどうしようとか、前はこうだったから、こういうふうにできたから次は違うようにしようと、そのようにして現場で考えてやっていました。
でも、沖縄以外の地域ではそのように野外で開催する地域のアートは、随分前からあったんです。90年代から、県外では地域のアートは発展していて、県外で活動している方たちが前島アートセンターに来て、初めて地域とアートの活動を私たちが知ったり、出かけて行ったりして、繋がりができました。だから前島アートセンターが県外とのパイプ役、繋ぐ役でした。

 

仲宗根:石垣さんは前島アートセンターの理事にいつ入ったのですか?

 

石垣:理事に入ったのは、2008年からです。前島アートセンターの理事になる前に、2008年に沖縄市で「アノコザ」というアート展を開催して、私が実行委員長を務めたんです。それは裏方を知るということが私にとって、このプロジェクトの一つの意義でした。「アノコザ」は一度きりのアート展でした。「アノコザ」で一度裏方を体験した後、前島アートセンターの理事に空きが出たから、理事にならないかと話が来たので理事になることになりました。ですが、最初はちょっと、協調性がなかったなと今になって思います(笑)。

 

仲宗根:石垣さんがですか?

 

石垣:はい。色々ありましたよね。楽しくはあんまりなかったですかね。
運営をもう少し楽しく前向きにできるはずなのに、どうして徐々に後ろ向きになっていくのかなと思っていましたが、抗えない何か理由がありました。私は外との繋がりを前島アートセンターによって作ったり見たりもしたので、他にもこのように外との繋がりが必要なアーティストがいるから、前島アートセンターは必要じゃないかとずっと言い続けていました。でも前島アートセンターが無くなった後で次のグループや世代が出てきて、それぞれ芽が出てきて、動き出すという流れがあった。前島アートセンターが解散する前の最後の方で私と少し関わった人達が、やはりその活動を今も実行しつつあるとは思うんですが、前島アートセンターが解散したことはもったいないと実はずっと思っているんです。あり続けていたら、今はまたどのような動きや組織になっていたのかなと考えます。

 

仲宗根:もったいないというのは、2000年代の沖縄におけるアートが前島アートセンターがあることによって、もっと盛り上がっただろうということですか?

 

石垣:そうですね。前島アートセンターが「地域」と「アート」と謳いながらも、やはり現代アートが沖縄の中で広がる、発展するセンターになったのかなと思います。
地域とアートの関わりだけじゃなくて、アートを沖縄の中で広げるということを思いつつ継続するっていうことですよね。それが途切れてしまったら、繋がりや次の場所がないから、人が代わったとしても続ける方法はなかったのかなと。前島アートセンターでもコザでも少しやり残しのような気分があったのか、私のアトリエのskskでもグループ展をやったりしましたが、やはりアートセンター化はできず、自分の仕事に戻っていくみたいなところはあります。

 

仲宗根:前島アートセンターがあることによって、沖縄の美術が活発化されたことが、成果としてあるのでしょうか?

 

石垣:あると思いますね。現代アートの中では県外からは、沖縄に行けば前島アートセンターがあるからと人が訪ねて来て、繋がりができるというようになっていました。だから今はそういう行き場がなくなったような気がします。県外のアート関係者は、今はどこに行ってみようかな?と考えるのではないでしょうか。沖縄県立博物館・美術館はあるけど、行っても資料があるだけですから。そこにいたら誰かが来るという公な場所が今はない。全て受けることはできなかったかもしれないけれども、いろいろなことがあれば、さまざまな新しいことがまたできたかなと思います。前島アートセンターは巣みたいなものだから、現在場所が無いということはやはり、人が集まりづらいだろうなとは思います。

 

石垣克子

 

前島アートセンターでの展示

 

仲宗根:前島アートセンターに関わる中で、一番思い出に残っていることとかありますか?

 

石垣:2006年に前島アートセンターで10日間ぐらい個展をして、会期中、絵画とコルクのワークショップも行いました。
前年の2005年のwanakioに参加した時に、國吉宏昭さんの紹介で、あるホテルにコルクをもらいに行ったら、ゴミ袋2つ分ぐらいもらいました。そのコルクが溜まったので、使い道をどうしようか考えて、指人形を作ることにしました。それで夏休みに個展をしてコルク指人形のワークショップをしました。ちょうど当時、壺屋児童館の絵画講師もやっていたので、毎日ワークショップを行って、児童館に来ていた生徒さんやお母さんたちが紹介してくれて多くの人が来てくれました。コルク指人形を作った後に歌を歌ったりして、その時のことは忘れられませんね。
それと、wanakio2005に参加した時、高砂ビルのゴミ置場を会場にしてストリートミュージアムにしたんです。コルクは小さいけれど、会場のゴミ置場が大きい。それでそのゴミ置場を掃除して、壁に絵を描かせてもらって、ベニヤ板を敷いて、ペンキを塗って展示会場にしました。会期中は、飲み会があったり、山城幸雄さんと夜中にラーメンを出前でとって食べたということも忘れられない思い出の1つですね。

 

宮城:高砂ビルと隣の建物の間に、とても小さな隙間があって、そこがゴミ置場になっていたんですよね。本当に部屋みたいな展示空間になったんじゃないでしょうか?

 

石垣:屋根が金網になっていて、小屋になっているから上からも入ることができないゴミ置場になってましたね。

 

宮城:カラスが入らないようになっていたんですよね。そのゴミ置場を掃除したんですよね。

 

石垣:なんか、そういう隙間で、じっとしていたい気分だったんですよ。
だから、壁画のタイトルも『待てば海路の日和あり』というタイトルで、黄色い人があやとりをしているっていう絵だったんです。
いつも自分の置かれている状態を作品にしています。その隙間になっている空間で頭を冷やそうと、なんか風が、隙間風が入ってというような感じで。

 

仲宗根:なんか気持ちよさそうですね。

 

石垣:私はいつも振り返ってばかりだったわけです。あったことに対してずっと振り返ってきた。
それでどうしようかな?といつも心配したり。コルクをみんなに預けて、写真を撮って来てもらったりして作品自体は動いているけど、私はいつも振り返ってばかりいる。ゴミ置場を使う動機としてこの場所に惹かれた理由は、作品と展示場所がどのように反響し合うのか。ゴミ置き場をゴミ置き場じゃないように見せるとか。
それがwanakioの、今まであった価値観をひっくり返す意味だったと思っています。
知ってる人にとってはゴミ置場だけど、ただのゴミ置き場じゃないという。遊ぶのかアートなのか、どっちなんだろう?と遊びとアートの狭間を考えるみたいな感じでやってたりしました。
2003年にwanakioに参加した時に、日掛けでお金を貸せる人、セールスというか、営業の人が回ってきたことも覚えています。「人はみんな時間に追われているのに、あなたは時間を潰してなんかやってる」みたいなこと言われました。おそらくいい意味で言ったのだと思います。なんかそういう言葉が忘れられなかったりして(笑)自分達がやっていることを否定するわけではなく、ただアーティーストは自分のやってることで時間を使う。
記憶が遠いから、あまりはっきり思い出せないけど、そういう出会いもあったりしました。
アート関係の人もいろいろ言うけど、やはり、初めて通って、作品を見た人の感想が頭に残ってたりとか、いろんなエッセンスになりますね。繰り返し、ずっと忘れられないような感覚は残っています。

 

仲宗根:wanakioに参加した後はどのような活動をされていたのですか?

 

宮城:S-AIRというアーティストレジデンスありましたよね?
前島アートセンターからの派遣という形ですか?

 

石垣:はい。あの時はwanakio2005の前年の夏に話があって、やはり沖縄から外に出ていきたかったんです。その時どうやって県外へ行こうかと考えていました。栄町で壁画を描いたころだったと思いますが、その壁画を見ていただいて、じゃあレジデンスしましょうという話になりました。それまで家から離れたことがなかったんですが、初めて二週間ぐらい離れましたね。2005年のことです。
札幌にあるS-AIRでも体験したことはやはり忘れられないことでした。それは、札幌と沖縄を拠点とするアーティストの交換留学のようなプログラムでした。
小学校跡の旧「曙小学校」をアートセンターにしてて、そこの保健室で子供たちとワークショップをやって発表して、宿に帰るという流れで、宿泊部屋がちゃんと準備されてて、そこで寝起きしてました。北海道に行ったら、扇風機がなくて、風がほしいって思いました。自転車乗ったり、すごい思い出深いですよ。

 

アノコザについて

 

仲宗根:先ほどお話にあった2008年に沖縄市で開催されたアートイベントの「アノコザ」はどういう流れで実行委員長になったんですか?

 

石垣:2006年に前島アートセンターに「コザで中村政人さんがキャッチ&リリースというワークショップをやります」というチラシが貼られてたんです。
そのチラシには「アーティストのスキルアップもできます」とも書いてあったので、映像?写真?のスキルアップかなと思って行ってみました。
コザに行ってから、コザはすごいなと思いました。自分の持っているカメラは普通のデジタルカメラでしたが、中村さんが大きなカメラ貸してくれて、「わぁーすごい!一眼!」と感動したり。大きなビデオを貸してくれて、祭りの写真を撮ったり、映像を撮ったりしました。その時撮った映像を編集して、コリンザの劇場で上演会をしました。翌年の2007年にも「キャッチ&リリース」が開催されました。2007年に参加した時には、「アート展を開催する」という目的のワークショップになってました。アート展をやろうということで実行委員が集まって、アーティストじゃない方もいました。街中で開催するアート展を企画してその裏方のことなども知ろうということで、何回か話し合っているうちに実行委員長になりました。前島アートセンター主催で、アノコザ実行委員という形でした。最後には冊子まで作り、そこでは中村政人さんはもちろん、今は東京都千代田区にある「3331 Arts Chiyoda」で活躍している宍戸遊美さんが実行委員の事務局として沖縄に滞在して様々なサポートをしてくれました。私は作品を作りながら、誰かがならないといけなかったから実行委員長をしましたが、みんなで共同で空き店舗で展覧会を開催しました。

 

仲宗根:アーティストは何人ぐらいいたんですか?

 

石垣:10人以上はいたかもしれません。

 

宮城:ワークショップとかやっていましたよね?

 

石垣:はい。ワークショップもやってました。

 

仲宗根:アノコザをやって、どうでした?地域が変わったとか、何か変化はありましたか?

 

石垣:アンケートを取っていた人がいたんですけど、その結果は、だいたい「地域にアートはあまりいらない」というような結果だったようです。結果が良くなかったみたいで、2回目はやらないと最初から決めていました。
ただ、私が2008年開催されたアノコザ以降もコザにいようと思ってました。それはちょうどアノコザの展示会場のひとつを引き続き使うから、管理人が必要ということと、私がアトリエを探してたという理由がありました。今のアトリエの隣の建物の2階に引っ越してきて、3階はZスペースというイベントスペースでした。コンクリートキャンプみたいなレジデンススペースをレンタルしてて、川口隆夫さんがパフォーマンスをしたり、グループ展や上映会が開催されたりしてました。あとは、テントで何名かレジデンスしたアーティストもいました。

 

仲宗根:Zスペースも克子さんが運営してたんですか?

 

石垣:吉浜聡くんが窓口になって運営してました。最初私がアノコザの実行委員長やってたんですが、黄金町バザールへレジデンスに行くことになり、委員長を吉浜聡くんにバトンタッチしました。

 

仲宗根:2008年のアノコザ以降に、前島アートセンターの理事にもなったということですね。

 

石垣:そうです。前島アートセンターの理事になった当時、wanakio2008をやりましょうということになっていました。それで、その準備が始まって、ずいぶん早くから合宿したりして張り切っていました。
私も仕事を辞めたりとか、黄金町バザールに行って少し長い滞在をしたりとかでバタバタしてました。wanakio2008の実行委員なのに、作品プラン出したから叱られましたね。「実行委員なのに作品プラン出すんですか?」というようなことを言われて、「えっ、だめなの?」とびっくりしましたね。

 

宮城:石垣さんが自分で作品制作のプランを出して、実行委員のご自身で選考するからでしょうか?

 

石垣:そうですね。私そこまで考えてなかったんですよね(笑)今気がつきました(笑)一緒に皆やるもんじゃないの?って思って。でも今は思う。やはり無理ですね。(笑)
実行委員は実行委員として、外部から来るアーティストの審査もするから役割を果たさないといけないですね。作品制作までは厳しいな、と今は思うけど、でも当時はやれないことはないんじゃないかって(笑)

 

仲宗根:wanakioのイベントを通じて、どうでしたか?運営をしていた時はバタバタでしたか?

 

石垣:バタバタでしたね。私はやはり自分自身がとんちんかんだったと思います。その時期は、どこがどうなっているか、何をやってるのか自分であんまり分かってなかったかもしれません。運営側皆で分担してるから全体が見渡せないこともあるし、作家として自分が絵を見たいという思いもたくさん出てくるし、それをどういうふうにして…うまく整理ができなかった。今なら大丈夫だと思うけど…遅いですね(笑)
やはり経験不足なところがいっぱいあるなと思いました。やらなきゃいけないということばかりで、実行委員の方より作ったほうが絶対いいと思ってた(笑)

 

仲宗根:でもそれが良かったんでしょうか?全員プロフェッショナルじゃなくて、訳分からないけどやらないと!というような、若い世代の当たって砕けろのような雰囲気がうまく回ったというか。

 

石垣:皆同じような人ではなかったから。チャンプルーみたいな感じだったから(笑)
いろいろな衝突などあったけど、真剣だったからそういうことも起こるんだなぁと今は思うんですよ。あの大変な状況で、延々と話して、時間が経つのも分からずというような状態でした。全員が熱かったから、青春だったかもしれない(笑)一体何の青春か分からないけど、結構熱く真剣にやってたと思います。

 

仲宗根:全員が沖縄の美術を盛り上げたいとか、地域をどうにかしたいとか、そういう思いがあったのでしょうか?

 

石垣:地域をどうにかしたいという思いは、全然なかったかもしれません。
全然なかったわけではないけど、一人一人の思いは分からないですね。

 

仲宗根:克子さん自身はどうでしたか?

 

石垣:そうですね、難しいですね。これをやって、どうなるんだろうというより、そのあとが大事かもとも思ったりして、やりっぱなしじゃなくて、継続して何か繋がっていけばいいのかなという…。難しい。
きっと、やること自体で盛り上がることにはなるんですよね。そしたらそこで旬な人たちが集まってくるから、その舞台があるから、新しい作品とか新しいことにチャレンジできるんですよ。そこで結果とか成果を求めるんじゃなくて、その過程、それが行われること自体が全部栄養になる。
地域の人たちは、特別にアーティストが来ても、日常の何か変わったこと、お祭り的なこととしか捉えないんじゃないでしょうか。だから何かイベントが過ぎたら、地域の人たちにとっては「あぁ、楽しかったね」と言うぐらいなんだけど、アーティストにとっては、すっごい思い出があるんですよね。ギャップもあるかもしれませんね。

 

仲宗根:今、中心となるアートセンターはないけど、この2、3年ぐらい県芸の学生や卒業生たちがアトリエやイベントスペースを自分たちで作ったりしてて、すごいことだと思うんですけど、そういう動きは前島アートセンターからの流れを引き継いでいるんでしょうか?現在活動している若いアーティストの方々は、前島アートセンターを見たことすらないと思いますが。

 

石垣:そういう中心となるアートセンターやスペースがないから、自分たちで作ろうという動きがあると思います。そのスペースが顔になって、そして今の人たちとまた繋がるんじゃないでしょうか。
今当時のスタッフがもう一度前島アートセンターを作ったとしてもたぶん平均年齢が50歳過ぎると思うんですよ(笑)。自分たちはまだまだと思っても、平均年齢がたぶんめっちゃ高い。20代、30代のアーティストがたくさんいますが、その人たちは自分たちの活動する場所が必要じゃないですか。
上から、作りますから、作りましたから来てください、ではなくて、自分たちですでに作っている。でも自分たちの世代だけじゃなくて、もっと上の世代やもっと下の世代が一緒になれるような違う場所も必要なんじゃないかと。
住み分けではないけど、やはり似ているようなところにあるギャラリーには、似たような感じの人しか行かないっていうこと…ありますよね?そういうのじゃなくて、いろんな人が集えるような場所は、アートセンターっていうものとしてあった方がいいのかもしれないと思う。個人のアトリエでも続けるにはいいと思うんですけど、でもあくまでも個人ですからね。

 

アートを教えること

 

仲宗根:沖縄県立芸術大学の講師もされていて、教えることが、石垣さんのアーティストとしての栄養になることもありますか?

 

石垣:今年で6年目になりますが、気付くことは多いですね。中学生と高校生にずっと教えてたんですけど、大学生に対しては専門性のような部分を教えるにはどうしたらいいかと考えます。ちょっとハードルが高いと学生が感じたら、私がそれなりに頑張らないといけないかもしれない。
今同じ課題をずっとやっているんです。フィールドワークをして、写真をたくさん撮ってきて、その写真をもとにデッサンと水彩を描く。そしてそのデッサンと水彩を描く間に、ドローイングのワークショップを授業の間に入れて、最終的に冊子を作って提出という課題です。
編集作業、見つける、選ぶ、まとめるということを、水彩とドローイングの授業にも関わらず組み入れているんですよ。絵画の学生さんだったら違うことを考えるけど、芸術学の学生さんだからきっと文章はたくさん書きますよね。資料なども探さないといけない。多くの文献を見てるけど、でも見るだけじゃダメで、多分外に出るフィールドワークも必要になってくるのかなと思って。
足元を見るために足元の写真を撮るんです。地面の写真を撮ってきて、平面を描いていく。奥行きを作らなくていいから、見たまま描けばいいことにはしています。

 

仲宗根:学生の特徴が変わってきたりとかはあるんですか?

 

石垣:学年によって変わりますね。
美術科、美術系の高校を出た人が多い学年や、まったく絵を描いたことがないという、美術の授業がなかったという人もいたりして、バラバラです。
バラバラはバラバラなりにそれぞれ、尊重しあいながらやっていて、だいたいずっと教室にいて描いてるんですよ(笑)。私はいなくていいのかなって思いながら、でも私も一緒に絵を描いてるんです。私がいるということが大事なのかなと思って。学生たちの将来が楽しみで、描いてる様子を見ることも面白いですね。

 

石垣克子

 

自分のアトリエを構えること

 

仲宗根:克子さんが、初めてご自身のアトリエを構えたのは、Zスペースの下の階で開いていたスペースですか?

 

石垣:Zスペースの下にアトリエ絵画というギャラリーをやってました。
名前はつけてないけど、その前は2000年から2007年終わりぐらいまで繁多川でアトリエを構えてて、その前は若狭に持ってました。
卒業してからすぐ友達とグランドキャッスル(現ダブルツリーbyヒルトン那覇首里城)近くのアパートの3階でアトリエを持っていて、2年ぐらいやってました。私は、アトリエが必要だと思って一生懸命探して、最初は水道しかないところで、次に借りたところはちゃんと水道とトイレがあって(笑)
最初の頃と今とで家賃は大幅に上がってはないんですよ。最初からギリギリのところで、そして恵まれたところにいるから。出て行けと言われるまではやるのかなとか、そもそも出て行けって言われないか(笑)
次のタイミングが来るまではここで続けようかなと思います。

 

仲宗根:沖縄市のここ(sksk)が、一番長いですか?

 

石垣:いえ、繁多川のアトリエが7年で一番長かったですかね。ここは今6年目で、一つの場所に10年はいないかな。場所的にZスペースの下とこのskskで10年ですね。

 

仲宗根:やはり沖縄市の方が居心地いいんですか?家賃が安いとかですか?

 

石垣:はい、それだけです(笑)。
一時期、飛行機の音がうるさくて神経質になってたことがあります。うるさい時期があったんですよ。冬とか戦闘機の音が大きくて。最近は静かなんだけどね、一時期はうるさかったですね。

 

宮城:skskがあるエリアの上が戦闘機の飛行ルートなんですか?

 

石垣:戦闘機のルートは違う方向で、ここの上を飛ぶのは小型の飛行機です。たまに揺れたりしたこともあるんです。アーケードの上から飛行機の顔が見えたりとかで、上空を通っているのが分かるんですよ。なんで飛ぶかな?と思いましたが、そういうことはコザに来てから最近よく思うんです。なぜか来た当初の時はあんまり気がつかなかったんですね。
のほほんとしてたかもしれないし、周りを見る余裕がなかったのかもしれないけど。

 

仲宗根:skskは、いろいろなイベントをやって人が集まる場所にもなってますね。

 

石垣:人が集まる場所にしようと思って、ここを借り受けたんですけど、なかなか、人が集まれないですよね。
最初のプランでは、展示をする場合、交代制でスタッフがいて、イベントで運営費を集めてとか考えてました。アートセンターみたいなことを考えてはいたけど、なかなかできないですね。
ここで思ったのは、絵描きだから、絵を描かないと先にも後にも進めない。今になって、私はやはり絵を描きたかったんだなと思ってます。それも、やはり時間が必要だから、こもれるタイミングというか、こもらないといけない。うん、こもってた。(笑)

 

仲宗根:ここはいいこもり場という感じですか?

 

石垣:そうですね。シャッターを閉めれば。(笑)最近シャッターを閉めてないと、誰かが来るんですよ。
今日も青年が一人来たんですが、顔見てもいきなり思い出せないんです。

 

仲宗根:知り合いだったんですか?

 

石垣:知り合いだったんですよ。こもってるから、知り合いが来ても、全然思い出せない。
同級生が来ても、一瞬はっ!とびっくりする。ここになんでいるの?みたいな感じで。(笑)個展のときも、相手は私のこと知っているから、話したいと来てて、はー、あー、どなたでしたっけ?となるんです。もう今は聞くことにしているんですよ。失礼ですが、名前見ても思い出せない場合もあるから、名前は知らないけど顔だけ知っている人に対して、覚えるようにしますとか言って。

 

宮城:一度しか会わなかったら、仕方ないですね。

 

石垣:でも相手は覚えてるからねぇ(笑)
最近は、時々、私が教えた生徒さんも来ますね。

 

仲宗根:私は勝手に、石垣さんは沖縄市出身の方だと思ってました。沖縄市の中にあるskskで、地域にどっぷり浸かってるのかなと思ってました。

 

石垣:どっぷりは浸かれないですね。最近やっと慣れてきて、アーケードを通って商店街の方が挨拶はしてくれますが、やはりそれにも10年ぐらいかかるのかなぁと。
ここの場所に6年いても、「え?こんなところにギャラリーがあったんですか?ずっとここの前を通ってるけど気づかなかった」という人もいて。そんなもんなんですよね。ちょっと看板の絵を描いてみたり、「アート」と書いてみたり、人はすごい見ていって、写真を撮る人もいるけど、それだけだったりとかするんです。あまり大っぴらにはできなかったんだけど、今年からは少しオープンに、積極的に発信していこうと思っています。「発信」という意味は、待つばかりではなく、自分からPRしていかないといけない。「そこそこに」というのがポイントなんですよね。時間が無くなって描けなくなったら終わりだから。
昔からそういうことがあったんですよ。だから前島アートセンターも遠巻きに見てて、行く時間と制作する時間を計算するんですよ。そうやってると不自由だなぁと思いましたが、行ったら、そこでの出会いがまたあとでどっかで繋がったりして、そういうこともあるから面白いですね。

 

仲宗根:ちなみに、skskってどういう意味なんですか?

 

石垣:skでスペースコザにしようかなと思って。skはSpace Kozaの略でしたが、
ワンズルームギャラリーの佐藤君に、名前を付けるときに聞きに行ったら、「二つ重ねたら可愛いと思う。」って言われて、じゃあskskにしようみたいな感じで決めました。「エスケーエスケー」じゃあ「スペースコザ」と「スペース克子」だと言っておこうと思っています。

 

仲宗根:すばらしい!合ってますね!

 

石垣:でもね、エスケーエスケーでスクスクって読めないから、スカスカとか、スケスケとか(笑)名前なんていい加減でしたよ。もっと堅い名前も考えてましたよ。「いちばんしゃ」って。

 

仲宗根:いちばんしゃ、かっこいいですね!

 

宮城:一番街だからですか?

 

石垣:一番街のいちは漢字で、ばんは広げるという意味の「播」、かな。
しゃはどんなだったかな。最初は出版社のイメージだった。堅いなー。結局最後は若者に聞くという(笑)

 

仲宗根:いろんな人との交流があるから、ここが前島アートセンターみたいな感じになるのかなと思っています。

 

石垣:それは私がもっとオープンにしたらなるかもしれない。

 

宮城:やはり6年続けていて、近くにもいくつかスペースありますけど、やはり開けてある場所というと、石垣さんのこのskskだけなのかなって思います。

 

石垣:沖縄市コザのパルミラ通りにあるart gallery soranoeさんも展示のときに時々開けるね。
でも最近デザイナーの人がアトリエを作るためにお店を開けたところがあって、そこはいつもオープンにしてるんだけど、スタジオっていう感じではないですね。

 

宮城:skskは定期的にグループ展や個展をして、そのときに行けば必ず石垣さんにも会えて、アトリエの機能をちゃんと作ってますよね。
割とそのバランスを取りながら長く活動してるところって、あまりないと思うんですよ。アトリエと展示空間を一緒にしてるスペースというのは、那覇でもそれほどないんじゃないんですかね。阪田さんのアトリエぐらいですかね。

 

石垣:そうですね。でも沖縄市にはいっぱいありますね。
どこまで自分がやれるか・・・。個展だから友達の作品の展示を今控えてたりしますが、それも一緒に展示したりして、何だか分からないスペースになっていると思います(笑)
だから、今回の展示は今の状況を見渡せる風景のようなイメージで「Scenery」というタイトルを付けました。それとやはり販売を目的にしているところもあります。目的というか、skskを開かないと販売できないし、お客さんにも買うチャンスを作るというか。どんなお客さんが買いに来るか分からないけど、とにかく絵が買える場所ですね。
確実にいつも販売はしてるんですが、買っていただけるタイミングって個展か、ギャラリーがオープンになっているときに買っていただくことが多いですよ。絵が欲しいというときにはわざわざ来てもらえますけど、そういう機会は滅多にないので。ギャラリーがオープンしてて、個展というスタイルはやはりやらないと、どうしようもない。
実は、なにか考えてスタジオを開いているんですよね。
だから作品を見せたいというときは、その時々でのやり方があるけれど、生活の中心を作品制作にしようとすることには、いろいろな波がありますからね。制作を続けられるようにと色々工夫して、ギャラリーをオープンにするという理由もあります。
だらだらオープンしているときもありますが、やはりちゃんと「個展」と名前をつけて、お客さんに「来なくても今こんな感じです」とお知らせすることは大事なことかなと思っています。そうすれば誰かが、またタイミング合えば来てくれますよね。
そこまでちゃんと頑張らないと成果はないなと思っています。制作することを削るというか、制作とは別にPR活動にも専念しなきゃいけないなと。
一人だけではなく、周りの人と一緒に動けたらもう少し楽ではあるかもしれませんね。まだまだ一人でPR活動もやらなきゃいけないんだけど、結局来たい人が来たらいいさーね(笑)自分だってそうしてるし。
展示やイベントに行きたいけど、時間とか他にもいろいろ考えたら行けないな、と。でも今はやはり決めてから動かないといけないと思っています。若い時はほろほろいっぱい行ってましたけどね。それだけ若いころは時間がゆるかったのかな?
いろいろな展示を廻ってましたけど、制作のスピードが遅かったのかな?
今は、絵を描くモードに変えたらいっぱい描けて、やはり前と変わってるなと思って。進歩してると思いながら描いてるけど、そのモードを保っていきながら絵を描いたら、全然気持ちとは関係なく絵をどんどん描いているみたいな感じです。
あ、大丈夫だな。スタートしたら、もうそれでいけばいいんだ。後で迷うことはない、というか。最後までGOだ!っと。GO!GO!GO!って進んでいくうちに、あ、絵ができたみたいになってるんだなと今は思います。頭でガチガチに考えてやるとかではない。

 

仲宗根:それは、今ようやく、リラックスして制作できてるということですか?

 

石垣:今までの結果を思えば、リラックスして制作した時の作品が、結構いいものだから。
やんなきゃ!じゃなくて、やりたくなるまで時間を待ってる。無駄に待ってるみたいな気もするけど、そうしないとやっぱりダメだな、ダメになるなと。絵はできるけど、その工程が、ぐちゃぐちゃだったりする。
ぐちゃぐちゃな過程でもちゃんとフィニッシュするんだと、描いてからじゃないと分からない。
若い時は描きっぱなし、やりっぱなしで、これほんとにいいのかな?と思いながら描いていた。でもあれを今描いてと言われても描けないですし、若い時の経験は貴重ですね。進むから、これで終わりじゃないから描く。途中だけど、もっと先を考えてやるために、自分のアトリエで展示をやってるんだということが大事です。というように、skskには、自分のコンセプトがあるからOKなんですよ。これは一般のギャラリーではできませんので。

 

前島アートセンターのその後

 

仲宗根:最後に、2011年に前島アートセンターが終わった時とその後の沖縄のアートの状況をどう見ていますか?

 

石垣:もったいないと思いましたが、でも多数決です(笑)
理事の人たちも、皆がもう終わらせた方がいいっていうことだったと思う。じゃあ最後の締めをちゃんとやろうと話して、解散シンポジウムをやったんですね。解散シンポジウムの後の始末はできてないんですけど。
でも、そのときのDNAが、今いろいろ動いてるんだと思います。
沖縄だけじゃなくて、本土に帰っても皆がそれなりに自発的に何かを始めているというのは、前島アートセンターがあったから。前島アートセンターに関わったから、何か種が芽生えてて、持ってて、それがあるタイミングで開くみたいなことがあるのかなと思っていて、そういう要素を持ってる人が外に出て行くのでしょう。大学などの学校だけじゃなくて、前島アートセンターみたいなところに、外に出会いやタイミングを求めるみたいな。
だから、当時は、少し堅く考えすぎていたのかもしれないですよね。
もっとアートということを主体に考えれば、運営とかそういうことではなくて、続けられたのかなと。アートセンターなのに、アートが無くなってるみたいなことを当時少し思ったりしてました。どうしてアートの話が出てこないんだろうというように。皆が集まってるのにどうしてこう、申請する、家賃がどうのだの、助成金がどうのとか、そういう話しになったり。始めた頃の運営方法はどうだったんだろうなと逆に思いますよね。
だから、NPOのあり方、皆で支えるというような、皆で一緒に運営するというようなことが、少しずつ見失われていったのかなと思います。それぞれがきつかったのかもしれません。一生懸命関わり過ぎて、それぞれの責任感が重すぎて、たぶんアップアップしたのかもしれません。

 

仲宗根:アートセンターなのにアートが無くなってたという指摘は的を得ている気がします。

 

石垣:当時からよく思ってました、誰かに言ったのかもしれないし、言ってないかもしれないけど、楽しくないよなと。
アートって、楽しいばかりがアートじゃないけど、もっとワクワクするような話が出てこないで、アートセンターと言えるのかなと思っていました。
いや、何か物を作ったり、展示をしたりするときに、真剣に話し合う真剣さはあってもいいけど、当時の前島アートセンターに対する私の印象では、どうするのか、ああするのか、とゆとりがないような感じでした。本来そういう雰囲気ではないはずの人も皆キツくなったりするから、もうちょっと運営の方法を楽にすることはできなかったのかなと思います。今更思ったりするけど、無理だろうなって思っています。(笑)今だから言える。
でも前島アートセンターは理事会のものだけじゃないですからね。アートセンターは皆に開かれていかないといけないものですよね。だから、開かれてたおかげで、私だけじゃなくて何名かの人は、きっといろんなきっかけをもらったと思うんですよ。
その恩だけはやはり感じて、足向けて眠れないですよね。(笑)前島アートセンターは大きな影響力があって、あれがなければここにいないと、たぶんなにかしら恩はあると思います。
でもずっと個展やって、学校で非常勤やって、変わらずみたいな感じですが、前島アートセンターが、多分人生を広げてくれたんですよね。私の中では、前島アートセンターの存在は大きかったし、私自身助かったと思いますね。
だからあの関わった何年かっていうのは、全体的にぼやっと何をしてたか分からないけど、すごい肥やしになっていて、その肥やしがやはり、栄養になっていて、今からだな、と思います。私今からみたいな(笑)イメージはあります。
何年かわーっと集中してやればまた次の展開があるんじゃないか。そういうきっかけを作っていくのも、人が与えてくれるだけじゃなくて、自分で作っていかないといけない。そういうことを前島アートセンターで学んだと思います。コザに来てから、skskも運営しながら学んでいると思います。

 

仲宗根:画家として、アーティストとして、前島アートセンターや地域のアートイベントにどう関わって、どのように感じていたのか、そしてご自身のアトリエskskに対する思いなど、とても良いお話を聞くことができました。ありがとうございました。

高砂ビル:那覇市前島にあった高砂殿というビル。ビルを改装し、前島アートセンターの拠点となった。

聞き手仲宗根香織、宮城未来
収録日2018年9月19日