Interview アートに関わる様々な方へのインタビュー記録

仲本賢

前島アートセンター

Profile

沖縄県立芸術大学教授

■前島アートセンターでの活動

宮城)2000年代の沖縄のアートシーンの調査と記録を大きな題目としていて、その中で仲本先生には前島アートセンター、wanakio、それ以降の解散してから現在までの三つの柱でお話をお伺いしたいと思っています。まず前島アートセンターとの関わりの頃の話をお聞きかせください。

 

仲本)2000年頃に美術館が建つから、その前段階として前島アートセンターをやるという噂を聞いて、僕は発足から一年くらい遅れて何となく関わるようになった。実は最初は声も掛かっていなかった。
二十代最後の年の1998年に沖縄に戻ってきて、沖縄県立芸術大学(以下、沖芸)の人たち中心にやっているんだって羨ましく思って、前島アートセンターを作家として使うことをやっていました。

 

宮城)展示をされていますね、

 

仲本)はい、前島の肖像写真展が最初で。その前はコピーを使って、かっぱえびせんをつくったり、もうひとつは高野生優さんとモデルさん、素人も含めて理容室の繋がりで、高野さんが美人写真を撮っていたので、それと一緒にコラボしましょうということで僕が写真を撮った覚えがある。
そのときには、世代をつなぐ骨格の話を写真でしたいと言って、おじいちゃんと孫とか、お父さんと息子とか、お母さんと娘とか二枚撮って重ねて、ふたつ別々の、同じような場所で同じような服を着て、それともう一枚、三点セットで、もうひとつはピッタリ、親子ってスーパーインポーズ1できるから、骨格、目と鼻の位置が似ているから。そんなことをしたり、それは肖像写真展のきっかけだったと思う。それより来る人全部撮った方がいいよ、となって…

 

町田)いつ頃の話ですか?

 

仲本)2002か、2003年の始まりだったか。その頃に撮った写真が一番最初で、学校のスタジオからストロボ持ち込んで、バンバン撮りました。
その前に僕、1999年に佐敷町でアートムーブメントを起こしたいって渡名喜元俊さんが言って、若手アーティストによる佐敷の文化展示会みたいな企画を向こうの教育委員会と立ち上げました。ひとりあたり百万円の予算を付けて、年に一回展示会をやる。その一番目か二番目かが僕で、途中でなくなってしまいましたが。渡名喜さんが(僕は)写真家だし、村の人を撮るとなると佐敷町は一万人くらいいるから、そこの人たちを主役にしたものとして人型看板を建てた。同じ気持ちで肖像写真が始まっています。
つまり前島の人を主役にしたかった。そしたら前島の人が絶対来るに違いない、この場所でしかできないこと、土地の人が来る。そういうアートイベントというかデザインイベントとしてやっている。それが癖になって、自分の思っている作品つくらなくなって、何かイベントのため、地域のため、それでも作品になってしまったので抜けられない。どっかから声が掛かったら、伊平屋島の人看板もやるし、今度のやんばるアートフェスティバルは喜如嘉の人を50人撮ろうっていうそういう企画でやっています。栄町も二度ほど栄町写真展をしているし、ドイツのミュンヘンの人たちの展示会もしている。
あと空いた時期を狙って、グループ展をしています。ひとつはこれ(後ろに貼ってある写真を指しながら)。応用博物学っていう展示会で、博士になったつもりで、沖縄島内、各地の海岸とか地層が露になったところに行って、そこからいろんなもの拾ってきて、ふたりで妄想の限り分析する。これが恐竜の骨だと仮定すると、だいたいこの辺だな、ということで復元図を描くとか、見つけてきた植物を何て植物で、どんな薬効があってと想像しながら、僕たまたまそのとき宜野座村の博物館の運営、審議員の委員長を10年くらいしていて、そこから展示ケースを借りてきて、自分ができる範囲の本当の展示のようなものをしました。

 

町田)前島アートセンターに理事として関わったのは何年くらいからですか?

 

仲本)始まって2年、3年後、2004、5年じゃないかな。すぐに理事にはなっていないけど。しばらくすると國吉(宏明)さんやら、もちろん宮城(潤)さんとか、ティトゥス(スプリー)先生とかから話を聞いて、「じゃあ入ってください」って言ったときには既に前島アートセンターの活動は始まっていました。どちらかと言うとサポートメンバーのつもりで僕は入っていて、主力メンバーのつもりはなかったです。だから、永津先生がシングルモルトバーをすると言ったら、僕はカクテルバーをしましょうと、追っかけて何かを企画するという。僕のスタンスとしては前島アートセンターに人が集まるような企画をしようと考えていて、だから写真展で人を撮って、それを貼るということだったりをした。お手伝いとは言わないな、サポートするような展覧会を仕上げた、というかつくりました。

 

町田)その後、解散まで?

 

仲本)解散まで。でも主力メンバーじゃない、本当にサポートメンバーの理事で、お金を出しているっていうだけのつもりだったんで。

 

宮城)でもwanakioにはちゃんと参加している。生徒も一緒に。

 

仲本)あんまり寂しいといけないから、穴を埋めるつもりでやっていたし、國吉さんが褒めてくれた企画があって、前島地域のあちこちに小さい神様を置いて、ストリート系ミュージアム、昼間は閉まっているんだけど閉まっている店に小さい神様をつくって、寿司屋に寿司の神様をつくったりして、フィギュアのうまい子がいたから、それを2~30軒つくって、スタンプラリーみたいなのをやりましょう。あくまで前島主体で前島に人が来るための企画をつくったり。

 

宮城)栄町でもストリート系ミュージアムやっていましたよね?

 

仲本)栄町でもやったけど、ちょっと趣旨が変わったんだよね。写真を撮って、パノラマで飾ったりはしていたけど、ああいう積極的なのはなかった。いま美術館ができて支援会をやっているから、美術館と近所のお店をつなぐってことでもう一回神様をやっていて、それも國吉さんが仲本くん、きみのあの手法ここでもう一回やれないかな、って言うからやりますよ、って。リウボウやサンエー、TSUTAYAとかあちこちに寄付を募って、50店舗くらいかな、店をピックアップしてマップをつくって。そこに訪ねて行ったら、神様の葉書をもらえるっていう企画でした。

 

宮城)そこにも学生たちは関わっているんですか。

 

仲本)関わっている。僕はフィギュアつくれないので。学生たちにつくってもらっている。一個、二千円とか三千円とかで、紙粘土で。丈夫にして、ふわふわでない重い紙粘土で。
神様、前島のときはだいたい外だったんだけど、今度は屋内。神様の功能が書いてあって、ここの神様は恋愛を成就してくれるとか、恋愛を成就するのを手伝うとか書いてある。

 

町田)改めてwanakioでの仲本先生の関わりをお聞かせいただけますか?

 

仲本)だいたい、もとから空き店舗を使ってやろうという企画だったので、写真参加か、もしくはちょっとしたイベント的な参加が多いです。さっき言った神様以外には、紙粘土でつくったきのこがあっちこっちに置いていたのもあるし、電信柱に蟻んこを描いたり、あと何したかな?たぶん、僕1、2回出てないと思う。そんなたくさんやった覚えがない。一回にふたつやった覚えもあるから、最初にやったのは山羊看板だと思う。隣にあった山羊屋さんの山羊の看板をおじさんの等身大に切り抜いて、展示したのを覚えている。外におじさん、中に山羊だったと思う。外に山羊とおじさんだったかな?寿司屋さんだったり、そういう人を切り抜いて前島人看板計画をしています。
wanakioは三角公園だったり、そば屋さんだったり。人看板はお店の中と外に一体ずつ飾るとか、神様のシリーズは軒先に飾っていくもので、きのこも勝手に生やすんだけど、海産物屋さんの窓とかお店の外に。とにかく誰かが見に行くためのもの。きのこを見に行ってほしいのではなく、きのこを見にお客さんが入るのを想像してやっている。見に来たお客さんが何も食べもしないで、きのこだけを見に来るんだけど、それが地域にある意味だと思っていて、美術館以外の場所に入っていく、全体が美術館という。そしたら、お店の人も自分の家が美術館だっていう意識が芽生えるだろう、wanakioはそういう企画でした。出たら必ず、外だったから。事件や事故があって人がまわらなくなってしまった街だったからお店をまわらせる為のことをしました。

 

町田)学生にはもちろん手先が器用とか得意ということもあるんですけど、経験として関わってほしいということもありますか?

 

仲本)そういう気持ちもあるけど、押し付けられない。それが彼らの将来にとって繋がるかと言ったら、繋がる可能性もあるけど、無いこともある。僕が儲けているとデザインの仕事になるんだろうけど、儲けてないのを見せているからね。僕が地域の為にやっていること、ボランティアを見せているから、職業訓練とは違う。人間形成の訓練にはなると思うけど、

 

仲本賢

 

■前島アートセンターでのつながり

宮城)他に、参加している作家の方であるとか、他の学部の学生さんとかと仲本先生のゼミの学生さんが関わることで何か刺激を受けたとか、そういう話ってありますか。

 

町田)それこそ、ティトゥスさんは琉球大学(以下、琉大)で、他学の人たちと関わる機会になったかな、と思いますが、

 

仲本)なったね、永津先生と上村先生が僕をビデオやアニメや写真を教える先生として非常勤で学校に呼んでくれたり、いまでもあのふたりの生徒をスカウトして、吉本興業がやっている国際映画祭に呼んだりしているので、人間のつながりは明らかにひろがっている。本来琉大生は、うちの学生じゃないから呼びかけようがないけど琉大の先生方やあと卒業生のつてを頼っているので、僕がwanakioに参加してなかったら、これが出来たかっていうとたぶんできてないと思います。
何人か沖芸の、もちろん宮城くんが筆頭なんだけど、あの年代の人たちがいっぱい参加して山城(知佳子)さんとか、阪田(清子)さんとか、石垣(克子)さんとか。思い付く限りの人たちは前島育ちだよね。前島は何がいいって、ワイルドな生き方を良しとしてくれて、いきなり画廊でデビューしなくても、画廊以外のデビューもありだと。最終的には画廊が付いて、美術館に入ってという流れはあるけど、それを拾ってもらうための活動はしておいた方がいいなってことを教えてくれる。
僕が教えているのはデザインの子たちなので、ちょっとだけ毛色が違うんだよね。すぐに企業や各種団体と結びついた方がいいから、彼らの仕事としてはね。アーティストほど個性が必要なくて、相手の個性を出す、モノをつくる仕事だから。自分の個性を出す仕事ではないから、前島アートセンターではアーティスティックなことで自分の個性を出す人たちの活動を助けてくれたんじゃないかなと。それをサポートしていた感じかな、僕自身残念なのは、サポートにまわって主軸に一回もいなかったなって。カクテルつくる人みたいになってたなぁ。

 

町田)でもカクテルも資金増勢の為で、そこに人が来る場所をつくるってことですよね。

 

仲本)日本全体そうだけど、アートでお金が儲かりづらいんだよね。純粋であればあるほど儲かりづらいので、商売っ気を出したりして。あとプレミアを無意味に付けてみたり、ビジネスとしては、プレミア付けることは必要なんだけども、前島アートセンターにはプレミア感がなかったんだよね。
ここで展示会したから一歩あがるとか、一点プラスとかがなくて、活動を元気にやってますというのは伝わるんだけど、あそこでやりながら、他所で東京とか大阪とか上海とかでやらないと次に繋がらない。いま出てきている人たちを見ればそうだよね、ニューヨークに行ったり、アジアアートに出たり、東京のキュレーターと出会ったり、不思議なことに注目度は高い。
みんな方法が分からなくて、僕、半分純粋に美術館ができるまでと思っていたら、美術館はおとなしいものになっちゃっていた。あんまり奇抜な美術館ではなくなっていて、前島アートセンターは決してやさしくはないよね、場所も建物も。

 

■美術館との関わり

町田)美術館開館のタイミングで、これまで地域の関わりも含めて美術館の支援会happでも理事されていますが、そこではどのような活動をされているのでしょうか?

 

仲本)関わっているんだけど、すべてオーダー。学校の先生が美術館でできることって何だろうとなると教育普及で、教育普及部会の部長になって、美術館って子どもたちが美術の勉強できるところになるといいよねって話をしていたら、美術館、当時指定管理者だった文化の杜共同企業体から、夏にワークショップやってくれませんかっていうからやりたいと言ってやっただけで。

 

町田)子どもがキッズカメラマンとなる写真のプログラムもありましたね、

 

仲本)美術館が地域の公民館みたいになってくれたらいいなって思っていて。前島アートセンターが公民館のようになってほしいというのが僕のずっと願いだったから。実際に子どもたち来ていたでしょ?あれは公民館、または児童館、美術児童館でいいと思っていた。いま宮城くんが公民館でそれをそのままやっていて、前島アートセンターあそこでいいじゃん。何も変わらない、子どもの顔は変わらない。
ただ最初から公民館って言っているのとアートセンターと言うのは違う。アートセンターというと全国のアート集団が注目するから、公民館だと誰も注目しない。日本一活動的な良い公民館はあるけど、アートセンターはないでしょ。そこは狙っていなくて、僕はアートセンターという名の公民館であればいいと思っていたからさ。もちろん大人もいるけど、子どもたちの児童公民館、それがアートの成り立ちとしては一番健全だと思った。

 

■地域に美術が根付くこと

町田)そういった地域と関わっていたことが最近の仕事に繋がっている感じですかね?

 

宮城)伊平屋の方はどういうきっかけがあったんですか?

 

仲本)僕は二十歳くらいの頃に母が地域保健婦で、保健婦さんが地域に出かけて行って三年くらい任期で地域医療ではないけど福祉保健を担っていて、老人や妊婦さんを訪ねていく。今は保健所がやっていて、だいたいの市町村は保健婦を雇って保険事業をやるけど、その頃は沖縄県はまだ地域保健婦という制度があって、保健所に在籍していると各地に駐在所があって寝泊まりして、それで伊平屋島にいたことがあったから、10年振りかに訪ねて行ったら、母親を知っている人がいて、西銘仁正さんっていうおじさんが、伊平屋って稲があって米があるので、案山子祭りがしたいと。それで僕に案山子つくるのを手伝ってほしい、もしくは審査員をしてほしい、と言われて、じゃあやります、案山子つくるのもいいけど、みんなの人看板をつくりたいって言ったらお金を用意してくれて、最初50体つくったのがどんどん増えて最後200体くらいになった。

 

宮城)案山子祭りは毎年されているのですか?

 

仲本)もう6~7回はやってて、それに付随して、案山子祭りの横で人看板やってたんだよね。案山子祭りより人看板の方が人気あったんじゃないかな(笑)そこの人がいるから、みんな見に来るわけよ。幼稚園とか保育園の子たちがおじいちゃんを見に来るわけ。
シルエット見たらおじいちゃんじゃない?って、なんとなく分かる感じ。あとみんなが知っている村長さんとか駐在さんとかは分かるわけよ。毎日見ているから。
同じものをダニエル・ロペスが、自分の生まれたスイスの村ボンフォル(Bonfol)でもやりたいと言って、あれは6~7年越しに出来たんだけど、向こうの人が500万円か用意してくれて、材料費、制作費として向こうの人に切る作業をやってもい500万円を使って、500体切る。僕には残りません(笑)
前島が始まって、前島で僕がこんなふうに育ってしまう前に、こんな人間になる前に、佐敷があって、佐敷でホップステップのホップをしているから、ジャンプが前島なんだよね。今はもうジャンプの後だから、惰性で飛んでるところ、完全に。インターバルで「お願いします、」「はい。」の喜如嘉です。

 

宮城)佐敷や前島アートセンターでやったこととかを伊平屋やスイスとかで思い出すことはあるんですか?

 

仲本)完全に。初めは自分のアートの為にしてたけど、最近はしてない。アートはどうでもよくて、街の人が、村の人が集まって、子どもが遊びに来るから丈夫にしないといけないとか、僕主体じゃなくて向こう主体。集まって来る、公園をつくる造園家のつもりかな。その場所を提供している自分が好きなだけで、別に僕はどうでもいいわけよ。僕の名前どこにもないし。一応オープニングパーティーに呼んでくれるのはうれしいよ、「僕、考えました」って。それ以外は、僕がつくって展示したらもう終わり、あとは向こうのもので片付けるのもお願いって言っているから。自分で片付けに行くって殆どない。

 

町田)それでもご自身の作品ですよね、

 

仲本)ではあるけど、建築家の人、自分がつくったもの作品って思っているかな。あとは住んだ人のものじゃないの?設計図までは自分だけど、作るのは大工さんじゃない?あとは持ち主。やったという気持ち、思い出は残るけど、切り抜いた看板の所有者、僕じゃないから、渡してあるから。スイスに行ったら人看板がお花畑の横に飾られているわけよ。馬とか犬も切ったんだけど、それも庭に。田舎だから庭も大きいしさ、うれしかったな。

 

町田)前島アートセンターが解散して美術館が開館して、沖縄の美術全体の状況といった2000年代の美術について仲本先生はどうお考えですか?

 

仲本)日本人が個人の家で絵を所有したりは無理があるのかなあ。美術家になりたい人がそれを目指して作品をつくり続けるのは基本的に無理があって、ごく一部のお金持ちの人が、窓だけじゃなくて壁もちゃんと持っている人が自分家の為に買いたいっていうのは少ないから、ゼロではないけど。
あと頼りになるのは、美術館とか、公共の施設が買ってくれるといいなとは思っていて、それくらいの人数のアーティストは必要だなと思っているんだけど、それ以外のアーティストはどうしたらいいかというと、僕みたいな仕事とか。僕はそれ以外のアーティストで、個人宅に作品を飾らない、もしくは美術館に収められない人。そういう作業をするか、美術の手法を使って、誰かの為、何か為、何かをする、公民館や児童館をつくったりそういうことをするのがいいのかなあと。

 

町田)美術館に作品を収集されるだけが美術家の仕事ではないですよね?

 

仲本)もうそうではなくなっている。前はそうだったと思うけど、僕の上の世代、70代80代の人たちは。こんなに美術家になりたい人がいる中では、1%でいい、あとの99%はそれ以外の方法で美術に関わった方がいいな。美術の楽しさを教える先生、もしくは自分のシルエットを提供するおじさん?そういう仕事としてあれば、

 

町田)あと参加をすることで作品となるものもあるし、その場所で見せるものもあったりするので、いろんな役割があっていいし、いまそういう動きになっているんだろうなとも思います。

 

仲本)分かりやすい美術のかたちというのはなかなか難しいと思う。僕が、美術館やアートセンターの支援会みたいなことをしているからなかなか中枢に行かないわけよ。自分は、プロデューサーでも作家という位置でもないもんだから。そういう自分の美術の立ち位置はサポーターなんだよね。どう考えても。サポーターという仕事があるかどうかは別として、それを仕事と割り切ってやっているんだよね。アートを使ったサポーターだよね。

 

仲本賢

 

■サポーターの在り方

町田)happや前島においてはそうかもしれないですが、仲本先生、沖芸での教育者という立場があるのかなと思っていて、その辺りはどうですか。

 

仲本)教育者としてもサポーターなんだよね。学生に何かを教えている感じは何もしなくて、何かをやりたいって人、じゃあこうしたらいいよってサポートしかしてないから。究極はね。みんながどんな情報を欲しているかあんまりよく分かってないし、一応やるけど、それが彼らの将来に繋がるとは思えないので、写真家という仕事が必要かどうかも分からないし、僕が写真家のロールモデルではないのよ。写真家として仕事している人を呼んでくるけど、ビジネスはこうだ、食べ物をおいしく見えるにはこうだ、って教えるけど、彼らそこに反応しないし、それはそのうち機械がと思う。

 

町田)仲本先生のこれまでを学生は見ているので、それは何かをおいしく撮る技術ではないと思います。そういう技術的なものが得たいなら大学でなくてもいいんじゃないでしょうか。

 

仲本)彼らが大学にいる理由、僕もそうだけど、そこに大学があるから。無ければ専門学校に行くし、無ければ写真屋さんに弟子入りするよね。たまたまあるんだよね、沖縄県は。もうひとつは、美術館がそうであったように、美術館という名前のものがひとつ上にないと一番トップかは知らないけど、無いとそれ以外のものが成り立たない感じがするので、沖縄県、美術館がない、美術がない、みたいに思っちゃうから。だから沖縄県は芸術大学があるだけで鹿児島県とは違うんですよ。芸術の県になっているよね。もともとそういう素地があるからなんだけど。鹿児島県には武道大学があって、武道の県なんだと思うし、東京とか大都市だと芸大あっておかしくないけど、沖縄県みたいに150万人の県に芸大あるのは変。でもみんなが努力して存在するから、沖縄県は曲がりなりにも芸術の県になっているんだよね。それはいいことだと思う。美術館もあった方がいいし、県立の美術館がある県として。博物館もあった方がいい。僕はそれをサポートしたい。

 

宮城)前島アートセンターしかなかったときもオルタナティブという言い方をされていたんですけど、メインのメインストリームがないのにオルタナティブという言い方で、熱望していたというのもあるんですよね。ひとつの大きな主軸になるし、

 

仲本)批評の対象としてもトップは必要で、大学で教えてないものを私たちはやりたいという人がいないといけないし、美術館ではできないことをやる以外のオルタナティブはあった方がいいし、闘う相手としても主流は必要かも。

 

町田)そういうインフラが整備されていないからこそ自分たちでやるというような動きが出てきたと思っていて、仲本先生が冒頭におっしゃっていた前島アートセンターがそこにステータスがなくさらに上に飛躍が難しかったということですが、ご自身が海外で見ていたものと比較されて、沖縄でそれを取り入れる試みとなったのか、そういったものがやはり必要とされるのか、お考えはありますか?

 

仲本)前島アートセンターがなかったら今は無いと思います。今の沖芸の成り立ちもないし、美術館の成り立ちもないと思うんだよね。あれが何かを育てたんだよね。美術館がなかったから育ったし。しっかりした親がいると大丈夫かっていうとそうでもないから、しっかりした親はいろいろ口出しちゃうので。子どもはそれに乗っかるとよくないでしょ。もっと前からあったら違っていただろうね、紆余曲折あってやっとできた美術館、新しい博物館なので。

 

宮城)95年くらいに出来ていたら違っていたでしょうね、

 

仲本)温かい気持ちで新しい美術館を育てる、那覇市が準備館として市民ギャラリーを用意したときも資料館を用意したときも、仮設のような建物ではあるけどあれは立派だったと思う。小回りが利くからできるのかな、沖縄県は県民ギャラリーがあったけど、あれより市民ギャラリーの方が断然使い勝手よかった。とにかく文化施設がほしいという思いが見えた。県の場合は、この次つくるときはいいのつくるからって待たされたんだよ。うちは文化県だからもうちょっと立派なものをと、あんな立派なものが必要だったかは別だけど、その穴埋めとしてアートセンターができた。県はいつまで経っても動かないから、基地経済とか右とか左とか言っている間にいろんなものが立ち消えになるからほっといて、安定したときに言えばいいやって長い年月が過ぎて、頭の中で美術館何度も建っているんだよね。

 

町田)建物が建たない間でも美術家は常に活動していて発表の場を求めているわけなので、場として前島はそこにあったという、そこに公共性を見出していたと思うんですね、

 

仲本)特に若手ね。残念ながら、僕より5~10年上の人は前島を美術の発表の場と思っていない。喜久村先生なんかあの年代の中では柔軟だけど、喜久村先生の友達あたりは美術を飾る場所ではない。ギリギリ那覇市民ギャラリーが美術を飾る場所だと思っていると思う。

 

町田)当時、前島がどう見られていたのか気になっていました。

 

仲本)駐車場がない美術館はないって言われた。行きづらいと。あそこは不良の行く、船員さんたちの遊び場と思っていたと思う。まじめな美術家はね。
その前に、いろいろ見てきてアートの幸せな在り方としてシアトルの公立の美術館の横には有志か市が運営しているのか分からないけど、素人のみなさんが描いた絵を売る場があって、これって幸せだなと思って。収蔵品の立派なアートを見た後に、いま現在描いている人たちの絵を売る場所、展示する場所がある。そこには博物館・美術館ではないから燻蒸するとかいう概念もない。だからいろんなものが展示できる。美術館だと花は生けられないし、食べ物・水はだめだし、今のアートとは全く違う、保管場所だから。残念ながら、アートの墓場はできるけど、最終収集場所にはなるけど。だからそうではない場所をつくっていた方がいい。生ものを飾る場所が横に必要だと思う。宝物を収蔵する場所は規則が厳しい。

 

町田)作品の在り方が変容しているので収蔵の課題は美術館としてあると思います。

 

仲本)僕がこっち側(美術館)の人だったら変えられないよ。もう死んで二度と描けないものが置いてあるんだから、それを虫に食わしていいのかって言ったらそんなわけはないから。ミツバチと一緒に飼うわけにはいかないから。横にとんでもない建物が建たない限りは、今こそ前島アートセンターがあの横に必要かも。
見切り発車であんな立派な美術館つくったのは偉いと思うけどね。借金を生み出すに違いない建物で、その借金自体がアートなんだから。文化活動は経済活動とは違うので。エイサ―とは違う。でもすべてのアートは縁起物でないといけないかもとも思う。

 

宮城・町田)ありがとうございました。

 

 

(1)スーパーインポーズ法:頭蓋骨と顔写真を照合して遺体の身元を判別する方法。

聞き手宮城未来、町田恵美
収録日2018年11月20日