Interview アートに関わる様々な方へのインタビュー記録

永津禎三

前島アートセンター

Profile

■前島アートセンターとの接点、「wanakio」への参加
(町田)2001年に入って前島アートセンター(以下、前島)が立ち上がりますが、前島について知ってる範囲でお願いします。

 

(永津)前島に関しては、当時の琉大の学生が、ストリートミュージアムに参加しますっていうので、あのビルの空き店舗に見に行ったのが最初。
そのあとアートセンターの立ち上げの会みたいなのがあったんですよね。で、それにたまたま赴任したばかりのティトゥス先生を連れて行ったら、彼がぴったりハマって、っていう感じです。

 

(町田)ティトゥス先生が琉大の先生っていうこともあって、それ以降も琉大との絡みも含めて、前島と関連した「wanakio」に参加をするようになっていくっていうことですよね。

 

(永津)そうですね、前島が立ち上がったのが2001年で、ティトゥス先生が琉大に来たのも2001年だった。
あの高砂殿ビルの1階は、最初どちらがギャラリースペースだったんですかね? 多分あの道側のほうがギャラリースペースだったと思うんですけど、そこで始めましたよね。前身はさっき言ったストリートミュージアムで…。
えっと、ティトゥス先生が、赴任したその年、2001年の集中講義で、非常勤講師に写真家の中里和人さんを呼んで…。中里さんは、空き店舗とか工場跡とか、そういうところを掃除して、そこを会場にして、その場所の記憶をもとにした写真を撮ったりして発表するということを続けていて、沖縄でもやりたいと。授業でやろうということで…。ティトゥス先生がいろいろな候補から農連市場を選んで、そこで「写真市場」っていう授業をしたんですね。
集中講義なので琉大の学生も僕たち教員も当然参加していますので、そういう下地があり、それからティトゥス先生が前島のほうに積極的に関わるようになって「wanakio」を共同企画していったということで、当然そこにも僕たちが一緒に参加していくと…。
「wanakio」へ学生が参加したのも授業絡みです。普段、僕たち教員はそれぞれ別の授業を持っていて、ティトゥス先生ならデザインの授業、僕は絵画の授業、っていう形で、それを学生は登録して受講するわけですけれども、それをもう抱き合わせにしたような授業で、一緒に参加させちゃうっていう形を積極的にとりました。それで琉大の学生は割と、「wanakio」に参加しやすかったと思うし、その前に「写真市場」っていう集中講義の授業もやっていた。まぁそういう流れで、そこで経験した学生は卒業してからも参加するみたいな形だったんで、「wanakio」に関しては、芸大よりも、琉大の学生のほうが積極的に参加してたんじゃないかなっていうふうに思います。
ちょっとあの頃は、芸大の学生さんたちも何人かはいたんだけど、なかなか窮屈そうに動いてた、僕の記憶では。

 

(阪田)多分、作家としては参加はしてたんですけど、例えばスタッフとして一緒にワークショップを準備するというところでは、授業との兼ね合いでなかなか…

 

(永津)動けなかったみたいですね。芸大のほうは逆に。

 

(町田)琉大はその点を授業という枠を持ったので、多分学生が動きやすかったのかもしれなくて、芸大はそこがもしかしたら難しかった部分なのかもしれないですね。
授業だと参加しないけといけない、そうでなくても自主的に参加すればいいと思うんですけどね。

 

(永津)まぁもちろん、授業自体も内容を知らせてから登録させるわけなんだから、後から実は「wanakio」に参加するんだよってみたいな感じじゃなくて、当然その内容を面白そうと思って学生も登録するわけなんですけれども…。
まぁそういう感じで琉大はできたから…。やっぱりちょっと芸大はそういうカリキュラムが固いのかな? よく分かんないんだけど。
もう授業がかっちりあるので、なかなか外には出れませんみたいな感じのことを聞きました。その当時は。

 

永津禎三

 

■wanakio2002、2003
(町田)2002年、2003年の「wanakio」を、学生と一緒に参加をされていますね。

 

(永津)かなり参加しましたね。吉田先生と組んで子どもワークショップに絡んだりとか、作品を制作するほうはティトゥス先生と一緒にやったりとか、という感じで。
2002年のほうが、まず吉田悦治先生と一緒にやったワークショップ、えっとなんだったっけ、三つぐらいやったのかな?その時は。『おつかいありさん』というのと、あと『こすこす調査隊』というのと、あとひとつは何だったかな?
まぁ、ワークショップを三つ打って、忘れられたワークショップかわいそうだね。(笑)
…あ、なんだったっけな、『農連しりとり』かな。次の年かな、ごめんなさい。
あ、やっぱり『農連しりとり』ですね。それで2003年の『農連すごろく』に繋がっていくという…

 

(町田)学生と一緒にっていうこともあったんでしょうけど、ご自身が参加されてた、高木正樹…

 

(永津)2002年の時にはそのワークショップと「まちのなかのアート展」っていうのがあって、今では当たり前になってしまったんですけど、制作の過程も見せ、まぁできれば一緒に参加して下さいっていうふうに呼びかける形の展覧会。それを学生主体でやっていて、えっと、…2002、2003…あ、やっぱり2002年に「メゾン・モザンビーク」なんだね。
「メゾン・モザンビーク」の担当が玉城真くん、この時、大学院2年生かな。あと「生活館」っていう、これは大学院1年の片野坂達也くんが主体になって、二つのプロジェクトというか展覧会をしました。農連市場が会場です。
「メゾン・モザンビーク」は、熱帯魚飼育が趣味の玉城くんが、ガーブ川の橋のたもとに水槽を設置して、釣り上げたテラピアを飼育して…。面白いんですけど、汚いテラピアが水槽に入るとどんどん綺麗になっていくんですよ。その綺麗になった、浄化されたテラピアを、料理して食べてしまおうっていう…。実際は別の魚を調理したんですけどね。料理係が僕でした。
「生活館」の方は、片野坂くんが、農連市場の色々な傷跡を採集してきて、それに関わる物語を添えて展示をするっていう、ちょっと博物館みたいな展示を考えていたんです。それで、これを学生が作っていたんですけど、なんかもうひとつだなあって思って。(笑)
もうちょっと面白いの作れよ!って思って、なんとなく自分も始めてしまったんですね。
まず、痕跡をとってきて…。それは、橋の所にコンクリートをすごく盛りあげた場所があって、滑らないように斫り跡があったんですよ。それを採集することにして作品を作り始めた。そこで、ちょうどこの時ですね、あーそうだね、なんで、高木正樹さんが、出てきたんだったかな? 斫り跡を、そうですね、斫り跡を作った人が、あるKさんという彫刻家だということにしたんですね。その人は彫刻を昔やっていたんだけど、ヤマトの彫刻界に嫌気がさして、なんかの縁があって沖縄に来て、農業をする。いわゆる無農薬栽培の農業をするみたいな感じで来てた人っていう設定にして…。

 

(町田)妄想(笑)

 

(永津)そういう嘘の話を、ここで初めて作って書いてますね。それで、興が乗っちゃって…。少し前に大城志津子先生が亡くなっていて、それで何か大城先生のことを書きたいなとずっと思っていた。それで、前から大城先生の話を妻からいっぱい聞いていて…、二作目は大城先生をモデルに話を作った。その時、一気に3人の話を作ったんです。捏造話をね。三つ目は「wanakio」を観にきていた卒業生に取材して若い子の話を作った。
えーっと、そうですね、2002年にそういう形で、ワークショップと作品展に参加して、2003年は、まさか翌年、また、「wanakio」をするとは思っていませんでした。ティトゥス先生、その頃、すごく意欲的だったんですね。
それで、2003年に急に、桜坂1の担当だよと言われて、えーっ、あーそうですか?って。
お酒も弱いのに桜坂で連日飲み歩いて交渉し、展示する場所を確保して回り、頑張りすぎて場所が余っちゃった。「ゼットン」っていう、2階に上がっていく、すごく良いお店が空いちゃった。その後しばらくしてその場所はセルロイド別館っていう店に変わって…、今もまだやってるのかな。その「ゼットン」が余っちゃったんで、自分で使うことにしました。
先ほど、複数の授業を「wanakio」に合わせて抱き合わせにした話をしましたが、2002年の時に、非常勤でお願いした真喜志好一さんや比嘉豊光さんの授業も同じようにしました。結局、ティトゥス先生、吉田先生、真喜志さん、比嘉さん、僕の授業と5つも抱き合わせで…、それだから学生はかなり仕事ができたはずです。
その時、真喜志さんが妙に、大城志津子先生をモデルに僕が捏造した山本さんの話にのめり込んでくださって、あの水飲み場はどこなの? えっ、あれは嘘なの?みたいな感じで…。捏造話をすごく楽しんでくださった。
真喜志さんは2003年も非常勤講師で「wanakio」の「まち歩き」を2年続けてしてくださった。その2003年の時に、緑ヶ丘公園に行くために三越の裏の所を通ってた時に、道にちょうど斫り跡があった。「永津さん、これこれ…」みたいな。(笑)やらないの? 今年は…。みたいな話になって。
その時に、たまたま、その「まち歩き」を記録するために同行して下さった方がアマチュアのカメラマンだったんだけど、すごく立派なカメラを持ってらっしゃって…。すごい写真を撮るのかなって思って見せてもらったら、なんか、拍子抜けというか、僕の趣味じゃ全くなくて…。そんなこともあって、アマチュア写真家をモデルにしたら、ちょっと面白い話を書けるかな、とか思いだして…。それで、捏造話の高木正樹さんを、この時にアマチュア写真家にしちゃったんです。
それで急遽、K氏の仕事を執拗に追っていた彼の写真展を、余った「ゼットン」でやるっていうことにしました。それからは、夜、写真を撮り、昼はお店との交渉などの仕事をして…。例の捏造話の続編を作りました。

 

(町田)それは2003年ですか?何か文章になっていますか?

 

(永津)2003年、写真と文章で複数の冊子による作品にしています。

 

永津禎三

 

■シングルモルトバーを始めた経緯
(町田)今「wanakio」の話ではあったんですけど、「wanakio」と前島は別と、考えたときに、2004年に前島の理事になられて、シングルモルトバーを、始められて…。

 

(永津)2002年、2003年と、そういうふうに作品制作にのめり込めたんですけども、2004年位から大学の仕事が、ちょっと管理職みたいなものになってしまって、そこから8年程、暗黒の時代が続くんです。理事になった時には、作品制作を含めて積極的に前島に参加できるかなと思っていたんですけど、まぁそうじゃなくなってしまって…。結果的に、できたのは月一回のバー。
アートセンターでバーを開くというのはティトゥス先生の発案なんです。ドイツには伝統がありますよね、バーが芸術活動の拠点だ!みたいな。ベルリンとかそういう伝統があるから、そんな気分で…。
仲本先生が、フルーツカクテルバーを第2土・日曜日に。第3土・日曜日にティトゥス先生が、ジャーマンポテトクラブって自虐的な名前のバーでドイツビールを。僕が、シングルモルトウィスキー・テイスティングバーを第4土・日曜日に。
僕はかねてからシングルモルトウィスキーが好きだったので、こっそり集めていました。2003年の「wanakio」が終わった後も、桜坂で知り合いになった家主さんから、学生が展示会場にしていたお店をそのまま借りて、卒業生の友寄貴公君たちとアジトと称して集まっていました。1年間位借りたんかな結局…。そこにシングルモルトバーで使うウィスキーを隠して…、妻にバレないように(笑)。70〜80本たまったところで、前島アートセンターに移してシングルモルト・テイスティングバーを始めました。
始めたときには80種類位。それで、月に1回やっているだけなんですけども、いろんな客がいるんだよね。琉大の島袋純先生とかはイギリスに留学されたことがあって、「あちらで、ネス湖の水で仕込んだウィスキーを飲んだことがあるけど、あれはないの?」とか言われると、無いのが悔しくて買い足したりしていたら、翌月には120種類程になってたりしましたね。前島アートセンターが終わる頃には400種類程ありました。

 

■MACとの関わりについて
(町田)結局、理事は解散まで続けられてるんですか?

 

(永津)いや、忘れました。すみません。いつ辞めたのかもさえ…(笑)。解散の時には、もう務めてないです。多分、上村先生が琉大に赴任されて、交代した形で辞めたんじゃないかな?上村先生の赴任はいつだったっけ?

 

(町田)2005年ぐらいだと思います。
まとめに入りますけど、前島も匠も人が集まり、作品がある場所というような感覚で、接していたんですか?永津先生にとって前島や匠というのがどういったものでしたか?

 

(永津)匠のときは、自分では主体的に動いていたつもりでいるんですけど、さっきも話してたように、最初は、ちょうど潰れそうな画廊があるんだったら、自分達で自由になるスペースを自分達でやればいいなと思いつつ始め、やってるうちにいろんな情報が入ってきて、そういう企画の面白さとかというのは段々勉強していったという感じ。それがまあ2年弱で終わったということになりますね。その後にあれがあったんですよ、アトピックサイト…。アトピックサイトはやっぱり大きいかな…。96年にあって。そこでいろいろあって翁長直樹さんと疎遠になったんですけども…(苦笑)。
アトピックサイトが結局ワンステップになって、「wanakio」の「まちのなかのアート展」みたいな考え方も素直に受け入れられる感じになっていたと思う。そういう形で活動することが面白そう、ということで、それを主催していたのが前島アートセンターだった。そこの宮城潤さんが、雨に濡れた子犬のようだったので、思わず気の毒になって手伝おうかなと(笑)思ったんですね。
だから前島アートセンターに関しては、僕は本当に宮城潤さんのお手伝いに入っているつもりでいたので、企画自体にはあんまり主体的に関わった記憶はなくて、唯一、バーだけですね。自分の考えで自由にやったのは。そんな感じです、前島アートセンターに関してはね。

 

(町田)匠は御自身の作家としての関りのほうが前面に来てたのかな?と思いますし、一方前島に関しては立場というか大学の教員であるということで、学生をそこに関わせたりするという意味で場所としての使い方というのもあったのかなと…、

 

(永津)前島に関わるということでは、日常的な前島の活動にはうちの学生はそんなには関わっていないと思うんですよね。やっぱり、「wanakio」が中心になっていたと思いますよ。

 

(町田)展覧会という場所を何かを経験としてさせるみたいな。

 

(永津)それは本当に幾つか、例えば小橋川啓君が個展を前島でやったときとかはそういうことになるのかな。そうですね。実際、匠のときにも改装を自分達でやったから、学生にも手伝ってもらったりとか、その頃はまだ大学院が無かったので、制作を続けたい学生は研究生になって1年だけ残っていたんですね。その研究生の修了の展覧会を2回ぐらいやっていますね。そういうときには、当然学生というか卒業後の研究生が参加していました。

 

※このインタヴューは項目「匠」と同時収録しています。

 

(1)桜坂|那覇市牧志に位置し、終戦後歓楽街として栄えた当時の面影を残しつつ、新たな建物が混在した街並みは独特な雰囲気がある。国際通りに近接し、バーや飲食店、映画館などが建ち並ぶ。

 

聞き手町田恵美、阪田清子、仲宗根香織
収録日2018年9月2日