Interview アートに関わる様々な方へのインタビュー記録

岡田有美子

前島アートセンター

Profile

元NPO法人前島アートセンター事務局長

事務局からみた前島アートセンター

 

■2005年の前島三丁目

私にとっての沖縄は2005年、前島3丁目という場所から突然始まりました。3月に大学を卒業し、大学の先輩を引き継ぐ形で6月半ばにトランクひとつで沖縄にやってきました。港のすぐそばながら青い海は見えず、朝から晩までお酒のニオイのする前島三丁目。前島アートセンター(以下、MAC)のあった高砂ビルのオーナー、山城幸雄さんの自宅はビルのすぐ裏手にあって、山城さんはその2F、3Fでドミトリーを経営していました。10人部屋で二段ベッドがあり、その上の段のひとつが最初の私の家でした。女性部屋は普段は4人いて、私の他は青森から季節労働にきた10代の女の子たちでした。彼女達は高時給の広告に騙されて沖縄に来て、かき氷屋で実質時給300円くらいで一日中働かされて、逃げてきたところでした。でも青森に帰ることができなくてスーパーやドラッグストアでバイトして、眉毛の細い悪そうな男の人たちと恋愛をしていました。男性部屋はとまりんにつく船の乗組員がよく泊まっていました。私は沖縄に来た時点で旅費と引っ越しで貯金も底をついていて、MACでは夜中まで仕事をしていたけれど、給料はそれだけで生活できる金額ではなく、来てからの1ヶ月は玄米だけを朝晩食べていました。それを不憫に思った船長さんや他の住民が「あぶらみそ」の瓶をくれた時には、ごはんに味があることに感動して泣けたし、MAC理事の国吉宏明さんがローストビーフを食べに、浦添のキャンプキンザーに隣接するステーキハウスに連れていってくれた時には本当に、生き返る思いでした。だから、国吉さんには一生頭があがりません。

話はずれましたが、当時の(おそらく今も)前島三丁目というのはそういった、流れ着いた人が支え合って生きているというか、港町のもつそういう雰囲気があって、外から来た私には居心地は悪くない場所でした。

 

■MACの労働環境とワンピース

同じく大学を卒業したての平良亜弥さんと同時にMACで働き始めましたが、二人とも社会人経験がないので、日々どうしてよいかわからず、最初は毎日休み無く夜中まで働き続けました。『南の家、北の家。』(2005年7月10日~8月28日)という北海道と沖縄のアーティストの交換レジデンスプログラムや、『トヨタ子どもとアーティストの出会いin沖縄』(2005〜2006年度)で小学校や市場での子どもワークショップが継続してあり、さらに『wanakio2005』(2005年7月23日 〜 11月27日 http://wanakio.com/)という大きなイベントの上に、通常のギャラリー展示やイベントスペースでの単発イベントもありました。休みの日がいつだとか、そういう指示は当時なくて仕事は山のようにたまっているので、気がつけば2ヶ月くらい休みなしで働いていました。途中で流石に、「私たちって休日とかあるんでしょうか」と確認して、ひとつひとつ労働環境を整えていった感じです。当時は、ぼろぼろで思考が停止していたんだけど、平良さんと二人だったことで、ある日「これっておかしいんじゃないか」とか少しずつ話をしたりして、確認できたことでどうにか切り抜けました。クーラー代がかさみ普段は節約していたために、あまりに汗臭く、表情も暗くなっていることに嫌気がさして、二〇代前半の乙女がこんなんじゃだめだ、と奮い立ち前島にあったかわいい古着屋に平良さんと二人で行きました。70年代の大阪万博風の色違いの近未来的ワンピースを買い、「これを明日からMACの制服にします」と理事会で承認をとって、イベント時に気合いを入れるために着たりしました。そこから、自分達で能動的に動いていけるようになったような気がします。

 

■バースペース

通常のイベントとして、理事が店長として毎週末週替わりのバーをやっていました。ティトゥス・スプリーさん(琉球大学教育学部教授/建築家)が『ジャーマンポテトクラブ』というドイツビールやザワークラウトの楽しめるバーをやり、仲本賢さん(沖縄県立芸術大学教授/写真家)が『フルーツカクテルバー』というドラゴンフルーツやパパイヤなど、宜野座出身の仲本さんらしいトロピカルフルーツを使ったバーをしていました。永津禎三さん(琉球大学教育学部教授/画家)は「シングルモルトテイスティングバー」という、シングルモルトウイスキーが300種類くらいだったかな、とにかくものすごい数のシングルモルトコレクションを持っていて、それをMACの棚に美しくディスプレイしていました。料理もすごくおしゃれでピクルスを漬けたり、沖縄の草花を泡盛に漬けた「ハーブ泡盛」というものもあったりして、とにかく毎週末盛り上がっていました。バーはそれぞれ来る客層が違って、美術に興味のない人もたくさんいましたし、そこでの売上は全部理事が寄付してくれていたので、人との交流と言う意味でも、資金の面でもMACにとって重要なものだったと思います。

 

■お祭りからビルの閉鎖

私が来た時にはビルのテナントは半分かそれ以上、空室だったように思いますが、2006年には、ミュージシャンの経営するバー、アーティストのアトリエ、音楽スタジオ、デザイナー事務所などでほとんど埋まっていました。アサヒアートフェスティバルに参加した『祝・前島3丁目まつり』(2006年4月8日(土)~9月17日(日))にむけて、前島地域の人たちと毎週会議をして「前島3丁目音頭」をつくり、婦人会の人たちと踊りの練習をしました。お祭りの日には、高砂ビル全体をオープンアトリエのような形にしよう、と2Fにあった沖縄県立芸大の女の子5人によるお店兼アトリエの「cotef」メンバーと毎日ビルのテナントをはしごして飲み歩き、各お店に協力をお願いしてビルの地図を作成しました。一番うれしかったのは、ビルの人たちで集まって会議をして、「ビル掃除まつり」をしたことです。空き店舗ばかりだったビルに人が集まり、ついには「掃除」を大勢ですることになるなんて、一年前は夢にも思いませんでした。お祭りは大盛況で、その日ビルの屋上で行われた打ち上げでは、住人の人たちが感極まっていたりして、感動的でした。

 

ただ、その翌年高砂ビルは資金難のために閉鎖されることになりました。その時、なんでもっとはやく山城さんは相談してくれなかったんだろう、と思いましたがすでにどうにもならない状況でした。最後の日に向けて、ビルにアトリエのあった「CINEMA dub MONKS」の曽我大穂さんと一緒に準備をして、ビルの外を使ってフリーの野外ライブをしました。大穂さんの広い友人関係もあって、豪華なミュージシャンたちがギャラなしで来てくれて盛り上がりました。

 

■栄町市場への移転

その後、2007年10月に那覇市の栄町市場に沖縄県立博物館・美術館のオープンに合わせて『おきなわ時間美術館』(NPO法人AITとの共催)をオープンします。夕方からお客さんがいなくなるまでのウチナータイムの美術館ということだったので、沖縄の若手作家の展示と、イベントスペースではバーやレクチャーをやりました。県立美術館に行った後に飲みにくるアーティストや美術関係者が結局朝までいたりしました。その時にギャラリースペースとイベントスペースを古民家の中にそれぞれつくり、イベント終了後も『おきなわ時間美術館』という名称をそのまま使っていました。戦後の闇市から出発したという栄町は、小さな空間に密集するように肉屋、魚屋、かまぼこ屋などが所狭しとならんでいて、その一角にMACは拠点をもつことになりました。オープンなスペースなので、市場に買物に来た人が休んだり、近道として通り過ぎたりするような空間です。栄町市場は一度廃れてしまった市場なのですが、ミュージシャンが集まりお店をはじめたことや、町を活気づけようとそのミュージシャンたちが栄町市場のCDを出したり、ライブが中心のお祭りをしたりして、近年は活気を取り戻しています。CDのために栄町のおばぁたちで結成された『おばぁらっぱーず』はその後有名になって、彼女達の歌う『栄町市場屋台祭り』は今、入りきらないほどの人が集まります。

 

MACが移った2007年はまだそこまで活気を取り戻しておらず、空き店舗も結構ありました。今はもうありません。最初、栄町にMACが移った際には期待されていたようなのだけど、昼がメインの市場なのに夜しか人が集まらないし、怪しいイベントをやってる、などなどたくさんの噂話とともに市場なのに何も「売っていない」という奇妙さで、浮いていました。私が仕事をしていると、一日中パソコンに向かっていて気持ち悪い、とも言われました。市場ではそんな人はいないから当然のことだと思います。そのスペースに普段いるのは私一人なので、昼間に見える場所で事務仕事をすることは当面あきらめようと腹をくくり、昼間は散歩して市場で買物をし、市場を走り回る子どもたちと遊び、夜はできるだけ飲み歩いていろんな人間関係を知りました。栄町の昼と夜では、違う「業界」のようなものがあって、人の流れも違います。なので、どちらにも顔を出すようにしました。栄町市場はそれぞれのお店のクオリティが高く、そして安い。そうやって、例えば豚肉や魚などのモノと向き合い、ぎりぎりまで値下げして何十年も商売を続けている彼らはみんなが自分で責任をとるいわば「社長」で、とても目が肥えていて、MACで展示した作品についても鋭い批評が飛び交っていました。隣の野菜屋さんの孫のりんちゃんは当時小学校低学年で、いつもギャラリーに来ていて、画家の石垣克子さんの個展の時にはそれぞれの作品について驚くような視点で解説してくれました。そういう中では美術批評とは一体何か、といつも考えさせられるし、あまりよくない作品だと思うと容赦なく、なんでこんなものを展示するのか、と説明を迫られたりもしました。

 

■市場に合った企画をやること。売買と贈与

そんな中、栄町でその場所に合った成功した企画だと思ったのは、アーティストのKOSUGE1-16のレジデンスプログラムで『雨季ウキウキウィーク』(2008年6月4日〜8日)を開催、「雨漏りキャッチャー」をつくるワークショップをしたことです。栄町はアーケードが古く、穴があいているところが多いので、雨漏りがひどいのです。そこで、雨漏りを楽しくするための「雨漏りキャッチャー」を市場の人達から注文を受けてつくったり、一緒に子どもたちと作るワークショップをしたり、展示販売もしました。市場のリサイクルショップにあるものや空き缶や廃材を組み合わせて、雨が落ちるといい音が鳴ったり、モビールみたいなものが揺れたり、回ったりととにかくKOSUGE1-16の土谷享さんの造形力がすごくて、どんどん市場で流行りました。土谷さんは、この市場の特徴と、MACの立ち位置とを瞬時に把握し、「MACが市場の中で物を売っていないのはフェアじゃないと思う」と、雨漏りキャッチャーを造り、それを安価で100円〜500円くらいだったと思うのですが市場の人達に売りました。最後はそれを設置した場所を回って、雨音を聴く「LIVE」もやったりして、とにかくプログラムの組み立て方が秀逸でこれが、アーティストの力だなと思ったりしました。そこでわかったのは、市場の人達もMACを応援したり、関わりたいと思っているけどどうしていいのかわからないということでした。売買によって関われるという単純なことですが、それが美術ではなかなか難しいところではあります。あとは仲本賢さん(写真家)が『栄町市場肖像写真展』(2008年3月21日〜30日)というのをやって、市場の中に写真スタジオをつくり、お店の人も買物客も含めて、200人くらいの人を撮りました。それを地道にその場でプレゼントしたり、展示したり、最後には写真集ができましたがそのことでだいぶ受け入れてもらえるようになりました。一番大きなイベントの『wanakio2008まちの中のアート展』(2008年11月15日〜30日)では、世界8カ国から20組のアーティストが参加していて、その時に外国の人たちや、若い学生なんかの出入りがあったことでいろんな交流が生まれていました。

 

■栄町市場の距離感

そうこうするうちに、祭りで市場の理事長が歌うことになり、伴奏をたのまれてピアノで参加したり、栄町市場のチームで万座ハーリーに出場する時に呼ばれたり、栄町CD第二弾の会議にでてポスターのデザインをしたり、と外でも栄町の人と過ごす時間が増えてきました。夜に商売をしている家庭の子どもたちは、自然と夜に集まってきて一緒に宿題をしたり、ご飯を食べたり、誕生日会をしたりしました。栄町の人からはいつもたくさんの食べ物を差し入れしてもらいました。私はこの場所で物を売り買いしている人たちと生活するうちに、アートがもつ過激な側面とこの町のスケールについていつも苦しむことになりました。あまりにも、物理的にも精神的にも町の人々との距離が近過ぎて、彼らの顔を意識せずには企画をできなくなりました。でも、私は栄町のために美術をやっているわけではなかったし、そんなことはやろうとしてもできないほど栄町は魅力的な場所でした。ここでやらせてもらえたら面白いだろうと思うことはたくさんありましたが、私はもう少し、別のところに美術をやる動機があったし、MACの理事メンバーもそれぞれ別の考えをもっていました。

 

■MACの解散

そういうわけで、私はMACをやめて、cimarcusという団体を友人と立ち上げてやりたい美術の活動を始めました。栄町へは個人として今まで通りコーヒーを飲みにいき、野菜や肉を買物に行き、夜は仕事帰りに飲みにいきました。その数年後、MACは慢性的な資金難や、理事メンバーそれぞれの方向性の違いによって栄町のスペースを畳むことになりました。その最後の日、栄町のお店に挨拶に行ってお酒を飲んでいたら、市場の人たちに「なんでもっとはやく相談してくれなかったの」「もっと早くいってくれたら、市場のみんなで毎月少しずつお金を出して運営するような方法も考えられたのに」と言われました。その時、やっと山城さんが私たちに相談してくれなかった気持ちがわかったような気がしました。事態はそんなに単純ではなくて、でも人に甘えることができたらまた別の可能性があったのかもしれません。そういった、様々な選択肢は今となれば考えられなくもないですが、MACに対して、町の人がそんな風に思ってくれていたとは夢にも思いませんでした。でも、お金のことというよりもMACのメンバーが、それぞれ別の活動を持っていたりして、それぞれの向いている方向が別にあったりしたことが、その後の解散の一番の原因だと私は思っています。それは、後ろ向きな分裂というようなものではなくて、MACのミッションだった沖縄のアートの環境をよくしていく、ということのひとつづつをそれぞれが担い、より拡げていくようなそんな動きだと思っています。

聞き手sima art labo
収録日2015年2月27日