Interview アートに関わる様々な方へのインタビュー記録

平良亜弥

前島アートセンター

Profile

美術家

■前島アートセンターに入るきっかけ

 

町田)まず前島アートセンター(以下、MAC)との関わりから聞いていきたいと思います。前島に関わるきっかけにはどういった経緯があったのでしょうか。

 

平良)琉球大学(以下、琉大)の教育学部の美術教育専修を2005年に卒業したんですが、当時、MACの理事をしていた永津禎三先生から事務局募集のメールが卒業生に送られてきました。就職は特に決まっていなくて、バイトをしながらしばらくは制作活動をしようと思っていたところに知らせを受けて、即答して7月に事務局入りしました。wanakioを通してMACのことは知っていたので、アーティストとしてでもボランティアとしてでもない、スタッフという立場の人たちの仕事に興味があり、やってみたいと思ったんです。それと、祖父母の家が那覇市松山にあったのですが、川を超えた前島にはほとんど行ったことがなかったので、どんな地域なのか気になったというのもあります。

 

町田)そのとき(2005年)の理事メンバーは何名くらいだったのでしょうか?

 

平良)宮城潤さん、山城幸雄さん、國吉宏昭さん、永津先生、ティトゥス・スプリーさん、仲本賢先生、亀島良泉さんなど、10名ほどの理事メンバーがいました。

 

町田)卒業してから、事務局になって最初に手掛けた事業は何ですか?

 

平良)ギャラリースペースやイベントスペースの運営と併せて、『トヨタ子どもとアーティストの出会いin沖縄』(2005〜2006年度)の担当をしていました。他にも『南の家、北の家。』(アサヒ・アートフェスティバル/2005年7月~8月)という北海道と沖縄のアーティストの交換レジデンスプログラムや『wanakio2005』(2005年7月〜11月)など同時期に進行しているプログラムやイベントがあって、手探りの日々が過ぎていきました。
 事務局に入ってすぐにレジデンスプログラムが始まりました。北海道からは久野志乃さん、沖縄からは石垣克子さん、雛素芬さんが参加。ちょうど久野さんが沖縄に来る日、何時に来るのか、お迎えは必要なのか、宿はどうなっているのかとか、事情を知っている人が誰もいなくてすごく焦りました。同じく事務局の岡田有美子さんと二人で、どうしたらいいか分からなくて…。それでも、久野さんはやってきました。すごく素敵な人でした(笑)沖縄でインタヴューした人々の肖像とテキストで構成した作品(「家族旅行:不在の形」)を発表したと思います。私の母にもインタヴューしてもらいました。

 

町田)2005年からMACの事務局は何年くらいやっていましたか?

 

平良)高砂ビルから隣の事務所に引っ越ししてしばらくはいたので、2007年までですかね。イベント時にはお手伝いに行ったり、栄町に移ってからは、wanakio2008の実行委員としてボランティア担当をしていました。事務局としては二年くらいですね。
一年目は高校の美術の非常勤もしていたんですが、両立はできませんでしたね。卒業したら展示を継続するってことを決めていて、事務局の仕事の合間に制作活動もしていました。でも、自分の制作の時間があまりつくれなくて、それもあってちゃんと自分の作品をつくることに向き合いたいと思って事務局としてのお仕事を辞めました。

 

町田)MACは結構定期的に展覧会をやっていたイメージですが、それはやりたい人がいて貸していたのでしょうか?

 

平良)企画展もありますが、貸しギャラリーもしていました。使用希望があったら、企画書を出してもらって、それを理事会にかけて借用手続きをして、展示のサポートをするという感じだったと思います。

 

町田)個々の展覧会の記録に関することは何か作成していましたか?

 

平良)広報誌として『a-new』を発行していました。2005年に岡田さんと私が事務局に入ってからリニューアルして、五十音順に「あ」から発行していくという形式のものです。全部集めたらかるたができるという遊び心のある読み物として、編集部をつくって、毎回どんな内容にしていくかを話して発行していました。展覧会・イベント情報も掲載されていますが、その号の五十音から始まる美術用語などを紹介するコーナーやコラムなどもありました。かるた大会は実現できてませんが、「ち」くらいまでは発行してたんじゃないでしょうか。

 

平良亜弥

 

■wanakio

町田)MACの事務局としては2005年からで、2002、2003は琉大の学生としてwanakioに参加していたのでしょうか?

 

平良)学部2年次のときにwanakio2002が開催されていて、そのときは先輩たちが関わっている子どもワークショップや展示の手伝いをしたりしました。そこでwanakioのことを知って、いろんなゼミやイベントなんかにも顔を出すようになったんだと思います。翌年、3年次では学科の集中講義に組まれていたので、そこに登録して授業として関わりました。写真家の比嘉豊光さんの桜坂でやっていたプロジェクトに作家として参加したり、ロジャー・マクドナルドさんのトランスゼミや真喜志好一さんのまちあるきもあったと思います。吉田先生の授業でも、子どもワークショップ『のうれんすごろく』を自分たちで企画して農連市場で実施しました。市場をすごろくに見立てて、物々交換していくんだけど、交渉するときに、子どもたちは市場の人と交渉しなくちゃいけない。前年に先輩たちが実施した『農連しりとり』からヒント得て、改良したんだったかな…。学生ボランティアにも参加しました。国際キッチンという食のワークショップで調理のサポートをしたり、他にもwanakioで行われているイベント等に積極的に関わるようにしていました。面白いなぁと思って。

 

町田)事務局になる以前は、wanakioでMACと関わっていた感じでしょうか?

 

平良)wanakioでの関わりが大きかったです。wanakio以降、先輩たちが開催していた『第1回作品模合』(2002年8月27日〜9月1日)や山城知佳子さんの上映会(2004年)をみに行ったり。“作品模合”は、毎月の幹事が作品を提示して、それをつまみにお酒を飲んで、さらに毎月の模合金は展示資金に充てていました。2004年頃には私も模合に加わり、『第2回作品模合』(2004年8月10日〜8月15日)に参加しました。そのときは桜坂の店舗を借りて“アジト”と称して活動していたので、MACとアジトの二会場で開催しました。アジトでは、模合メンバーと集って作品の話や、シングルモルトテイスティングバーの立ち上げに向けたテイスティング会なんかもやって楽しかったです。出来は悪かったけど、モルトバーの初期バーテンもさせてもらいました。

 

町田)wanakio2008でしっかりとした体制を築いたと聞きましたが、
  

平良)公募制にしたのはこれまでとは大きく違うと思います。県内ベースのアーティストは公募型にして、公開プロポーザル会を開いて作品案をプレゼンしてもらいました。エントリーのあったアーティストの中から最終的に10名くらいを選んだと思います。それと実行委員で推薦したアーティストの中から選ばれた招聘アーティスト。アーティストに対しても、担当を決めて制作中の相談相手としてサポートするという体制にしました。私は、県内アーティストのカニメガさんと小橋川啓・戸ヶ瀬哲平の二組を担当しました。

 

■トヨタ

町田)『トヨタ・子どもとアーティストの出会いin沖縄』の担当をされていたということですが、どのような事業だったのでしょうか。

 

平良)『トヨタ・子どもとアーティストの出会い』は、トヨタ自動車とNPO法人「芸術家と子どもたち」と各地域のNPOと連携して、2004年から2016年まで全国各地で実施されたプログラムです。沖縄では2005年度〜2006年度に実施して、開催地は那覇市農連市場、真地小学校、大平特別支援学校(当時、大平養護学校)、若狭小学校、琉球大学附属病院院内学級(以下、院内学級)の五カ所です。“子どもとアーティストの出会い”ではあるんですが、子どもがいる場ということで、開催地も学校以外の場所があがりました。子どもにとっては、親や先生など知っている大人とは全然違う存在としてアーティストと出会うということはプログラムとして大事なんですが、大人にとってもアーティストとの出会いってすごく新鮮だと思うんです。アーティストとの出会いの中で、子どもも大人も新しい面をお互いに発見する場でもあるだろうし。そして、アーティストにとっても、いろんな場でいろんな子どもと大人に出会っていくわけですから、たくさんの刺激と発見がある。それぞれが対等な立場で出会う面白さがこのプログラムにはあるのかなと思います。沖縄開催で特徴的だったのは、学校だけではなくて、病院や市場などでも展開したことでした。“子どもと大人と関わる場”を考えると、学校だけに留まらない。それで、まちや病院など開催地の枠を広げたんです。 
2005年というとプログラムが立ち上がったばかりの年です。開催地が沖縄となったとき、MACがコーディネーターとなり、実行委員会を立ち上げました。実行委員メンバーとしては、MACのスタッフ、琉大の永津先生やティトスさん、吉田悦治先生などです。私が事務局に入ったときには、場所とアーティストは決まっていて、どういう内容でやるかはこれからというところでした。アーティストや開催地側とのやり取り、必要に応じてボランティアの募集、チラシの作成や広報、実施に必要なものを用意したり、報告物を作成したり、アーカイブとしての写真撮影や映像撮影の依頼などが主な仕事ですした。コーディネート的な仕事をそこで初めて経験することになりました。実行委員メンバーに琉大の先生方がいたので、教育学部の学生がサポートが入ることもありました。私自身、卒業生でもあるので学生ボランティアといっても後輩にあたる子たちがほとんどなので、連携が取りやすい状況でした。

 

町田)報告書をみると、二年間で一回限りというより病院とかは継続したプログラム内容だったのでしょうか?

 

平良)『WATARIDORI モールス信号展』(2006年10月〜12月)は、実行委員メンバーの吉田先生が授業の一環で学生たちと小児病棟でワークショップを実施していたという経緯もあって、開催地にあがりました。アーティストは照屋勇賢さん。ニューヨーク在住なので、沖縄に帰ってくるタイミングで打合せをしたり、子どもたちとビデオレターや絵手紙でやり取りを続けて、ワークショップ実施は2006年12月。勇賢さんの代表作『告知の森』を制作するワークショップを院内学級の子どもたちを対象に非公開で実施して、病院のロビーで完成した作品の公開展示も開催しました。他のワークショップもそうですが、場にプログラムを持ち込むというものではないので、開催地の関係者とも継続的にやり取りしながらワークショップを組み立てていきました。

 

町田)それ以外の作家はどのように決まったのでしょうか?

 

平良)他のアーティストについても、場と相性のあう方を実行委員会で話しあって決めていたと思います。というのも、私が事務局にはいったときには、開催地とアーティストはもう確定していたので。那覇市農連市場はパルコキノシタさん(『とっとこハブ太郎』2005年11月)。こちらはwanakio2005会期中に開催ということも確定していました。那覇市立真地小学校は伊江隆人さん(『自然はともだちだ!(森・川・海岸・海)〜墨のオブジェ〜』2005年12月〜2006年1月)、那覇市立若狭小学校は鄒素芬さん(『1年0組 わかさ発見伝』2006年9月〜11月)でした。それぞれ、3年生と5年生のクラスで実施したので、その担任の先生と調整をしながら授業の一環として何度かアーティストが学校へ訪問して本番に向けて取り組むという形で進めていきました。
ただ、森川特別支援学校は元々開催地として確定はしていませんでした。病院でのワークショップに向けてやり取りをしていく中で、勇賢さんともう一人、沖縄側につなぐ役割のアーティストがいるといいんじゃないかというアイディアが実行委員会の中で出てきました。そこで、ギマトモタツさんが抜擢されたんです。当時、ワークショップの経験はほとんどなかったギマさんですが、wanakio2005で初めてワークショップ(『アシガタリ』)を実施していて場や人に対して真摯に向き合えるはずだ、ということで実行委員からの推薦があったんです。最終的には、お二人それぞれの場で実施することになって、ギマさんは授業の一環として週一回のペースで学校に行き、『オモテナシproject』(2006年4月〜6月)をつくり上げていきました。

 

町田)その後、病院や学校とトヨタが終了してもMACとして関わることはありましたか?ギマさんが個人的に付き合いを続けて、病院に出入りがあったようですが、

 

平良)病院側のキーパーソンとして、百名伸之先生という方がいて、今でも交流があります。ギマさんは、プログラムが終了した後も病院のボランティアとして、個人的に関わっていたと思います。若狭小学校で壁画制作にも関わっていたんじゃないかな。勇賢さんに関してもプログラム終了後にご家族からの要望があって、お手紙のやり取りをしたことがありました。

 

■沖縄市での活動

町田)MACを辞め、どのような経緯で沖縄市での活動を行うことになったのでしょうか?

 

平良)琉大で学生部の窓口で働いていたんですが、2009年に教育学部内で立ち上がった『21世紀おきなわ子ども教育フォーラム(以下、21COCEF)』というプロジェクトの事務局に入ります。その後、沖縄市で2012年〜14年の三年間、『沖縄クリエイターズビレッジ(以下、OCV)』の企画運営スタッフとして関わります。MACも含めて、那覇での活動が多かったので、沖縄市での活動に興味があった。ちょうどスタッフ募集していたので応募して採用されました。

 

町田)そのときの活動内容はどういったことをされていたのでしょうか?

 

平良)拠点は一番街商店街の中にあるKOZY CENTRALという大きなテナントの2階で、2012年は、オープンスペースの運営と店舗のリニューアル、イベント等の企画運営などが主な業務でした。リニューアルに関しては、一番街とその周辺店舗を対象に、看板等のデザインから改装の相談や実際の作業もスタッフが関わっていました。改装についてはもちろん専門家も入ります。私は主にスペースの運営とイベント企画などをしていました。2013年からは琉大教育学部特命研究員としても大学と関わってもいたので、吉田先生と上村さんの授業の一環で『七夕まつり』に教育学部の学生たちにも関わってもらうことになり、そのサポートもしていました。毎年恒例の竹取りも学生企画の子どもワークショップも、商店街の人たちにとって楽しみのひとつになっているんじゃないかなと思います。

 

町田)アートイベント『ジュネチック』1はOCVの事業ですか?『イチハナリアートプロジェクト(以下、イチハナリ)』2と関係しているのでしょうか?

 

平良)『ジュネチック』はNPO法人琉・動・体(以下、琉動体)が主催です。企画はARCADE3の平岡昌也さん、琉動体代表である秋友かんなさんと共に開催したんじゃないでしょうか。

 

町田)OCVはアーケイドをサポートしてたってことでしょうか?

 

平良)サポートというよりは協働開催ダったのではないかと思います。1回目の『ジュネチックin伊計島』は、平岡さんの提案で始まったんだと思います。2012年にイチハナリが始まって、平岡さんはそのときスタッフでイチハナリに関わって、そこで思うことがあって、ARCADEとして伊計島での企画を出して、かんなさんと企画を練って実現したという流れじゃないですかね。詳しい経緯については、かんなさんや平岡さんにお話を聞くと良いと思います。2014年の『ジュネチックinコザ』はOCVとして実施して、一番街商店街をメイン会場にコザエリアで開催しました。
OCVは事業名で、アートエリア形成事業として、一番街商店街とその周辺をクリエイティブな人・ことでつないでいくというのがミッションですね。拠点が商店街なので、お店が長くあり続ける、まちの元気を保つような取り組みも行っていました。かんなさんが元々「カラーズハウス」という、クリエイターのシェアワークスペースを立ち上げて、そこからさまざまな動きに繋がっています。2012年以前は空き店舗にアーティストやものづくりをしている人たちの入居に力を入れていて、大掛かりなリノベーションが主な業務となっていたんだと思います。私が入った2012年以降、リノベーションは規模縮小していました。それでも、年に1件くらいは大きな改装はあって、それ以外は看板やメニュー表のデザインを受けていたりしました。あとはイベントの企画運営です。2013年までは沖縄市の支援を受けていて、2014年はジュネチックをメインに、沖縄県文化振興会の支援を受けていました。

 

■若狭

町田)その後若狭公民館と関わり始めますが、どのような活動をされているのでしょうか?

 

平良)宮城さんに声をかけてもらって、2015年からNPO法人地域サポートわかさの事業スタッフをしています。一年目は県内にある公立公民館と類似施設の調査と公民館利用者のインタヴューを行って、公民館の現状を調査しました。二年目は公民館職員を対象にプログラム開発講座を開講。三年目から移動式屋台型公民館パーラー公民館の活動を那覇市曙地区で開始しています。

 

町田)若狭公民館の管轄内とはいえ、生活圏内に公民館のない場所に移動式の公民館、パーラー公民館にしようという発想がアートの感覚に近いというか、実際にアーティストを介入させているし、そこで行われるイベントも同様にアーティストが関わっていて面白い取組みをしている印象があります。

 

平良)宮城さんとアートNPOリンクの方とも相談しながら事業を組み立てているので、いろいろな知恵とネットワークで面白くなっているんだと思います。パーラー公民館の設計・監修を美術家の小山田徹さん、制作は県内で活動しているうえのいださんと大工さんです。事業自体は、宮城さんと相談しながら、私ともう一人のスタッフの佐藤純子さんとで具体化していくという感じですね。

 

町田)パーラー公民館を立ち上げ、プログラムを提案していっていますよね?具体的にどういったことをされているのでしょうか?

 

パーラー公民館平良)パーラー公民館は、那覇市曙にあるあけぼの公園を中心に実施している移動式屋台型公民館です。白い大きなパラソルと、黒板テーブルが特徴で、公民館本来の役割「つどう・まなぶ・むすぶ」の3つの機能を生かすため、地域団体、市民・NPO団体、アーティスト、公民館など、社会課題に対して活動する様々な専門機関と連携しながら取り組みを行なっています。
公民館的機能は、人が集る場ではどこでもこの機能が必要だと思います。人が来て、来た人が何を持ち帰って、それをどう社会に還元するか。社会教育の中でアートを手段として公民館という公の場が面白くなれば社会が面白なる、と思ってこの活動をしていて、地域によっての特徴、状況に応じて事業を進めていっています。

 

 

町田)それはあまりにも現状とかけ離れていたらできないので、若狭だと前島とも近い地域の特徴、それにあったものを提案できるといったことがなせる業なのかもしれないですね。公民館って県内幾つかあると思うのですが、そことの連携も図っていたりするのでしょうか?

 

平良)公民館と連携するということはそこまでないですが、情報交換や考え方の共有は必要だと思っています。というのも県内の公立公民館は92館で、そのうち那覇市内は7館なんです。県外だと学校区に1館というくらいあって、全く状況が違う。1館の管轄エリアが広いので生活圏内に公民館がない地域が出てくる。それでパーラー公民館の企画が生まれたので。戦後、沖縄はアメリカ占領から日本復帰するまでの期間がある。日本はその間、公民館や社会教育的な地盤が整っていったけど、沖縄は日本に復帰してからだから、その間は自分たちでやるしかない、だから自治公民館が強い。そういう歴史的なことも含めて、公民館って“沖縄”をあらわしていると思うんです。遡っていくと戦争がもたらした弊害というのかな、そういうのがみえてくる。それを知ると悔しいなと思うわけですよね。あまりにも長い時間当たり前のようになってきている。基地の問題と同じで、長く続くとこれが普通なことになっていく。いろんなことがリンクしている。だからどうにかしたいという意識をもっと持つことで回復できるんじゃないかと思うんです。難しいところではあるのですが、パーラー公民館はやってあげますではなくて、地域の人たちがいかに自分たちの地域をどうにかしたい、どうしたいっていうのを声にしていく、意識していくためのきっかけをつくる仕事というか…。微妙な立場でもある。それは面白いでもあるけど歯がゆい。

 

町田)与えるだけではないとしても、もともとそういった意識ではなかった人たちがすぐ答えを持っているわけではないから、その聞き役として誰かいるのは重要だと思います。当面、パーラー公民館は継続でしたか?

 

平良)事業としては来年が最終年度になります。今年は二年目なので本当は地域で自活できる方法がみえてくるといいんですが、そこがなかなか。一年目思った以上の反応があって、すごい求められているという手応えはあるんですが、私たちは外者なので、いつかはいなくなる。

 

町田)人も込みで求められているということなのかもしれませんね、人がやって来てやってくれるのと自分たちがこれからやっていくとなると別でしょうから。

 

平良)同じやり方ではできないというのはあって、だからこそ地域でどうしたいか、やり方を探さないといけない。そういう段階。見つけていく、一緒に探す。本当は今年でイメージが持てたらいいけど、そこが難しい。

 

町田)引き渡すタイミングもありますね。次の展開ではないですが、いま曙にパーラー公民館がありますが、今後別の地域でもやる予定ですか?

 

平良)今年度は若狭の管轄外で展開することをしています。石垣でもおでかけパーラー公民館としてワークショップも実施しました。離島とか館長が常任でないという状況もあるし、課題や悩みってそれぞれの地域であると思うんです。公民館が面白くなると地域が楽しくなると信じてやっていることなので、ユニークに課題解決できる方法を一緒に模索するのが公民館の役割なのかなと。

 

町田)パーラー公民館のイベントでZINE4づくりと歌のワークショップがありましたが、どうしてそれが必要な要素だと思われたのでしょうか?

 

平良)地域の歌をつくるワークショップで、鶴見幸代(作曲家)さんに講師をお願いしました。自分たちのことが音楽になったり、カタチになることですごい愛着も湧く。お披露目会もあわせて実施したんですが、人が集って披露できる場って大事だなと。人を集める、盛り上がった、やれたというので自信になる。沖縄だったら歌はみんな好きだし。シンプルなんだけど強いなって。ワークショップでは、曙から思い付くいろんな言葉をその場で出してもらってそれを歌詞にしたあと、その辺の石とか葉っぱで五線譜の上にぱっと置いて即興で音楽にしちゃった。結構ハードルの高い歌なんですけど、でも自分たちの発した言葉や行為が音楽になるんだってなる。関わった人たちにとって想いは強い。初めて聞く人にとっては難しいかもしれないけど、地域の人なら歌詞の中に自分の知っているお店やお寺の名前が入っていたりすると、テンションあがるでしょ。まず愛着を持ってもらう。曙は埋め立て地なので歴史が浅いって思っている方たちもいるんだけど、そこで人が生活してきているので絶対に地域としての資源がある。
ZINEのワークショップは、曙にいろんないい資源(人・団体・取り組み)があるんだよというのを地域の人に知ってもらうことを目的にしています。いろんな活動をしている人たちがいて、その人たちに支えられて子どもたちは育っているし、親にとっては見えないところでいろんな人たちが支えてくれているのが分かったら嬉しいじゃないですか。それを知らせる媒体としてZINEがある。ZINEKIOSK(ジンキオスク)は、情報発信・収集の機能をもった地域発信型移動式情報センターで、それに地域のZINEをつめてお出かけしています。公民館的機能をユニークな方法で展開している、それがパーラー公民館です。
実は、曙自体は動ける人がたくさんいて、いい資源がたくさんあって、パーラー公民館はただパラソルと黒板テーブルがあるだけなのにすごい盛り上がる。これってすごいと思うんです。こっちがすごいみたいになっているけど、盛り上がれる地域がすごいと私は思う。素地があるというか。でも、自分たちの持っている可能性に気付いて、次の動きにしていくのが難しい。

 

町田)a-newもZINEとしての側面、そういったとこが各所に取り入れているんだなというのが見えます。繋がることを続けているのかなと思います。

 

平良)MACで培ったことと反省したこと(笑)、どちらもいろんなところに反映してはいると思います。

 

町田)解散から年月が経って関係者がいるうちに話を聞きつつ、それがいまの動きにどう重なるのかなというのを検証していけたらと思っています。ありがとうございました。

 

 

(1)先祖供養を目的に芸能や祭りで集落の路地を練り歩く「道ジュネー」の「ジュネ(沖縄の古語で「巡る・連なる」の意)」に由来し、時間や記憶をジュネ(巡回)するというテーマに基づき、展示構成され、アーティストが地域に滞在して制作を行った展覧会。

(2)2012年より始まったうるま市観光物産協会が主催のアートイベント。

(3)沖縄市の商店街にあるシェアスタジオ。

(4)自由に表現した手作りの情報誌。内容・形・サイズも作り手の自由。パーラー公民館では、ワークショップを通して、地域住民が地域の情報誌を制作している。

聞き手町田恵美、親川哲
収録日2018年11月26日