Interview アートに関わる様々な方へのインタビュー記録

比嘉豊光

アトピックサイト

Profile

写真家。1950年、沖縄県読谷村楚辺生まれ。琉球大学美術工芸科卒業。写真集に『赤いゴーヤー』、『光るナナムイの神々』、『フォトドキュメント 骨の戦世』など。2013年6月23日には、雑誌『N27』創刊。

■沖縄プロジェクトでの立ち位置 ーシュー・リー・チェンとの関わり

岡田)1996年8月に東京国際展示場において行われた展覧会「Atopic Site」展(以下アトピックサイト)のプログラムの中で行われた、沖縄プロジェクトでは読谷村がひとつ重要なサイトだったと聞いています。読谷に住みながらプロジェクトに関わった豊光さんは、どのような立場であったのか、作家として関わったのかどうなのか等について伺いたいです。

 

比嘉)僕はアーティストの滞在場所の提供と、そこでイベントをやったり、写真を撮ったりした。

 

岡田)ゆめあーる(比嘉さんの経営していたペンション)にアーティストが泊まっていたのですよね?

 

比嘉)そうよ、シュー・リー・チェン(アーティスト、以下シュー・リー)はね。資料もいっぱいあったのに、捨てちゃった。

 

町田)シュー・リーと地元との衝突があったと言われているのですが、どういうことがあったか教えていただけますか。

 

比嘉)彼女とは日常の中で一緒にいたから、僕なんかとの衝突はないわけよ。だって、飯を食ったり、遊んだりってのが一緒なんだからさ。プロジェクトを進める段階で結局、俺英語できないから衝突もできないさ、考えたらさ(笑)。

 

町田)実際に彼女が作った作品はどういった内容だったのでしょうか。

 

比嘉)基地問題を可視化するということで、旗を読谷のいろんな場所に立てるという作業と、象の檻(読谷村楚辺通信所)でも行動をやるって感じで、座喜味城址とか象の檻に旗をたてて、象の檻ではインターネット中継なんかもやったんだよね。象の檻に知花昌一(楚辺通信所の地主)さんが入る、入らないっていう、あの時にあちこちに旗をたてるってのをシュー・リーの発案でやった。僕は象の檻に行って、撮影をしていた。

 

町田)撮影っていうのは、そのプロジェクトの記録撮影ですか?

 

比嘉)そう、僕はその記録をやるっていうのも含めて引き受けていたから。

 

岡田)高嶺剛(映画監督)さんとは別にですか?

 

比嘉)うん、高嶺はビデオで、僕が写真。

 

岡田)アトピックサイトに関しての文章が雑誌『インパクション 99号 「沖縄封じのアトピック・サイト展 大榎淳」 インパクト出版会1996.10』』に載っているんですが、シュー・リーと協力者達との分裂が起こったということは書いてあるんだけど、何が起こったのかよくわからないんです。何があったのでしょうか。

 

比嘉)それはシュー・リーが後から言葉としてしゃべったのをまとめたんじゃないの。こちら側から聞いてってのはないんじゃないか。そこら辺は東京の企画の問題なのか、金の問題なのか、沖縄側で誰がシュー・リーとごたごたしたのかってのは僕は全然わからない。

 

岡田)豊光さんはシュー・リーと衝突していないんですね。

 

比嘉)何か問題があるってことで翁長直樹(元沖縄県立美術館副館長)らの沖縄側と東京の主催者側とが話し合うってことは2回くらいかな、やっているよ。

 

岡田)それは東京の主催者の人たちからプロジェクトの内容を変更するように指示があったということですか。

 

比嘉)そうそう、読谷で話をしたのか那覇で話したのかは僕はわからないけど。

 

町田)豊光さんとはごたごたはなかったとしても、読谷の各地に旗をたてる中で、地元の人たちからの反発ってのはなかったんですか?

 

比嘉)地元の反発って旗をたてることに関して?そんなの全然聞いてないよ。

 

町田)資料でみましたよ、地元の人からすると旗をたてられることで気持ちが逆撫でされるというか、読谷といえど広いじゃないですか、結構広範囲に旗をたてるプロジェクトだったんですよね?それが、事前に説明がされているわけではなくて、急にやってきて作業をしてぱっと行くというような感じなのが、理解されない地域もあったのかなと思ったのですが。

 

比嘉)いや、知らない。

 

岡田)あとはアトピックサイトに関して主催者やキュレーターへの「公開質問状」というのがweb上にあって、(http://www.araiart.jp/ap.html)そこに沖縄のプロジェクトについての質問が書いてあったのですが、公開質問状にも豊光さんは関わっていないですか?

 

比嘉)全然関わってない。それも不思議だね。

 

岡田)不思議ですね、現場にいた豊光さんは知らない、衝突してもいない、シュー・リーとは仲良くご飯を食べていたんですね。

 

比嘉)ただ、後から英語ができる友人から、シュー・リーがとんでもないことして話にならんよね、わがままだからねって話は聞いているわけさ。でも、ああそうって感じで。だって僕らとは関係ない、東京での展示作品に関してはもう完全に別って感じに途中からなったから。そこからはあまりシュー・リーは僕の事務所にもこなくなっていたんだけどさ。共同制作やる時までは一緒だったからね。

 

岡田)シュー・リーはどのくらいの期間、ゆめあーるにいたんですか?

 

比嘉)2、3週間くらいかな。

 

岡田)豊光さんのところに来た時にはシュー・リーのプランは決まっていたのですか、読谷で豊光さんたちと内容について話し合ったりなどはしなかったのでしょうか。

 

比嘉)いや、僕らと話し合ってってことはない。

 

 

■東京での展示、その後

岡田)豊光さんもそのあと東京に展示に行く時には一緒に行きましたか?

 

比嘉)象の檻を作る時に行ったよ。

 

町田)豊光さんの作品は、撮った写真ということになるのでしょうか?

 

比嘉)写真のスライドショー。プロジェクターで象の檻にプロジェクションをした。

 

岡田)それは翁長直樹さんから豊光さんに、招待作家として作品を撮って下さいと依頼があったんですか?

 

比嘉)どうだったかな、覚えてないよ。

 

町田)プロジェクトの話があって翁長さんがどうしたらいいかと、場所の提供やアーティストの受け入れに関して相談したような感じじゃないでしょうか。

 

比嘉)ああ、受け入れ先としてね、話がありましたよ。それと、象の檻をつくるから沖縄をテーマに写真を撮って、それに上映してくれって。プロジェクトの記録も撮ったけど、テーマが沖縄っていうので米軍基地のフェンスとか、ゲートを撮影してそういうのを全部入れこんで上映したわけ。

 

町田)実際に東京に展示に行かれて、布が作品にかけられているのを見ましたか?

 

比嘉)布じゃないでしょ、ついたてで全部覆われていたよ。

 

町田)象の檻をさらに囲んでいたと。それを見た時は最初どう思いました?

 

比嘉)その会場自体にね、何かがあったのかなとしか思わなかったさ、まさかここだけとは思わなかったよ。だってあんなの囲うって囲ったほうが作品が強烈になるよね。その前日に、夜中まで結構激論したんだよね、主催者側とさ。でも折り合いがつかないからもうしょうがないね、明日だねもう帰ろう、っていって、朝になって行ってみたら全部囲われていた(笑)

 

岡田)そのあとどういう風にしていったんですか、主催者に抗議しに行ったのでしょうか?

 

比嘉)その後ごちゃごちゃして、展示物をちょっと変えたりして次の日にはもう囲いはとられていたはずだよ。でもそのくらいだったら別にどうってことない。

 

岡田)いくつか残っている当時の文章を読むと、沖縄の米軍基地関連の資料等を読めるようにしていたのが、ひとつは座って読むために置かれていたイスがなくなって、その資料自体も展示に関係のない、沖縄の食文化等の資料が追加されて混ぜられていたと。なおかつ毎日朝行くと、その基地の資料が別の関係のない資料の下に隠されているってのが延々と毎日繰り返されたと読みました。

 

比嘉)僕もずっとは東京にいなかったからね、2泊3日くらいだったから。展示してすぐ帰ってきちゃった。だけど、そういうのは大したことないよね。

 

岡田)じゃあ逆に今残っている資料で、沖縄の展示で問題があってということがかかれている文章は、『インパクション(99)』に書いている大榎氏も、公開質問状の文末に記載されている文責者の4氏(イトー・ターリ
、大平透、
田崎英明、
守谷訓光)も沖縄の外の人なんですが、沖縄からではなくて、周りの人が発言していたということなのでしょうか。

 

比嘉)だってそもそも、僕らが東京で展示することになったのは、シュー・リーと対立したからでしょ。シュー・リーは別個に展示をしていたんだけどさ、本来はシュー・リーと一緒に制作してもっていくというか、彼女がメインになるさ。アーティストインレジデンスだから彼女の表現、作品がメインとなって沖縄側がサポートして作ったってわけでしょ。だけど分裂したからシュー・リーはシュー・リー、沖縄側は沖縄側で出さざるを得ないというだけの話なんだから。僕らだって別に大した事をしに行っているわけでもないし。

 

町田)そもそもシュー・リーのレジデンス作品をアトピックサイトでは展示する前提だったと。何人か作家がいる内、豊光さんたちも彼女と同格の参加作家というわけではないってことなんですね。

 

比嘉)そりゃそうでしょ。彼女の作品に協力して制作するってことでしょ。

 

町田)自分が作家として、っていう認識ではなく分裂したので沖縄サイトのそれまでの記録を発表したということなんですね。

 

比嘉)最初から自分が参加作家という意識で作品を発表するということだったら、これは、、ってことになるけどそういうことでもなかったから。ただ展示されたものに対して、主催者側はああいう行動をとるから相当敏感だなって感じはするんだけどさ。

 

 

■現場とのズレ

岡田)あとは公開質問状にジェンダーの問題があったと書かれていて、シュー・リーは女性とプロジェクトをやるつもりだったのに、ボランティアで集められていた人たちが男性主導であったことに抗議していたと。それも豊光さんはよくご存じないですか。

 

比嘉)うん、知らないね。

 

町田)豊光さんは一緒にやっていて、不平不満があったようには感じていないのでしょうか。言葉の問題ではなく気持ちの問題だと思うから、嫌な空気ってわかるはずじゃないですか。不穏なことはなかったと認識されているのでしょうか。

 

比嘉)いや、僕はサイトの引受人で一緒に飯食ったりとかそういう感じだから。旗を作る時もアイデアをもってきて現場ではわいわいやっていて。何本つくるとか、最後のところでお金がすごくかかるとかそういうことではなかったのかな。ああけど、分裂した後は沖縄の女性団体が引き受けたんだよね、そのあとは彼女達とくっついてシュー・リーは制作したんだった。そもそもこの(公開質問状の)人たちは読谷の現場にきて僕らには聞いてないしね、たぶんだからシュー・リーの言い分を聞いて、書いたのではないかな。思い出した、この「沖縄封じのアトピック・サイト展」という記事を書いている大榎淳は僕の友達だった。象の檻での戦いをインターネットのライブで世界に流すってことをしたのよ。ライブで世界にどうやって流すかってことは僕らはわからないから、彼らがきてやったのよ。彼はその後も沖縄に来ているから会ってるさ。

 

■その後に残ったもの

 

比嘉)僕はゆめあーるをやっていて、そこに外国から来たアーティストのシュー・リーが泊まって、アートプロジェクトをやるってことで読谷サイトには、しょっちゅういろんな人が出入りしていたのよ。相当メカに強い、コンピューター関係の人とか。仲本賢(沖縄県立芸術大学教授)さんや照屋勇賢(アーティスト)もその時に来ていたね。山城吉徳さんって今の『琉球弧を記録する会』のメンバーもその時に出会った。小林豊さんや永津禎三さん(共に琉球大学教育学部教授)もしょっちゅう読谷サイトに来ていた。実をいうと、僕たちの『琉球弧を記録する会』もその時期に発足したんだよね。アトピックサイトは96年でしょ、『琉球弧を記録する会』は97年からなんだよ。読谷サイトをやって、いろんなアーティストも関わるし、コンピューター関係も関わるし。そこでいろんなことが起こっていったのよ。一週間に一回くらい会合みたいなのを僕の事務所でやっていて。

 

町田)それも含めて、東京で作品が発表されたことが今に繋がっているということでしょうか。

 

比嘉)いや、そうではなく人の繋がりだね。沖縄の中での人の繋がりってこと。それと記録を残す為にビデオカメラを読谷サイトにくれた。それが実は僕の映像の始まりだからね、デジタルでさ。

 

町田)それは今に至る決定的なことですね。

 

比嘉)そうそう、『島クトゥバで語る戦世』(沖縄戦の証言記録)はそこから始まりました。

 

比嘉)人材として山城も残ったし、町田ってのもそれから4、5年くらい僕らのコンピューター関係の手助けをしてくれたのよ。サポーター的に永津先生とか小林豊とか、仲本なんかも関わったんだよ。一緒に活動したり、パーティーしたりとかさ。読谷サイトはそういう意味では、シュー・リーがいなくなってもそのサイトは残ったんだよ。それが今の『琉球弧を記録する会』のはじまりってのも含めて。そういうアートの動きとしてはね。

 

岡田)結果として沖縄は沖縄でそれが別の形で残って、『琉球弧を記録する会』だったり、照屋勇賢さんがニューヨークに行ったきっかけになったり、そういう意味ではその後の沖縄の美術の重要な動きのきっかけになったできごとでもあるから、悪いことばかりじゃないよと。

 

比嘉)何が悪いことがあるの?

 

岡田)今まで、何かの度にアトピックサイトの話を聞いたり、資料を調べたりしたのですが、聞く話や残っている資料はネガティブなものばかりで。でも沖縄側からの発信はほとんどなかったので、違った見方があるということがわかりました。沖縄でのごたごたっていうのは事務局サイドのシステムやお金のことだったりで、豊光さんとしては『琉球弧を記録する会』もできたし、機材も残ったしよかったということですね。

 

比嘉)まあそれは後からの話だからね(笑)、最初からそういう魂胆は何もないよ。今となればね、いいように考えたほうがいいのではないですか。

 

聞き手岡田有美子、町田恵美
収録日2014年9月17日